2019年9月10日火曜日

▼カテゴリについて

日常の記録のほかに、旅をした時は特別に記録をつけています。以下、カテゴリ別に説明を記載。


2016デュッセルドルフ滞在記
FFT Düsseldorf NIPPON PERFORMACE NIGHTにBricoalQが招聘され、ドラマトゥルクとして会期終わりにドイツを訪ねた時の記録。この2か月前から藤原ちからはひとりでリサーチを繰り返し、本を製作していたので、私のこの日記は、彼が仕事を終えたあとのもので、彼の苦労や孤独を汲み取ることがうまくできていなくて申し訳ないです。フェスティバルの様子やデュッセルドルフの街のこと、毎日のたべものなどの備忘録と思ってお読み下さい。


小豆島滞在記
瀬戸内国際芸術祭2016年夏会期に、劇団ままごとに帯同して「喫茶ままごと」の店員をしていた時の記録。劇団員の話はときどき出てきますが、坂手港の人々との交流が中心となっています。文中の固有名詞はあえて統一していないので、最初に出てきたあの人が、次はそれとわからない形で再登場していたりもします。


城崎再訪記
2016年7月に、ふたたび城崎国際アートセンターに滞在した時の記録。『演劇クエスト』改訂を目的に滞在しました。昨年出会った人々との関係がより成熟し、「ただいま」「おかえり」と言えるようになってからの日常です。


城崎日記
2015年8月に、『演劇クエスト』制作のために城崎国際アートセンターに滞在した時の記録。はじめて訪れた但馬で、だんだん人々との交流が深まっていく様子を書いています。


2012年北京日記
2012年6月に、まだ会社員だったころ、北京に出張した時にノートにつけていた日記メモを転記したもの。食べたものの話や、現地法人の中国人社員さんとの会話などの記録。天安門事件が起きた記念の日に北京に居合わせたことは、忘れがたいことです。


2012北京再訪日記
同年9月に北京にふたたび出張した時の記録。この年は、反日デモが大変に盛り上がって、危険ではないかと言われつつも、ひとりで現地に送り込まれたのでした。

2017年9月12日火曜日

東京バレエ団『20世紀の傑作バレエ』

2017/9/8(金)
明日のチケットを取っていたが、先生とメールしていたところ「私は今、文化会館に向かっています」と返ってきて、えっ、いいな! やっぱり行っちゃおうかな、当日券……と思いながらぼやぼやしていたら、17:30からの当日券発売時間になってもまだ家にいるという状態で、何だかんだまだぼやぼやしていて、19:00開演だというのに、上野駅に着いたのは18:58だった。最短ルートで文化会館に駆込み、入口の当日券売り場でA席を衝動買い。1時間近くかけて上野までやってきて衝動買いも何もないが、とにかく1階席の下手側を確保した。パンフレットは明日買えばいい、すぐに休憩があるのはわかってるから大丈夫、配役表だけとりあえず奪い取るようにもらって、ホールに飛び込んだ。


▼イリ・キリアン振付『小さな死』(原題:Petite Mort)
東京バレエ団初演のこの演目。
本日のファーストキャストでは、岡崎隼也、川島麻実子と柄本弾、崔美実とブラウリオ・アルバレス、秋本康臣が印象深かった。冒頭で男たちがかざす剣が、ヒュッと空を切る音が耳に残る中、モーツァルトの二つのピアノ協奏曲(第23番、第21番)で男女が一組ずつ踊り始める。
タイトルが示唆するとおり性的でもあるけれど、清らかさもあって、まだ残りの2演目観てないけど私はこれがいちばん好きだな、と最初に直感した。ありふれた言葉で申し訳ないけれど「エロス」と「タナトス」、このふたつの言葉に集約できると思う。でもバレエダンサーという人々はとてもストイックだし、バレエというのはバランスの芸術だから、そしてセックスというものはバランスを崩して乱れてこそ溺れられるものだから、どちらかというとやはりタナトスが勝る。


▼ローラン・プティ振付『アルルの女』
こちらも東バ初演。ビゼーの艶やかなファランドールが響く中、フレデリ(ロベルト・ボッレ)、ヴィヴェット(上野水香)、男たちと女たちの群舞は牧歌的にも見える。しかしだんだん不穏な空気が漂ってきて、フレデリとヴィヴェットがすれ違う様子、村人の男のひとりがフレデリに何かを耳打ちした様子(もちろん、アルルの女が他の男と駆け落ちする、という話だろう)など、舞台は破裂しそうな緊張感に満ちていく。
装置デザインのルネ・アリオはゴッホの絵画『刈り入れをする人のいる麦畑』(どうでもいいが今変換する時に「刈り入れ」が「借り入れ」と表示されたのは悲しかった)に着想を得て、背景幕をつくったらしい。ダンサーの上空にある大きな板が、農村ののどかさと、閉塞感の両方をあらわしていて秀逸だった。
窓枠からフレデリが飛び降りる……というよりは飛び込む、一瞬の幕切れのカタルシスがとてつもない。


▼モーリス・ベジャール振付『春の祭典』
秋だけど春の祭典が上演されるのであった。
この作品は、「男と女」や「雄と雌」という概念を超越して最終的には「人類」とか「いのち」に見えるのがいちばん良いところだと思う。私自身が今、女としての自分が結構どうでもよくなっているため、それに救われるのだろう……と真剣に考えていたのに、隣のおばさん二人が、幕が開くなり「蛙の群れみたい」とかなり聞こえる感じの声で言い出して、いや確かにどう観ても蛙の大群ですけどそういうことは口には出さないでほしかった。
男性の生贄は岸本秀雄で、優美ながらも覚悟を決めて舞台中央に向かう姿に胸打たれた。リーダーと若い男(ブラウリオ・アルバレス、和田康佑、岡崎隼也、杉山優一)の中では岡崎隼也がいちばん残酷だった。
女性の生贄は奈良春夏。6月の『ラ・バヤデール』でガムザッティを演じたのを観たのを思い出しながら見とれる。でも、強烈な個性とインパクトのようなものが彼女には、ちょっと足りないかなと思う。
男性群が曲線的、女性群が直線的、つまり一般的な男女の身体の造形のあり方と逆の振付がなされており、それが性的にいやらしく見えないどころか、崇高にさえ感じられる秘密だろうと思う。



2017/9/9(土)
セカンドキャストの日。24時間も経たずに同じ演目を観る自分。しかもセンターブロック3列目という良い席を確保していた。なぜなら明日は私の誕生日だから、贅沢をしたのだ。


▼イリ・キリアン振付『小さな死』(原題:Petite Mort)
冒頭、男たちが剣を頭上に掲げて後ろ向きに歩いてくる。前を向いて、剣を足下に置き、足を使ってぐるりと捌く。剣がうまく回せているか、足下に目線を落とすダンサーがいる中で、安楽葵だけが(たぶん。でも記憶に鮮烈に残ってるから、たぶんそうだ)前方を見つめたままこなしていて、しかも彼は東バのダンサーにしては上半身下半身ともにかなり強そうな筋肉(全体的に日本のバレエ男子は細身過ぎる気がしている)で、ものすごく惹き付けられた。冒頭の印象が鮮烈で、榊優美枝とのペアで踊るところはぼうっとしてよく覚えていない。吉川瑠衣と宮川新大ペアの美しさに息をのむ。ちなみに宮川新大は日本一美脚な男性バレエダンサーである(私個人の認定)。あと、岸本夏未ってとても洗練された外見だな、と気づいた。
隣に座っていた若い女性ふたりが「この人しかわかんなかった」と言って、配役表のブラウリオ・アルバレスの名前を指差していた。おい、きみたちはブラウリオしかわからないのになぜこんないい席で観ているのか、訊ねたくなったが黙っていた。


▼ローラン・プティ振付『アルルの女』
今日はフレデリが柄本弾、ヴィヴェットが川島麻実子。ヴィヴェットのむくわれなさ、健気さは川島麻実子の方が見応えあると思って、今日のチケットにしたのだった。柄本弾は、不幸にも(これは幸福にも、と同じ意味である)イケメンすぎに生まれたせいでいつも表情に頼って踊ってる傾向がある、うまく言えないけどミュージカル俳優みたいな時がある、と思っていたのだけれど、このフレデリのキャラクターではその表情の豊かさが存分に良い方向に発揮された。幻のアルルの女に魅入られるフレデリの狂気は、これくらい顔で演じないと伝わってこないのだ。なぜならアルルの女は登場しないからだ。演劇など、ほかのパフォーミングアーツでもしばしば「舞台に登場しない人物」「台詞のみで語られる人物」が鍵を握ることがあるが、言葉を用いないバレエにおいて本作の柄本の表情はとても雄弁だった。
女性たちの中では、個人的に注目している秋山瑛(あきやま・あきら)、足立真里亜がやはりきらめきを放っていた。
思ったとおり、川島麻実子の薄幸さは際立っていて、バレエ界の薄幸美人ぶりで言えば川島麻実子の右に出る者はもはや川島麻実子である。


▼モーリス・ベジャール振付『春の祭典』
今日の生贄は入戸野伊織(にっとの・いおり) 。儚げな雰囲気を持つ彼が、生贄に決まった時の、よろよろと絶望して歩く悲壮感に、ぞっとした。昨日よりずっと、リーダーと若い男(ブラウリオ・アルバレス、和田康佑、高橋慈生、樋口祐輝)の4人のサディスティックさが恐ろしく見えた。特にブラウリオは今まで、とっても協調性のある(それゆえ逸脱しない)ダンサーだなと思っていたけれど、とにかくこの作品、男性パートの生贄の決め方がエグくて、入戸野に決まった瞬間、びしーっと指差すブラウリオがマジで怖すぎた。
女性の生贄、今日は伝田陽美だったけど明日の10日は渡辺理恵か……さぞかし良いだろうな……と個人的な未練を残してフィナーレ。集中しすぎたため、あまり批評言語化できない。
もし何も知らない人にベジャール作品を説明するとしたら「最後の一瞬を見逃しちゃ絶対ダメだから油断せず集中して」とアドバイスを送りたい。間違ってないと思う。


そういえば、今回は前衛的な演目のためか、いつもより、というか全然、親子連れがいなかった。子どもの時にこそベジャールとか観て人生踏み外したらいいのに。

2017年7月5日水曜日

バレエのレッスン見学記録

緑が丘のスタジオ、Ballet Resonance火曜日クラスのレッスン見学に、行ってきた。私は昔から、「稽古場での演出家インタビュー」や「稽古場レポート記事執筆」に、ひそかな苦手意識を持っていたんだ実は、ということを、スタジオの外のガラスからひしひしと感じる二時間だった。

なぜなら、俳優やダンサーは、感じてるより考えてるより、身体が軽くて早い。そうしたものが生まれる現場に、私は物書きのメンタリティ一筋でのぞんでおり、でも舞台芸術のためならどんな素晴らしい瞬間でも、私なら言葉にきっとできるんじゃないかって、思いながら騙し騙し(というわけではもちろんない、 誠実に、誠実に向き合ってきて、でも最近は誠実だけでは乗り越えられない壁を感じていて、それを突破するにはバレエレッスンしかないんじゃないかと、多少省略するとそんな感じなのだ)批評やら何やら、演劇人のメールマガジン発行をがんばっているけれど、自分の「文体」の更新には、やはり自分の身体の更新が欠かせない。そう思って、新しい場所に踏み出すのは怖かったけれど、勇気を振り絞って見学に行った。

講師は松野乃知さん、片岡千尋さん。生徒は30代後半から50代くらいまで、すべて女性。
私はあまりに舞台鑑賞を多くしすぎてきて、見た瞬間に 「この人がいちばん経験豊富でうまい」「この人は実直だけれど股関節が固い」などというのが、わかってしまう。わかってしまうのというのは面倒な能力のひとつで、ただこれは、真珠鑑定職人がよい真珠を見極めるためにはまず最高級の真珠を見まくる、そうすると真珠のランクが一目でわかるようになる、というような経験と蓄積の問題で、私にはただそれがわかってしまう、ということである。まず、このような「観察者」としての自分の癖をひっぺがすところから、ゼロベースで見学するところから、始まった。
 
松野さんの重力係数は、いくら軽めにお手本を見せていても群を抜いて軽く、まるで月の使者のようですらあった。弱音(じゃくおん)の表現がどれだけ美しいかもプロの証である。彼が本気で跳んだら、きっとスタジオの天井は吹っ飛ぶ。

結局2時間以上、スタジオの外のガラス張りのところから見学させてもらって、最終的には、憧れと恐怖は紙一重、と感じて終わった。「普段の見学者の方は15分くらいでお帰りになります」と片岡さんはおっしゃっていたが、いやいや、バーレッスンの先を見ずして何がわかるのかと思う。松野乃知が軽々とお手本を見せ、参加者たちは経験と情熱に突き動かされてそれぞれ汗まみれでチャレンジを繰り返す。そのうち、私とスタジオを隔てるガラスがうっすら、参加者の熱でくもるのがわかった。ガラス越しでは、かかっているクラシック音楽も遠くにしか聞こえない。

この感覚、ちょっと寂しい感じ、私、知ってる。 と急に思った。中学生か高校生の頃、すでに私はかなり同級生の中でも「観察者」の存在になってしまい、しかも本ばかり読んでいたり、文章を書き散らかして文集にたくさん載ったりしていたものだから、なんとなく同級生たちから「勉強ができる人」と思われて、心理的な距離があったのを覚えている。放課後、校舎内を声を掛け合って走るテニス部の子たち、鏡を使ってダンスの練習をするモダンダンス部の子たち、音楽室で練習するオーケストラ部の音色。そういうものを全部全部、こうやって、今みたいにガラス越しに眺めて、彼女たちを描写して、文章にしたためることで、私は孤独を乗り切っていた。演劇部だったから、ときどきは台本を読んで立ち稽古をすることもあったけれど、どうも俳優は私に向いてない。身体を動かす神経が通ってない、と悩んだ。舞台をぼーっと見ながら、「舞台に出たい」「立ちたい」と思う人々の心を想像する方が楽しかった。その上で、もっとこうした方がいい、という意見をのべるのは好きだった。その後、大学生活での演劇制作を経て、はっきり「舞台をつくる」のは向いていないとあきらめ、観察者としての文体を磨き、観劇経験を積み、とにかく言葉で、言葉でアウトプットするように開き直るまでにはずいぶんと時間がかかった。
あの頃は、お弁当もときどきひとりで食べていた。女子校でお弁当をひとりで食べるのは、かなり寂しいことである。明確には15歳の夏に形成された(この時の話は端折る)物書きとしてのメンタリティは、その後私に、よくもわるくも「観察者」という免罪符を与え続けてきたのではないか。

そこで話はスタジオに戻る。バーレッスンまでは、日頃のおさらいというか、ルーティンなのだろう。人差し指を綺麗に立てると、美しく見えるんだな、ということがバーレッスンではわかった。

バーを片付けてからの講師の松野の指導は、かなりスピーディで、参加者からは「わ、できなーい」みたいな笑い声がいっせいに起きたりもしているが、詳しいことは聞こえないからわからない。でもこれも、中学生の頃聞いてた、遠巻きの同級生たちの声みたいだった。どこでもちょっと、居場所を外れてしまうのが、私なんだよなあ。でも、だからこそ見えて書けるもの、あるんだよなあ。

そんな私に、身を戦慄させる出来事が起きた。
松野がお手本を見せる→生徒たちが繰り返しやってみる、という流れの中で、もはやレッスン時間も終盤、松野はジャンプからターン、再び跳んでポーズ、という指示を出した。(このあたりのパの名称は細かくは私にはまだわからない)軸をブレさせることなく、ふわっふわっと彼は重力に逆らうように跳ぶ。それを見た瞬間、髪の毛が逆立つような気がした。自分が今まで「観察者」の免罪符を得て避けてきたものは、この「跳躍」だったのだと、雷に打たれたように、気づいてしまったのだった。

運動は苦手だった。特に跳ぶのは嫌いだった。なぜかというと、思春期になって胸が大きくなって以来、動くのがわずらわしかったというのは理由として大きい。大人になって貧血が慢性化するようになると、ランニングなどで身体を動かすことも難しくなった。その状態が膠着して、それでも根を詰めて演劇を見まくり、書き物をするものだから、使いすぎる頭と使わなすぎる身体のバランスが、もうぎりぎり崩れる手前で、いや、正確にはもう崩れてどうしようもなくなったから今日このスタジオに、どうしてだか来たのだった、と思い、ひとり見学場の椅子でひざをかかえて震えた。

そもそもなぜ自分がレッスン見学に行こうと思い立ったのか、謎の勇気が、僅かな野性が、自分を押し出したような気がする。遠くへ行けないなら今ここで高く跳べ、と。私、日ごろ客席に安住しすぎている。時代に切り込むような、ひりひりする現代演劇の体験を重ねても何か足りなかったのは、この「跳躍」への恐れだったんだ、ってわかって、でもわかったところで自分が跳べる気がしなくて、憧れと恐怖の紙一重を、味わっていた。
これまで仕事で訪れた演劇の稽古場、俳優の稽古場が何となく怖かったのも、彼らが私の思いも寄らない身体性を、声を、するすると手元に引き寄せて魔法のように組み立てていくことに、劣等感と憧れを持っていたからだった。稽古場は、私の「居場所」じゃない、「場違い」な人間だ、とずっとずっと思っていた。私は「観察者」であり「記録者」だ。その矜恃があまりに強くて、だから客席に座る時はいつも安心して、どんなにそれが社会性を帯び、観客自身の思想を揺さぶるような演劇でも、(時に涙をぼろぼろこぼしながらも)ぎゅっと受け止めて来られたのは、演劇について書き記す使命に、安住しすぎていたからではないか。それはそれで、息の詰まるほどの矜恃だったとは思いたいけれど。
今年から私は、仕事の形態を大きく変え、昨年までは小豆島や城崎、デュッセルドルフなどに大きく移動をしながら演劇に携わってきたけれど、今は東京で、この街で自分にできることをひとつひとつやっていく覚悟だ。でもその中で、見ないようにしてきた不安があった。本当はもっと遠くに行きたい。でもできない。移動なしで、どうやって自分の身体を確かめるのか。文体をより強く持つにはどうしたらいいか。昨年から、たまにフォトグラファーのモデルをすることがあり、服を着ていたりいなかったり、さまざまなんだけれど、そこで掴みかけた身体性での戦い方を、もっと深めていきたいと、思っていた。その答えが、レッスンの終盤に急に見えて、それを求めてきたくせに、怖い、怖い、こんなことがいつか自分にできるんだろうか。私も跳んで、ふわりと着地、なんていう身体になることができるんだろうか、と涙が出そうになった。 でもここを越えたら絶対に、私の文体は変わる。 

昨年、デュッセルドルフで観た松根充和(日本人演劇作家/ダンサー・ウィーン在住)の『踊れ、入国したければ!』というセンセーショナルな作品がある。アメリカで起きた、入国審査官がイスラム系のアメリカ人ダンサーに尋問をして「入国したければ今ここで踊って、ダンサーであることを証明せよ」とひどい言葉の暴力をあびせた、というニュースを題材にしたシニカルで、真摯で、笑える作品だった。私はそれを見て、当時友だちだったあるバレエダンサーに「もしあなたがアメリカの入国審査官に、アジア人だからってそんなこと言われたらどうする?」と尋ねたのだった。彼は即答で「僕、踊りますよ。おいおいもういいからって言われるまで、跳んで踊って回ります!」って笑ってくれて、その瞬間、私はダンサーという人種の身体の強い根拠に、魅了されてしまったのだった。松野さんだって、片岡さんだって、もしそんな目に遭ったらきっと「じゃあ踊ってやるよ」と思いながら相手を打ちのめすまで踊り倒す力を、秘めてる。そう思った。そういう強さに、今私、ものすごく惹かれてる。必要としてる。憧れている。

遠くへ行けないなら今ここで高く跳べ。

恐ろしい発見を得て、中学生の頃からのコンプレックスまで思い出しちゃって、何だかすごい夜だった。松野さん、片岡さんは同じ人間と思えないくらい美しくて、でも私も同じ人間、彼らとはべつの部分を磨く人生だっただけで、これからもっとひろげて、おもしろいもの、書いていけるんじゃないか。スタジオを出ると嵐がひどく、でもこの大雨にさえも勇気づけられて、怖い、怖いという気持ちが残りながらも、本当に「稽古場」を観に行って良かった、と思ったのだった。

2016年11月21日月曜日

この秋のこと

ドイツの写真を持って、小豆島に行った。「まきちゃんが、最終的に幸せになること目指してんのやったら、誰と何してもどこ行ってもええんちゃう」って苦笑いしてくれる友だちがいた。それでも寂しかった。でも秋の海は冷たかろうと思って耐えた。

※以下は覚え書き。
瀬戸内少女、さらちゃんの話。
みほたんとシュークリームを食べた話
これから先18年のこと。
最終的に京都に住みたいという話。
ラクリッツというグミの味を愛する人について。
人権発表会の演劇について。
オーラがあるということについて。

2016年11月4日金曜日

デュッセルドルフ滞在記(日記)

▼10/21
AM11:00の飛行機。機内食2回。和風(うな玉丼)、洋風(ハンバーグ)のどちらがいいか、おすすめは和風である、と言われて、洋風を選んだ。後悔のない選択だった。
両隣が巨漢で、圧迫感がひどかったので、むりやり眠るために飲み薬を飲んだ。そうしたら、2回目の機内食で何を食べたかまったく思い出せない。
空港にはマリーが迎えに来てくれて、滞在先となるシュトレーゼマンシュトラッセのアパートメントまで連れて行ってもらう。Fと再会。夕食は近所の台湾料理で、麺とルーローハン、餃子。眠る前、キッチンで近況を話し合いながら、なかなかすれ違いの時間が長かったので埋め合わせが難しいなと感じた。


▼10/22
朝に、スーパーマーケットで買っておいたパンをひとつ食べる。昼は、加賀屋という和食屋さんで、生姜焼き定食。唐辛子が入っていた。Fは迷って、唐揚げおろしポン酢定食。分けて食べる。
夕方17:00ごろ出発して、トラムに乗ってインゴ・トーベン『MAZING CITIES』を体験しにいく。会場で出されたチーズグラタン、パン、サラダなどを食べる。
夕食後、帰ろうとした時に、道の反対側で煙草を吸っていたらトラム乗り場でFとはぐれる。正確には、Fを乗せたトラムのドアが閉まってしまった。仕方なく次を待って帰る。


▼10/23
午前中歩く。朝スーパーのクロワッサン。あんまり美味しくない。そのほかはあまり記憶がない。小説を書き上げる。
あきこさんから誘いあり。夜に待ち合せて、スペインバルへ。オリーブのメンチカツのようなものがとても美味しい。しかし、夜やや調子が悪くなり、少々吐く。この日もFは戻らなかった。友人のところを点々としているらしかった。


▼10/24
午前中、サブウェイで初外食。教会まで歩いていって、持ってきたロザリオをつかってしばらく祈り、カールシュタット(デパート)で毛布を買い、「なにわ」でラーメンをたべて、スタインウェイのショールームを覗き、パン屋さんでプレッツェルを買って、スーパーに寄って一時帰宅。Fが帰宅する。午後14:00頃から眠り、18:00に一度起き、1:00に起き、また眠る。


▼10/25
結局AM3:00過ぎから眠れず、トースターがないからフライパンでパンを温めることに挑戦したのち、朝からHbf.へ歩いてゆき、本屋やサンドイッチ屋を見る。馬の本を買う。ライン川まで歩いてラインタワーを見て、帰りはトラムに乗る。10:30には家に戻る。
14:00からFFT全体ミーティング。ベジタリアンのための、野菜のソテーを食べる。ローズマリーで香りづけ。ヨーグルトとカッテージチーズのソースが美味しい。16:00過ぎからあきこさんたちとお茶を飲んで、夜に向けて解散。Fはカフェで仕事をしていくというので、私はデパートへ。自転車のかたちのピザカッターを買う。
さんざん歩いて加賀屋を探し、思っていたイメージと違ったので、近くの台湾料理屋へまた行く。今度は小さい角煮どんぶりと、餃子。夜はスタムティシュという集い。私はビールが飲めないので紅茶を飲む。シュヴァルツか、ヴァイスか、訊かれてシュヴァルツと答える。
モデルを自宅のロフトで撮影している日本人の写真家と知り合う。私が「ライン川はひろいのが印象的だけれど、あれだけ大きな貨物船が通るということは、とても深いということですよね」と言った瞬間、彼の興味が私に向いたのがわかった。


▼10/26
FFT開幕。朝は買っておいたパンを食べる。ひとりで、加賀屋で唐揚げポン酢定食を食べてから17:00にFとアパートで集合。FFT Jutaまで歩いて行く。19:30からNNP開幕。松根充和『踊れ!入国したければ』を観る。
終演後は、岡田さんたちと一緒にアルトビール屋へ。Rustikaサラダを食べる。Fが私のセーターにロールキャベツの汁を盛大に飛ばす。空間現代のメンバー23時過ぎに到着したが、これ以上遅くなると帰宅が危険になるため、私は一足さきに帰る。


▼10/27
朝、スーパーで玉ねぎを買い、45分炒めてオニオンスープをつくってからハムとパンで朝食。10:00過ぎにベンラートへ。マーケットを探して迷う。GIVE BOXにチョコレートを入れたのち、ベンラート城へ。庭という名の広大な森を何度もぐるぐる周り、ライン川沿いへ抜けて、上流へずっと歩いたのち、トラムでウルデンバッハー通りまで戻る。GIVE BOXの中身はすっかり空になっていた。かんたんなバーガー屋でマルゲリータピザガーリックを食べて人心地つく。SバーンでHbf.まで帰宅。駅前でラウゲンクロワッサンを買い、ハムを挟んでお弁当にして、FFT Jutaへ向かう。松根充和日本語Ver.とカセキユウコの即興パフォーマンスを観る。


▼10/28
小豆島の画家、美紀ちゃんに会う。中央駅の本屋で待ち合わせて再会した時、思わず抱き合った。近くには手頃なカフェが無いので、私のアパートでお茶を飲むことにする。彼女の勉強の進捗、どんな暮らしをしているか、いつか動物と暮らしたい(そしてときどき、上手な馬の絵を描いて同僚をびっくりさせたい!)というような話をしてから、彼女を駅まで送っていった。アパートに帰ってパンを食べ、さらににんにくとハムのスパゲティをつくった。上手に茹でられず、たいへん不味かった。IHコンロは難しい。今日は公演を観ない日なので、FFT Jutaでお留守番。ルバーブのソーダを飲んだが、あまり口にあわなかった。チェルフィッチュのアフタートークは有意義だった。今日も体調が優れず、打ち上げは行かず。


▼10/29
カイザースヴェアトへ行く。今日は快晴。さんざん道に迷う。しかし、すばらしい風景に出会えて、この国に来られた巡り合わせと幸せを噛み締める。来年用の手帳(ドイツ語表記)を、自分のために買う。クロワッサンを買っていったので、ハムを挟んでベンチで食べる。噴水横のベンチでは、アイスを食べている子どもと父親などが何組かいた。「手はちゃんと拭いたのかい?」「だいじょうぶよ!」というようなやり取りが可愛らしい。
14:30に一度アパートに帰り、すぐにFFT Jutaへ出発。それからは食事せず。安定剤を2錠のんでしまったせいで、自分のパフォーマンスががた落ちする。うまく話せず申し訳なかった。空間現代のライブ後、打ち上げに行こうかと思ったが時間が遅すぎてあきらめて帰宅。就寝。


▼10/30
朝、水曜日に出会った写真家と待合せ。少し曇っていて撮影びよりというわけにはいかなかったが、昼過ぎまで過ごす。演劇クエストの本番は終わったが、冒険の書は携帯しているため、延長戦。帰りにヴォリンガー広場のトルコ料理屋でパンゼンズッペを頼んでみる。おいしかったが、お金の払い方がわからず終始どぎまぎしながら食べた。結局、帰りしなにおじさんに5ユーロ押し付けて帰ってきた。おじさんは、私が4ユーロのサラダを追加注文したと思ったと思うが、逃げるように店を出た。
一度アパートに帰り、身体を休ませる。少し身体が冷えていたので眠る。18:00を過ぎたところで家を出る。ハインリッヒ・ハイネ・アレーの店はほとんど閉まっていた。ライン川沿いの観覧車や、出店(カクテルバー)などの前を散歩して、じゅうぶん散策して帰る。


▼10/31
思い残していたオーバーカッセルに向かうため、朝また1日乗車券を買ってテオドア=ホイス=ブリュッケへ。駅で買ったケーゼプレッツェルを齧りながら乗る。ドイツの交通機関の「ここまではちゃんとしてほしいけど、ここから先は別にみんなにおまかせだよ〜」という空気感を少し体得してきた。
今日は快晴。ライン川を徒歩で渡り、日本人の多く住むエリアの遊歩道へ。戻って来てまた中央駅でプレッツェル(今度は長いの)を買い、家で残り物のハムをはさんで食べる。出がけに、アンドレアスさんが「また会いましょう」と言って、コマをくれた。嬉しかった。17:00前にFと家を出て、空港へ向かう。その後、いろいろトラブルもあったけれどおおむね問題なく出国し、帰国し、今に至る。

2016年9月8日木曜日

後日談

▼5日
堤防の上を端っこまで歩いてゆき、立ってアイスキャンディーを食べていたら、後ろから「姉さん、落ちたらいけませんよ」と海上保安庁の人が声をかけてくれた。「誰が立ってるのかと思いましたよ」と笑われた。アイスをくださったお父さんが犬を連れてくるところにまた行き会って、秋に私もデュッセルドルフへ行くという話をする。13時に喫茶集合で後片付けと思いきや、みんなは近くのカフェレストランへ昼食に行った。私は相伴はせずに、喫茶でひとり、椅子を並べて横になったりしていた。

15:45の船で、麗しのニーナと息子が帰った。息子はニーナに抱かれて、船の2階から顔を覗かせている。大きく口を動かしているので、耳を澄ますと、彼はジャンボフェリーの歌をうたっているのだった。みんなに手を振ってもらって、最初は元気に応えていたのに、寂しくなってしまったのか、ニーナの胸に顔をうずめてしまったのが最後までかわいかった。

夜、制作なかちゃんとモモちゃん、琢生さんと4人でしみじみ缶ビールをあけた。エリエス荘には大学の夏期集中講義のためにたくさん学生が来ていて、ざわざわと空気を揺るがしていた。

▼6日
喫茶の常連さおりさんがお出かけに連れていってくださる。酒造にゆき、草壁港でジェラートを食べながら、昔のエリエス荘に来ていたグアムの留学生たちの写真を見せていただく。高校生のさおりさんは、はつらつとして今と変わらぬ明るい印象だ。彼女の笑顔はきっと、この港町を明るく華やかにしていただろう。それから、中山の棚田と、農村歌舞伎の舞台のある場所まで行った。モモちゃんに棚田を見せてあげられてよかった。ちょうどそこへスクールバスが来て、さおりさんのお子さんが降りてきた。お子さんは私とモモちゃんの名前を覚えていてくれた。

さおりさんは、昨年、娘さんの学校のプリントで演劇の上演を知り、観に行ってファンになったという。二日目の夜、チケットが取れなくても小豆島高校までゆき、食堂で待っていた時の話を聞いた。食堂には父親と息子らしきふたりがいて、静かに遊んでいた。さおりさんはその様子をただ見ていたが、終演後に劇場だった体育館から出てきた「ちーちゃん」が、駆け寄ってきてその子どもを抱き上げたのだという。「その時にね、ああ、お母さんやったんや! ってわかったの。何にも言わずに、抱き上げたのを見た時にそれがわかった」とさおりさんはまっすぐな目をして、言った。

いつおさんの誕生日パーティをひらくので、写真家Pがはりきって餃子をつくり、みんなで皮をこねて肉を乗せ、次々と包んだ。私は冷蔵庫の野菜の組み合わせをいろいろ考えて、残り物でおかずをつくった。餃子がとてもおいしくて、その日炊いたお米はほとんど翌日に持ち越した。パーティが終わってから、ニーナの息子がやり残した花火を持って、琢生さんとモモちゃんと3人で外に出た。風が強くてなかなか火がつかないうえ、たった2、3日置いただけで花火はすっかり湿気ってしまっていた。なんとか火花を燃やし尽くし、最後は3人並んで、線香花火を海に散らして夏を終えた。

▼7日
昨夜、大学生たちの喧噪でお風呂時を逃したので、朝6時にエリエス荘を出て、ホテルの温泉まで往復40分ほど、モモちゃんとふたりで歩いた。7:30の船に乗るモモちゃんを見送って、私も荷造りを始めた。私は15:45の船に乗ることにしていた。

喫茶の隣のスタジオでは、デュッセルドルフに留学するみきちゃんの最後の絵画教室が開かれて、おもに島に住むおばあさん方がたくさん集まっていた。えみこさんが喫茶にひょいと顔を出し「餞別に」昔の着物でつくった巾着をくれた。「いつか形見にね」なんて笑って手を振って、えみこさんは絵画教室に戻っていった。お昼に、昨夜の餃子の残りを焼いて食べ、ぜんぶ片付けた。宅急便の営業所まで送ってもらう途中、かすかに歌う青年の声を助手席で聴いていた。船が来る間際にさおりさんが現れて、かよさん、あやさんたちと一緒に見送ってくれた。別れ際、この世でいちばん優しい抱擁で耳が触れ合った。新幹線で眠ってしまい、気がついたら東京駅で起こされ、かつて勤めた38階建てのオフィスビルを見上げて、ここも私のふるさとだと思って身体に愛が満ちるのがわかった。東京駅から帰るはめになったせいで胸に傷の残る町を電車で通り過ぎ、苦しさがせり上がってきても、今夜は大丈夫だった。演劇が終わっても未知の日常は続いていて、私たちの人生がもし演劇ではないとすれば、それは自分ではラストシーンを決めることができないということだ。終わっても終わっても、また始まる。終わっても終わっても、びっくりするような出来事が起きて笑いあう。私たちは、ラストシーンを選べない。

海を眺めて吸う煙草は、吸い終わるのがもったいなくて、いつもぎりぎりまで燃やしていた。いつだか劇作家が言っていたように、太陽系に生きているかぎり私たちはひとつの太陽の下で眠って目覚めて生きていて、私は今日もまた、島の日々を思い出しながら狭いキッチンでライターの火をつける。短くなっていく煙草の先、まぶたを閉じて坂手の海を見ながら、火の温度が指先に近づいてくるのを感じている。

ある日(葬送)

喫茶の営業は今日で終わりで、アイスクリームが余っては困るので、少しでも多く食べてほしいとマスターが言う。それで、クリームソーダやコーヒーフロートを頼んでくれた人には数日前からひそかにアイスを多めに盛りつけていた。私も、喫茶が暇な時間を見計らってクリームソーダを買い、外へ散歩に出た。海沿いの堤防にまたのぼって、歩きながらクリームソーダを飲んでいたら、ポケモンをつかまえながらこちらに歩いてくる谷さんを見かけた。谷さーん、と声をかけて、しばらく海を見ながらおしゃべりした。「このへんミニリュウおんねん」と言って、谷さんは自慢げにポケモン図鑑を見せてくれた。もちろんまじめに今年の夏を振返ったりもした。そうしたら目の前の事業所から、以前喫茶に来てくださったお父さんが出ていらして、3人で少し話した。お父さんは「うちのばあちゃんがままごとのファンなので」と言いながら事業所の奥へゆき「これ持っていってください」とアイスキャンディーを10本ほどもくださった。空になったグラスと、アイスキャンディーのいっぱい入った袋を持って喫茶に帰り、マスターに、アイスが増えた! と報告すると、花壇の最後の手入れをしていたマスターは「何だって?!」とめずらしく大きな声を出した。バジルはこの日、全部刈り取られ、喫茶の隣のスタジオスペースに吊るされ、乾かされた。

何日か前から継ぎ足し継ぎ足しつくっていたカレーが余る見込みで、夜はみんなでカレーパーティをしようと言って何人か友だちを誘っていた。いつおさん、向井夫妻、みきちゃんなど。「ナンをつくってみたら」と向井くんが言うので、余っていた薄力粉とヨーグルトなどをつかってナンの生地をこね、丸めてとりあえず冷蔵庫に寝かせておいた。

特に誰が島から去るというわけではないが、2度目の散歩に出たら15:45のフェリーが着岸するところで、エリエス荘のエントランスを目指して歩いた。またしても堤防の上に乗り、船をよく見る。このところ私はばかになっていて、やたら高いところにのぼりたくなっているのだ。日曜日の午後便だから、テラスには普段より人が多かった。誰も知り合いはいないけれど、船がふわりと岸を離れる時に大きく手を振ってみた。今日の私は濃い赤のロングスカートをはいていてそれが風をはらんで翻るので、フェリーの上からでもだいぶ目に付いたはずだった。ちょっと歌ったりもして、日々への送別の気持ちをあらわした。

そんなふうに店をさぼっていた私が喫茶に戻ると、店内には、ままごとをずっと支えてくださった坂手の住人の方が順々に訪れてくれていて、ほとんど満席だった。夕暮れが近づくと自然にみんな外へ出て、みきちゃんは煙草を吸っていて、谷さんと赤ちゃんを抱っこしたまっちゃんは、並んでベンチに座ってエリエス荘を見ていた。嬉しかったのは、えみこさんが来てくださったことだった。「最後の日だからね」と、はにかみながらえみこさんはホットコーヒーを注文してくれた。えみこさんは、私に手話を教えてくださったご婦人で、盆踊りの夜に偶然お会いしてから、私にとってたいせつな交流を続けてきた方だった。えみこさんはみきちゃんの絵画教室に通っているのだけれど、最近なかなか会えていないみたいで、たまたま店内にいたみきちゃんを見つけてしばらく二人でおしゃべりしていた。みきちゃんは芸術祭に出す絵の大仕事をひとつ終えたばかりで、えみこさんは「忙しいんじゃないかと思って、邪魔したくなかったから」と何度も言いながら、みきちゃんとコーヒーが飲めて本当に嬉しそうだった。

18時になり「終演しました」という一言を発して、すぐにマスターは喫茶を片付けはじめた。さすが、ここはやはり劇場なのであった。私は、てきぱき片付けるみんなを横目に見ながらカレーパーティの準備をしていた。そのまま、若い島の友だちや、もっしゃんやきみちゃんを交えて打ち上げが始まった。

ねかせたナンのことを忘れていたら向井くんが「あ、ナンはあるの?」と言ってくれたので、思い出してこねて、フライパンで焼いた。人類が初めて焼いたパンみたいな、ひらべったくて簡単なかたちをしていたけれど、味は小麦粉と塩の味がして、ちゃんとおいしく焼けていた。薄力粉がまだ余っていたので、クレープの生地をつくって焼き、生クリームとブルーベリーソースで飾ってデザートにした。

キッチンを軽く片付けて席に戻ると、いつおさん、みきちゃん、向井くん、こにたん(向井夫人)の4人が、死んだらどんなふうにしてほしいか、墓とか弔い方、死に方の話をだらだらしているところだった。問われて考えたが、私の頭の中には土葬、火葬、風葬、水葬くらいしかなくて、人ってあんまり死んだあとのバリエーションがないなと思った。今まで見たことのある骨壺の話、火葬場のスイッチの話、この死に方はいやかなあ、という想定、今死んだらお墓はどこにするか、という話をしながら、べつに今死ななくってもいいんだよ! なんて笑いあった。私が、伴侶を散骨したあとも骨を少し持っておくと思う、と言ったら「その時の未亡人感がすごそう」と向井くんが言った。「黒いレースのついた帽子かぶって崖に立ってよ」と言うので了承した。「散骨って死体遺棄にならないのかな」と相変わらずいつおさんはブラックジョークを言うので、粉々にしないとだめらしいわよ、と私はまじめに答えた。25とか30とか40歳の大人が食事をしながら死について和気あいあいと話しあっているところに、21歳のモモちゃんがお皿に残っていたクレープを取りに来て、もぐもぐ食べながら横で話を訊いていて、そういえば今、私たちは生きてるんだなあと思った。

パーティは22時で終わり、エリエス荘に戻ってからも少し話した。私はみきちゃんとふたりで、真っ暗な食堂で深夜までしゃべっていた。子どもを産むことはとりあえずすっ飛ばして、孫を持っておばあさんになってからの話をした。この土地に生きる皆さんは、この土地で死ぬんですね。あの坂の上のお墓に入る時に、ここで観た演劇の記憶や、出会った異郷の人々の記憶が、ほんの少しだけお骨に染みこんでいたら嬉しいです。気持ちわるいこと言ってごめんなさい。でもあなたもあなたも、いつか死んであのうつくしいお墓に入るんでしょう。その時私の身体はどこにあるかわからないけれど、ふたりで手をつないだ一瞬の記憶は、あなたと私の骨にほんの少し、残るのかもしれないと思います。

2016年9月6日火曜日

ある日(空を飛ぶ)

俳優のSI嬢が島にいたころ、エリエス荘の喫煙所でふたりで話をたまにした。ぼーっと海を眺めながら煙草を2本くらい立て続けに吸い、身体のことを話していると、よく、安らぎとか生き方とかの話になった。犬島と直島を訪ねた私は、その島のサイズにやっぱり驚いて、たとえば自分がそこに暮らすのはむずかしいと思った、という素直な感想を述べた。歩いてまわれる島では自分の身体が縮んでしまう気がしたから、と答えたらそれをSI嬢はおもしろがってくれた。小豆島は、車で移動しなければいけないところがたくさんあるでしょう、車は、自分で運転するでしょう、だから車は拡張された身体の一部みたいなものでしょう、小豆島を車で走るということは、普段私が自分の足で歩くよりも拡張された身体で移動するということなので、自分がすこし自由に、大きくなったみたいな気がするの。

スーパーマーケットに買い物に行って、普段ならためらうんだけど2台の車の間にバックで入れて停めてみた。車を日頃から運転する人にとっては何ということもない操作である。でも私はあんまり駐車がうまくないから、何度か切り返しをする。やらないと上達しないからいつもエリエス荘の駐車場で練習していて、それでもなかなか上手にならなくて悲しかったけれど、今日、スーパーマーケットで停めた時は一度でばっちり入って、車体もまっすぐで、これは何かが身体に浸透した証拠だ、と思った。もしこの車が人間だったら、握手して快哉をさけびたいほどにきっちり駐車できたのだった。

スーパーマーケットで、昨日、麗しのニーナたちと偶然会ったりしたものだから、誰かに会うんじゃないかと思ってあたりを見回した。これも島に暮らす身体のふるまいだな、と思った。

真夜中、エリエス荘の食堂にいたら、フェリーが港に着く音がした。いつものことなので、ちょっといつもより遅れたね、などと言い合いながらエンジンの音に耳をすましていた。スマートフォンを見ていたら、京都の若い演出家が坂手に一瞬寄港していたようで、気づいたのは船が出る音がしてからすぐあとのことだった。エントランスを出て、遠ざかっていくフェリーを見送る。ライトをつけて手を振ってくれたらよかったのに、というメッセージが来たので、遅ればせながらあかりをともしてみたけれど、彼にはきっと見えなかっただろう。暗がりの中、しばらくずっと港にすわっていた。寄せては返す波のように、フェリーは港に立ち寄り、すぐに綱をといてまた旅立っていく。

画家のみきちゃんは、小豆島にたくさん壁画を描いている。ニーナの息子が「あのえもみきちゃんがかいたの? あれもみきちゃんなの?」とニーナに訊ねるので、いつもニーナは「そうだよ」と教えているらしい。そこで息子には新たな疑問が生まれる。「でも、てがとどかないんじゃない……?」。息子はまだ、脚立の上の世界を知らない。4歳というのは、自分の身体の大きさが、自分の身体の大きさ以上のものにならない年なのだ。同じように、どうやって高いところに絵を描くのか島の子どもに訊かれた時、みきちゃんは「空を飛んで描いてるんだよ」と言ったという。少年は目を丸くして「じゃあ今飛んで」と言ったけれど、みきちゃんは「今はだめ」と断り、さらに「君のお母さんも本当は飛べるんだよ、大人はみんな飛べるの」と教えた。「だってサンタも飛ぶじゃん」と言ったら少年は納得したという。かっこいい大人になるということは空を飛べるようになることだが、それを見せびらかしたりしないのも、また大人なのである。

2016年9月4日日曜日

ある日(ブルーベリー)

大きな虫が飛んできて、羽音が怖いので手ぬぐいをエプロンから取り出して振りまわし、追い払おうと努力していたら、マスターが喫茶から出てきて「何踊ってんの」と言った。「パフォーミングアーツだね」と笑っている。マスターは最近疲れていて笑い方が冷たいんだけれど、そこそこ長い付き合いだし、1か月以上も一緒に暮らしていてそのことは分かっているので、寂しいけれど傷つかない。

午前中のうちに、スーパーマーケットに行った。 野菜売り場の向こうで、聞き慣れた声がしたのでひょいと覗くと、麗しのニーナとその息子、制作N嬢の3人だった。「あらやだ奥さん」などと言い合って、別れる。島を歩けば知り合いに当たる、という言葉の意味を肌で感じかけている。ブルーベリーをもらったのでお菓子をつくろうと思い、無塩マーガリン(バターは高いから)とベーキングパウダー、クリームチーズを買った。喫茶の暇を見て、レアチーズケーキとパウンドケーキを焼いた。ケーキは、型がなかったので牛乳パックを切ってホチキスで留め、代用した。エリエス荘のオーブンレンジにケーキを入れ、甘い匂いがしてくるまでニーナとその息子としばらく遊んで、ふたりがお散歩に行くのを見送ってから、焼き上がりを待って喫茶に戻った。

夜はたこやきパーティに、つくったお菓子を持って喫茶のみんなで訊ねた。スイフの飼い主M夫妻や、島に嫁いだアーティストとその家族など、多くの若い人があつまった。優しくてあかるいT夫人の恬淡さ、鷹揚さに、かつてニーナがどれほど救われたかに思いを馳せ、夫人の手料理の数々をいただいた。缶ビールも時間をかけて1本飲んだ。T夫人が犬を3年介護して看取った話や、甘えん坊のスイフの話、M夫妻にもうすぐ生まれる赤ちゃんの話などをした。島で結婚して子どもを産むことについて、私も想像せざるをえなかったけれど、想像の限界というものは何にでもあって、だいたいの時間は黙ってじっと考えていた。大勢が「一堂に会する」感じは、身体同士の距離感がとても近くて、「盆に兄弟がみんな帰ってきとるみたいやな」とT氏が言うのを新鮮に理解した。小さい子どもが何人もいて、昔、両親とその友だちがあつまって、幼稚園も学校も違う私たち子どもがみんなでぎこちなく遊んでいたのもこんな感じだったな、と思い出していた。昔を思い出すだけでなく、未来のことを考えられるようになったのは、やっと最近のことなので。

帰り道、星空を見上げながら、君はとても防御力の低い人間だから、一緒に戦う人ではなく、戦う君を守ってくれる人とチームを組まないと持続可能に機能しない、と人に言われたことを思い出していた。守ってくれる人から同時に傷をつけられる時はどうしたらいいか訊ねたら、それは茨の道すぎる、という返事が来たので、どうしたものかそろそろ考え始めないといけない。

2016年9月3日土曜日

ある日(朝日、夕日)

書くのが進まなくて、また堤防にのぼって散歩した。私は子どもの頃から、話したいことを事前に練習してから話すくせがあって、今でもひとりになると、今ここにいない相手に向かってぼそぼそ喋って、イントネーションを工夫したり、言われてもいない相手の答えに怒ったり、会話を分岐させて想定を何種類も用意したりしてしまう。それで、最近のひとりごとは全部、関西のアクセントなのだった。音程とリズムと流れに自分をなじませて喋ると、島の方言(なのか、関西弁ごちゃ混ぜなのか?)に身を委ねることになる。でも、なじむのも相手の濃度によるというのもわかってきた。移りやすい相手とそうでない相手がいて、差はよくわからないけど、話す時の勢いとかこちらの気の持ちようなんだろう。浸食されてもいいかな、と思う時は私もいろんな言葉づかいを試す。

喫茶を手伝ってくれていた大学生の朝日が、東京に帰っていった。今日のバスがいちばん安いから、という理由だった。気持ちが優しくて面倒見と効率がよく、しかし野蛮な危うさも残したふしぎな子だった。ひとりで山登りをしながら犬の真似をしたり、みんなと砂浜に遊びに行って犬の真似をしたりしていたらしかった。もしかしたら朝日は犬そのものだったのかもしれなかった。フェリーが出港する時に、4歳になったニーナの息子が「あさひー」と彼に呼びかけた。朝日は「なーにー!」といつもの調子で叫び返した。「あそんでくれて、ありがとー!」とニーナの息子が言うと、はるか遠く、ジャンボフェリーの乗り口で朝日は、撃たれた人のような顔をした。「またあそんでねー!」という息子のたたみかける一言で、朝日は名前のとおり、東からのぼってきらめくような笑顔を見せ、島を去った。

夕方、いつおさんと久しぶりに喋った。モモちゃんが「いつおさんはこれからもずっと島に住むんですか」と訊ねたら、いつおさんは「そうね」とうなずきながら「どこに行くにもまず一度船に乗る距離感がちょうどいいかな」と言った。正確には、それを訊いたのがモモちゃんか誰だったかは忘れたが(だから日記は、本来その日のうちに書いておくべきなのだ)いつおさんのその答えが印象深かったから、よく覚えている。

海運業の青年がひさびさに姿を見せ、日曜日で喫茶の営業を終えるわれわれをねぎらってくれた。観光客はフェリーの出航直前に店に来るが、島の住人はみな、仕事の終わった夕方とか、船の時刻表と無関係にやってくる。他に客がいなかったので、マスターもふくめて全員でお茶をしながら、少し喋った。夕焼け小焼けのチャイムが聞こえたので、あっ、閉店しようかな、と思って時計を見るとまだ17:30だった。あれ? 今日鐘なるの早くない? と私が言うと「だって今日から9月やもん」と青年は言った。いやいや聞いてないし、と私がかぶりを振ると彼は「暗くなったらはよ帰らんと親御さん心配するやんか」と当たり前のように言った。育った環境の違いとは、何をふしぎに思うかの違いなのだった。