2013年6月20日木曜日

息継ぎもいらない

昔、占い師はわたしの手を取って言った。
「あなたは一生、誰かを励まして支えて、導く人です。覚悟なさい」

携帯電話のメモ帳に「献血で手首を切られた。ナイフでざっくり。若い女の子を連れていた昔の恋人」と残っていて大変訝しく思ったが、三日くらい前の明け方に、そのとき見た夢について、おぼろげな意識で書いたのだった。献血に行ったら注射針ではなくナイフで切られた、という物騒な夢だ。わたしは普段死にたいなんて1ミクロンも考えていないし、この夢を見たときも「わー、ぱっくり切れちゃったー」くらいにしか思わず、悲壮感とは程遠かったのを覚えているので、精神衛生上は何も問題ないだろう。それより、昔の恋人が若い女の子と一緒にいた夢も見たようであるが、そちらについては今は全然思い出せないので、よかったと思ったのか、少し寂しかったのか、女の子はどれくらい若かったのか、自分では何もわからず、心もとない。

死にたいと思ったことは久しくないが、死ぬかもなあ、とはときどき思う。道路を走る車がほんの少し誤ってハンドルをこちらに切ったら、螺旋階段で天井が崩れたら、地下鉄で煙に巻かれたら、など。そういう漠然とした役に立たない危機感ばかり持っている。

最後まで推敲した箇所に限って、おもしろいのかよくわからない一文が生まれてしまうことがある。もちろん、何これ、と自分でも思う。これでいいのかな、とも。でも、どうしても、ではないけど、なんとなくこれしかない、という気持ちで結局そう書くことに決めてしまうのだ。そういうとき、言葉はただの伝達の用途を超えて初めて放り出されるようにも思うし、その空白の中で自由になるものもきっとあるだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿