2013年6月27日木曜日

屋上で傷つきやすさについて考える

「傷つかない強さではなく、傷つくことを受け入れる強さを持っているのですね」
あの日はっと開いた目を、今も持ち続けているつもりだ。初めて会った人にどうして、と思ったけれど、まあ私のことだから端から見てわかりやすいというか、それに関して深みがない感じなのだろう。強さではなくて、あきらめではないかな、と思ったりもするけれど、自分のことはいつまで経っても推測でしかないから、その精度を上げていくしかないのだ。誤差を修正しなくてもいい。ただ、認識だけはしておくこと。

この劇評を読んで、ベンヤミンの「遊歩者」という言葉について、久しぶりに考えた。それから、そういえば遊歩者を名乗る人に助けられる人生だった、ということを思い出して、京都の街のことをちょっと考えたりした。

本人に言ったことはないけど、藤原ちからさんの原稿の好ましいところは、引用部分がさかしらでないことだと思っている。だから少々難しいことが含まれていても読みたい、と思う。わたしは物知らずなので、物知りである人たちの言葉の端々からいつもこっそり学習してきたタイプなのだが、藤原さんの引用を読むと、男の子がミニカーに関する知識とか国の首都とかを教えてくれたあの頃の感じを思い出す。知性に焦がれる心っていいものだなあ、と純粋に憧れる。彼の書くものは、彼の中にこれまで蓄積されてきた学問、知識、言葉に還元されてゆく。最近はそこに、もともとあった遊び心がかなり自由な散文として表出しているようにも思う。文章の収斂のありかたがその人をあらわす、というような文章を書ける人は、少ないのだ。

昼休みに大きな川が見たくなって、上司と先輩と別れてひとりで川沿いの公園に行った。駅からもアクセスがわるくわかりにくい場所にある公園なので、こんなに綺麗でお天気もよかったのに、誰もいなかった。ウミウが魚を捕っているのを見ながら、芝生にすわって二曲ほどひとりで歌って帰った。午後は仕事もあまりなくて19:00前に最寄り駅まで帰りつくことができた。まだ日没には早かったので、南口から少し歩いたところにある建物の屋上にあがり、東南の空を見ながらここでも別の二曲を歌った。夕暮れ時は本当にすみれ色の空だな、と思う。踊りたくなることがあんまりないかわり、私はよく歌うのだ。


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