2013年6月18日火曜日

フラッグ

芝居を観たあと、夜の北品川を散歩して、お酒を飲んだ。KY氏(そういえば彼は、俺は空気なんて読まねえ、だって空気なんかないから、と言っていた)とNM氏が飲みながら、未来に伸びてゆく普遍性の話をしていて、わたしは今まで、過去から導き出される普遍性のほうしか重視していなかったのかもしれない、と思って少し愕然とした。そのあと、FC氏とMT氏と明け方のファミレス禁煙席で過ごした。MT氏が、演劇との付き合い方について小さな(でもとても美しい)実感を話してくれたり、FC氏の一人称が「僕」から「俺」に変わる瞬間を目撃したりして、しみじみ、幸せな時間だなと思った。こんなこと、もうわたしの人生にはないかもしれない、と思ったら、こんなに思いつめて生きていくのが今更ながらとてもつらい。でも、思いつめずにふらふら生きていくくらいなら、どんな思いや経験でも、感じられないよりは一億倍ましなのだ。生活を通して、「既存のものにこれまでにない説明を与える」ことは、「新たな未知の事実に触れる」のと同じくらい有用なことだと思いたい。もちろん、それが出来れば、の話だ。無意識のうちに回収されていくのも、選んであえて飛び込むのも、端から見れば同じなのでときどきひどく落ち込む。
 
わたしは誰にも所有されない。誰かに望まれても、一生そうはならないと思う。そのことで失う幸せみたいなものがあったとしても、それは仕方のないことなのだ。たとえ結婚しても出産しても、夫にも子どもにもそれだけの効力はないだろう。これはナルシシズムとは関係ない、決意と事実から導かれた結論である。あなたのものになるとか簡単に言えるくらい従順ならよかった、と思いかけたりもしたけど、思ってもいないことは二度と言わないと決めたのだ。そのかわり、わたしが誰かを所有することも絶対できないということは、肝に命じておくべきである。

「好き」ということの定義を持てていないので、その人のことが好きなのか?という質問にはいつもろくな答えが出来ない。好きな人のことを考えると、それよりもっと大切なことの扱いにどうしても困る。比べるものではないと人は言うけれど、その尺度は他人に決められることではないのだ。

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