2013年8月30日金曜日

わがアンティゴネ

その昔、私が選ばなかった道について、旅館の部屋で弟に理由を聞かれたので、本当と嘘を取り混ぜて答えた。君は君で大変だろうが、私は君の分まで道を開拓してきた自負があるからこれくらいはまあ許せ、と思う。

お風呂上がり、腕の内側に透ける血管を見てなんとなく聞いてみた。

「なんで血管ってこんなに枝分かれしてるの」
「一か所が詰まってもこっちに伸びてれば生きられるでしょ。だから分かれたらできるだけ遠くに伸びるの、血管は」

という真っ当な答えが返ってきて、私は、ふーん、と言って、身体中の静脈の浮き具合を調べてみた。弟はそれから帯状疱疹の症状についてもいろいろ教えてくれたあと、試験勉強に戻っていった。

ゆるい痺れ

温泉に入った。美人の湯という言葉があるけれども、温泉に入って変わるのは肌質くらいだろう。薄暗い日本家屋の温泉宿に来てまで、顔の造作に囚われることもあるまい。引きよせて、組み敷いてしまえばいいのだ。大きなお風呂の石のふちに座って、私が男だったら、「文豪が愛した箱根」みたいなキャッチコピーで、パナマ帽でもかぶって着流しで原稿用紙持って温泉宿にしけこみたい、女だったら日傘をさして石畳を歩きたい、と思ってしばらく不埒なことを考える時間にあてた。しかし露天風呂に移動するまでのあの裸で歩いていく感じはどうにかならないのだろうか。このまぬけさは何かに似ているのだけど、コンドームをつけるのを待ってるあいだっていうのが一番近いかな、まあ、露天風呂はただ寒くて、たとえ周りに誰もいなくても恥ずかしいからこっちのほうが全然だめだな、など、心底どうでもいいことを考えた。

このインタビューを読んだ。
 女の子は生理があるからやばい、と言われているけれど、私は生理より男性器のほうが怖いし嫌いだったよ、お互い様だよ、と思った。本題じゃないところに逸れるけれど、異物(自分の身体じゃない、見たことがない、という意味)として、あれに出会うのは、結構人生に一度レベルの驚きだ。初めて男の子と抱き合ってあの感覚に気づいたときのやばさ。噂には聞いてたけど、ちょっとあれほどやばいと思ったことはかつてなかった気がする。どうしようよくわかんない見て見ぬふりしたいけどでも無視できないよどうすればいいの、という、頭の中をめぐる生々しい恐怖と嫌悪感、葛藤。笑い事じゃない。

今の時代、女性が頼るものがない、というのはまあそれはそうなんだけど、私はやっぱりそういうふうに自分を女性性の中に閉じたいとは思わない。意外に思われるかもしれないが、本当にそう思っている。職場できついこともいっぱいあるし言われるけど、男性だって大変だと思っているので、子育てだって仕事だってそれぞれの社会での生きづらさに向き合って、せっかくなら優しくしてあげたい。そして、優しくしてもらえたらいい。しかしそれも歪んでいるのかもしれない、という自覚はある。

いったいどうしたいのか、という問いには答えを用意できていないのでこのまま続ける。

大人(特に会社員)になってからはどうせ男性に値踏みされるなら上のほうにランク付けされてこっちから蹂躙したい、と思って仕事していたこともあった。しない(できない?それはどうでしょう)けど。昔ある人にうっかりその話をしたら、それがすでに負けてるんじゃない、と言われて、うるさいそんなの分かってるんだから黙ってろよどうせこのあと私とセックスしようと思ってるくせに何なんだよお前は、と思った。あまりよくない思い出である。しなければよかった恋はないが、しなくてよかったセックスはある。

だいたい男に敵意を持つ時点で負けてるんですよ、だから私永遠に勝てないんです、と先々週だったか、ケーキを食べながら私は某氏に言ったのだった。蔓延する男性性の"濃さ"に窒息し、私は女の"深さ"から這い上がれなくて行きづまっている。愚かしい。これは書くしかない。しかし、そんなことはあまり表に出さず(にじむのはしかたない)9月の芸術劇場の企画はじっくり観ようと思う。何だこの結論は。

男性器は、今は怖いというよりは(当たり前だが)気持ち悪いか、無か、好ましいかのどれかだ。私だって年がら年中苛立っているわけではないし、好きな人には敬愛の情のもとに降伏したい。律儀に自分でごみばこまで行く人もいるが、気だるさに負けてティッシュにくるんで置いたままの人もいて、そういうとき私は、何でもないふうにしてそれを拾って、先端に溜まった10ccの液体を眺めてからそっと捨てる。ルーティンワークみたいな生理と違って、反応と交流によって放出されるものならすごく愛おしい。

2013年8月29日木曜日

海岸沿い

妹と弟と宮城県に行った。ホテルの従業員のお姉さんに妹が、このあたりの津波被害について聞いていた。松島群に守られてこのあたりはほとんど無事だったんですよ、波の高さも低くて、と彼女は言った。それはよかったですね、と妹が言っているのを聞いて、私は少し変な感じがした。でも、私が話していたとしても、よかったですね、と言っただろうなと思った。彼女の職場は無事だった話を今聞いた。しかし、彼女の家族はどうだったかわからない。彼女だけじゃない。今フロントで会った人、すれ違った別の従業員の人、さっき通って来たお店の店員さん。それぞれの生活を毛細血管のように想像した。

翌日、南三陸の町まで行った。海岸沿いは、少しずつ整地されているけれど、もう、全然、本当に何もない。重機がたくさん入っていて、時間の問題というのもあるけれど、自民党政権に戻ったことも何か関係あるのだろうかと思ったりした。仮設商店街の写真屋さんが、2008年と2011年の定点観測の町の写真を見せてくれた。あそこで営業してるお寿司屋さんは昔このへんにあったんですよ、と指差しているおじさんが店の前にいた。

元通りになれば復興というわけではない。一度失ってしまった以上、元通りになっても、元通りであるということはあり得ない。地方、県、町。どんなところにも細分化されて溝が生じる。目を上げれば、高台に残った家が見える。そこから見下ろす風景を想像する。こんなに広い更地が、従来、日本にあるわけがないのだ。

防災市庁舎とか大きな病院は取り壊されずに残っている。地元のお寺の方でないかと思うのだが、自転車で、普段着でいらしていて、建物の前でお経を唱えていた。息子さんも連れていて、息子さんのほうも少したどたどしく、でも、父親と同じお経を唱えていた。

おなかがすいたので、三人で、商店街のお魚屋さんで海鮮丼を食べた。何があってもおなかがすくのが生きているということだ、なんて、当たり前なのだが、目の前のものを見ながら、更に更に、想像力を使わなければ届くものが見つからなくて、それも届いたのかわからなくて、いったいこれがいつまで続くのだろうと思う。もう二年半も経って、すでにこれが日常?になってしまっている?それすら私にはわからない。さっき見て来た家の枠の跡にそって、頭の中で町並みを組み立てながら、南三陸のうにを食べた。

車の中で、妹と弟と、戻れない場所の話を少しした。津波だけでなく、放射線量が高い地域の話、それによってもう食べられなくなった魚の話。表立って報道はされていないが、某県の某深海魚はもう漁獲してはいけないことになっているそうだ。家をかじるハクビシンの話、家から生える草の話。全部いっぽんの、ひと続きの道の先にあるんだよ、車からね、いきなりそういう風景が現れるんだよ、今までと同じ道を走っているのに、と妹は教えてくれた。

夜になって東京に戻り、最寄り駅で降りてしばらく歩いてから、手に職場用のおみやげの袋を持っていないことに気づいた。一応、駅まで戻って届け出た。無駄な半往復をしてマンションに着くと、共用廊下の蛍光灯が切れていた。屋外での暗がりの原初的な怖さを、いつまで経っても克服できない。昨日も、夜の黒い海を見てさんざん怯えたばかりだ。あの海沿いの町は今この時間、何の明かりもついていないのだな、と、家の鍵を開けるときに考えた。

日本の大人(であるところの私の話)

朝早くに家を出て西に向かい、瀬戸内の島へ行った。好きな人(が作った演劇)を追いかけて日本を移動する、というのは久しぶりで、私もまだやればできるじゃん、と思ってフェリーの上でついモナカアイスを食べてしまった。自分がモナカアイスを好きだったことを思い出すほど、自分を取り戻していた。フェリーには、MさんやY夫妻などが同乗していた。
こんな性格にも拘らず、私は強力な晴れ女である。私が屋外にいるときは、ほぼ降らない。島に向かう途中は大雨も降ったが、着いてからは青空が広がって今回も無事、能力を発揮できたのが分かった。

開演前に、子どもたちと一緒にぬりえをやった。でも、いわゆる自由な発想というやつで色を塗ることがどうしてもできなくて、ただきれいに塗り分けるばかりの私はつまらない人間だな、と思った。昔から、絵画についてはどうも逸脱ができない性分らしい。

終演後に、どうも、と声をかけてくれた、それまで見たことのない赤いチェックのシャツを着ていた人が、私の憧れの人なのだった。しばらく話して、この島で行くべき場所とか、これまで彼が見たものの話とかをいろいろ聞いた。アンケートを書いてから、その彼の話を頼りに散歩に出た。海が一望できるという山の墓地を、目指して歩いた。普通、見知らぬ墓地に入るときは後ろめたい気持ちが少しあるものだが(というか、見知らぬ墓地に普通の人は入ろうと思わないだろう)山の墓地は「おじゃまします」と一言いえば、のんびり死者が迎えてくれそうなきもちよさがあって、ちょっと感動的だった。そのままぼーっと眺めていたら、先ほど会場でお会いした横浜の某カフェのスタッフの方がいらして、ふたりで18時の「夕焼け小焼け」を聞いた。港中に響く音楽と、子どもたちに帰宅をうながすアナウンスが、何だか泣けた。

そのあと、ひとりで坂を下るところで憧れの人に再び会い、あろうことか別れ際に手を振ってもらい、胸を打ち抜かれるような思いをしたのであった。私がその人を好きな理由は、彼が、身体の外にある原理的な美しさのためには、自尊心を滅却することをもいとわないからである。そういうものを捨てて(きれいに埋め込んで)作品をつくれる人のことをあまり知らないし、いつもその立ち居振る舞いに見惚れて、何とかそれを描写したいと思う。

その日は深夜まで、パソコンで書き物をして、ベッドの上で布団もかけずにへんな格好で寝てしまった。翌朝、思い切って車を借りることにして、土庄港からまず島を一周した。島の道は、起伏も激しく、うねっていて運転しづらかった。福田港からほど近い、廃校になった小学校でアジアの現代美術家たちが各教室に展示をする企画が、とてもよかった。コンセプトと展示の勢いがきれいに合致していて、現代美術にありがちな抵抗(電気抵抗のほうの意味)の強さが極めて少なく、うつくしい形で発露していた。シンガポールのある作家集団が作ったというポストカードのセットを買った。12枚組で、それぞれ12か月を表していて、裏面にアジア諸国の言葉で愛の歌が描かれている。でも、とにかく表の "WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW?" という文字を見て、手に取らずにはいられなかったのだ。「明日もわたしを愛していてね」だなんて、口にするだけで震えてしまう。

その後、街のあちこちにある瀬戸内国際芸術祭の看板を頼りに見て回った。街の休憩所に誘ってもらって、案内のおばさんたちが一生懸命、私の残りの滞在時間をもとに、見に行ける場所を考えてくれたのがとてもうれしかった。

東京から演劇を観に来たんです。
「え!面白かった?」
はい。 すごくよかったです。
「一回しかやらないの?もう終わっちゃった?」
あ、えっと、明日も2時から、坂の途中のあの幼稚園でやってますよ。
「場所はわかるわー。えー、私明日仕事休みなのよね、行ってみようかしら」
ぜひ!
「じゃあ行ってみるわね!」

絶対見て!と勧められた作品は、山道の中にあった。フェリーの時間が迫っていたけれど、とりあえず車を飛ばして行ってみた。段々になっている千枚田も見られて、行ってよかった。帰りにオリーブの苗木をぎりぎり買い込んだ。東京に帰ったら、きちんと植え替えて育てるのだ。

神戸経由で東京に帰った。帰りのフェリーでまたY夫妻と一緒になり、あかちゃんのIくんにバイバイしてもらって、彼の育つ未来とか、演劇のこととかをぼやぼやと思った。家に帰ってから、夜通しとある劇評を書いて、書き上げて、送付した。現時点で書ききれた、という気持ちに一瞬なれた。もう三日経ってすでに書き足りないことを見つけているのだが、ともかく、これを身体の外に出せたのはよかった。 

2013年8月28日水曜日

マディ・ウォーター

旅に出る前、思いついてまた吾妻橋まで行った。濃密に過ごしたあとの時間が妙な歪み方をすることはあって、それは私の方でもそうだったということなのだ。夜中の電話や、遠い南からのメールや、いったい今がいつなのか、何の時間が流れているのかわからなくなってしまう。そういうときは、誰をうらんでいいか分からなくなる、ということになる。自分を守れるのはやはり自分だけなのだ。いつまで自分のことを特別だと思ってんのよ、とたとえ軽蔑されたって、自分にとって自分が特別なのは言うまでもない。



さよならばかりの旅をして ささやかな夢はつれなくて
疲れた夜は恋しくなるわ

My heart cries out for muddy water
あたしの素敵な赤い靴 日々の暮らしでもう泥だらけ
疲れた夜は恋しくて泣くわ
My heart cries out for muddy water

 (ベッシー・スミス"Muddy Water" 訳:田村キョウコ)

2013年8月23日金曜日

明滅

仕事はやめないほうがいいよ、と言われるのも、結婚はした方がいいよ、と言われるのも、言われたときの感覚がよく似ている。どちらも、言っていることはよくわかる。

昨日は期せずして、奇妙な巡り合わせの輪を外から眺める役を担った。私はこういうとき、絶対に当事者にはならない星のもとに生まれていて、人からおもしろい話を聞いては忘れないで覚えておく、というのが役割なのだ。

広い庭園の中で迷って、行きたいほうと反対の建物に行ってしまう夢を見た。電話をしても待合せ相手が何を言ってるのか聞き取れないしわからなくて、途方に暮れた。高校時代の同級生が意味もなくたくさん出てきて、夢の中で惑うときにはいつも、大挙して押し寄せてくる彼女たちに翻弄されている。しかしあまりにひねりのない内容で、いささか自分に幻滅した。

このまま死んだらどうする?と聞くので全然いいよ、始末してあげる、と正直に答えたら、まだ死にたくないよ、と翻された。目を閉じたままそれを聞いていて、すとんと受け止めるように、私は今消えてもいいって言えそうだったけど、それではあまりに少女趣味だろうな、じゃあこういうとき何て言ったら少女趣味ではないんだろうな、と思ってしばらく考えた。考えたけど思いつかなかったのが悔しくて、顔を隠して少し泣いた。

2013年8月21日水曜日

この街にはいられない

電車の中でブログを書くと妙な勢いがついて口が悪くなりすぎてよくない。でも、どうせ本当かどうかも分からないことを書いているのだからいいか、と思った。早めに帰宅して、久しぶりに盛大に料理している。お米だって、もうすぐ4合炊ける。でも、全然おなかがすいていないので、まとめて冷凍することになるだろう。

期待という名の暴力、というキャッチーなフレーズは、この間上司と面談したときに思いついた。いつも彼らは、こちらが何か言う前に「あと半年がんばってくれ」「あと一年がんばってくれ」と言い続け、ついにこの前は「あと三年」と言われたので、とうとう私はあきらめた。好きな先輩、大事な後輩、楽しかったこと、可愛がってくれる人がいくらいたって、決めるときは決めて、出て行かないといけないことだってある。年を取るとそれがどんどんできなくなる。

仕事とは別のことだけれども、近いうち、今まで一度も言葉にしたことがなかった自分の中のものと、向き合わざるを得ないかもしれない。 年なんかいくら取ったって若いときの自分は成長できないまま私の中にいるのだから、それをきちんと大事にしてあげなければいけないのだ。本当は。

紫のガラス

母親が自転車の練習をしている。その理由が私にはあまり受け入れられなくて、でもその気持ちは一生懸命乗れるようにならなきゃ、と思っている彼女に対してだけ向けられているのではない。期待という名の暴力そのものが顕在化したようなこの状況に、自分でもびっくりするくらい苛立っている。うまく乗れない自分を責める母からのメールを見ながら、いくらなんでもほどがある、と思った。サドルをもっと下げなよ、と私は返信したが、彼女は限界まで下げていると言う。そもそも無理な仕様のロードバイクに乗っているとしか思えない。止まるときは身体を傾けて足をちゃんとついて、と言って寝た。翌日、彼女は20メートルくらい進めた、という連絡をよこしたので、おめでとう、と返した。

俺の、私の気持ちを考えてくれ、と言って泣く男も女も世の中にたくさんいて、私はあるとき、その全てに応えることはできないという当たり前のことに、ぎりぎり気がつくことができた。じゃあわたし自身のことを本当に本当に考えてくれる人は誰かいるだろうか?そう思ったときから、絶対、自分のことは自分で一番考えて決めないと、と思ってきたのに、気づくとやっぱりうまくできていないことばかりだ。みんな、心配はしてくれるかもしれないが何もしてくれない。誤解を招こうが何だろうが、これは(わたしの)真理だ。なんて傲慢なんでしょう。こんなことを書いて、皆から見離される日も近い。

だから、私が誰かを心配するときは、何もできないことに対する絶望と対になっている。それはそれで、相手も鬱陶しいだろうし、あまりに独りよがりだな、とは思う。

携帯電話のカメラレンズ部分に埃が入ったらしく、妙な影が写るのでお店に持っていった。店員は悪びれもせず「交換します」と言った。いろんな履歴が消えてしまって寂しいけど、もしいつか全部終わる日が来るなら私、跡形もなく去ってゆきたい、と思ってるから。

なんて、嘘に決まってる。そんなの。

2013年8月20日火曜日

晩夏の情景

人生のある時期において、やたら会って一緒にいまくる人というのは、いる。確かにいる。なんであんなに一緒にいたんだろう、というくらい一緒にいた友達が私にもかつていて、そういう人は性質上、まあ、学生時代に多くいたけれど、なんでだったかは今となっては思い出せなかったりもする。でも、あのときにしか築けないものがあった、などと安易に言ってしまうのは悲しい。

しばらく日記を書いていないうちに、いろんな人に会った。SA氏とHA嬢とごはんを食べたのも楽しかった。ひとしきり演劇の話をしたあとに、HA嬢が、このごろ食べものを飲み込むときによく噎せる、という話を始めた。それで私も思い出した話があって、私は27歳のころに一気にいろんな不調に見舞われたのだ。一番顕著だったのは、人の名前を思い出せなくなること。名字はわかるのだが、下の名前が出てこなくなってしまった。なぜか今はその症状も落ち着いて、普通に、名字、名前を漢字で覚えられるし、お誕生日がいつか、という情報なども聞けば忘れないが、当時はそれがうまくできなくて大変なショックを受けたものだった。私も、27とか28のころにごはん食べながら噎せて泣いてたかも、と言ったら、HA嬢は笑ってくれた。たぶんプログラムの書換えみたいなものが一時的に起こっているんだよ、と私は言った。

ある小説で男が、20代前半の女と寝た翌日に30過ぎの女を抱く、という状況があって、つやつやした若い娘に比べて「30歳の女の身体はどこまでも柔らかかった」的な描写があったのを、今も執念深く覚えている。それを読んだときは、私は20歳そこそこの若い女で、若さとは恐ろしいものだから「へえ、そんなもんかね」と特に無関心でいたものの、実際にそういう年に近づいて、ああ確かになあ、と今思ったりするのだ。やわらかさが増して、かわりに失ったものを惜しく思うことは、幸せなことにあまりない。しかしあの頃「胸の上にあばらが浮くようになったら、お前の若さも終わりだ」と教えられたことも、よく覚えている。鎖骨の下を撫でて、その言葉を実感したのはいつ頃だっただろうか。

土曜日は、吾妻橋ダンスクロッシングを見に行って大いに楽しんだ。「夏らしいことした?」と休憩中に聞かれて、全然してないや、と思ったけれど、そのとき私たちは隅田川のすぐそばでビールを飲んでいて、風が時折抜けていくのを感じながら、帽子とワンピースの話をしたり、まだ誰とも出会っていないころの昔の話をしたりしていて、こういう懐かしさっていうのは、きっと夏らしいことだよな、と思った。

週明けは、仕事に行くのが憂鬱で困る。今朝は、打ち合わせがあったのでがんばって起き上がった。その前に、一度目が覚めたのに、何かの弾みでまた目を閉じてしまい、延々と人とすれ違って会えない夢を見て参った。行き違って人に邪魔されてバスを間違えて、再び目をあけたときにはもう疲れきって、まだ朝の7時でこれから一日が始まるなんて信じられなかった。あんなに会えないなら、いっそ「私はあの人に会いたいの!」って大きな声で言ったりすればよかったのに、それができなかった自分に一番疲れた。

2013年8月15日木曜日

戦争に反対する唯一の手段

「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである」という、吉田健一の文章がある。それが今日、Twitterでリツイートされて回っていたのを見て、思ったことを以下に書く。

このフレーズは、ピチカートファイヴのトリビュートアルバムのタイトルか何かで有名になったのではないかと思う。私が昔書かせてもらっていたメルマガの編集長(という名のよき友人)が、毎号、メルマガのトップに「今月の金言」みたいな感じで、いろいろ引用を載せていたのだが、その中のひとつとして私はこの言葉を知った。

気に入ったので原典を探して持っている。どこに所収かも解らないまま調べたのだが、まあ今持っているということは、とにかく見つけて手に入れたのだろう。「吉田健一著作集ⅩⅢ」という本です。昭和54年が第一刷らしいのだけど、吉田氏は昭和52年に亡くなっているので、文章自体はもっとずっと前のものとして見てほしい。 ともかく、その本の中に収録されている「長崎」という短い文章の中に、掲題の一文がある。汽車に乗ったら長崎についた…というような感じでふわっと始まる。

以下、引用するけれども、環境の都合により旧漢字などには変換できていません。


「併し今日、丘の上に立つて全市を見渡しても 、原爆の跡と分かるものは何一つ残つていない。ただ、永井隆博士の「長崎の鐘」を読んだものには、浦上邊りの明かに戦後に建つた新しい家屋が散在する焼け跡が痛々しく感じられるだけである。(中略)戦争に反対する最も有効な方法が、過去の戦争のひどさを強調し、二度と再び、……と宣伝することであるとはどうしても思へない。戦災を受けた場所も、やはり人間がこれからも住む所であり、その場所も、そこに住む人達も、見せものではない。古傷は癒えなければならないのである。
 戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。過去にいつまでもこだはつて見た所で、誰も救はれるものではない。長崎の町は、さう語つている感じがするのである。」


これを読むと、あの文章が単独で取り出されたときの何とも言えない感動は少し的外れだったのではないかと思わされる。えっ、そういう文脈だったの?みたいな気が、するでしょう。ちなみに同じ本に収録されている「清掃作業」という文章ではこんなふうにも言っている。


「広島の原爆ドオムが取り壊しになるといふ記事が新聞に出ていた。(中略)それに反対するものも相当いるといふことであるから、実現するかもどうか解らないが、もし取り壊されるならば、これはいいことである。(中略)或る恐しいことが起つたから、その恐しさを物語る現物をいつまでも残して置くといふのは、その恐しさから立ち直る決心をすることを初めから諦めているやうなものではないだらうか。又、それを見なければ決心が付かないのならば、これはもう完全に負けたのである。原爆ドオムのどこに我々の人間性に訴へるものがあるだらうか。あれを思ひ出す毎に長崎の平和公園の眺めが頭に浮ぶ。由来、悲みは醜いものではない筈である。」


初めて読んだときは彼のこのスタンスが、まあこういう考えもあるのかな、というように、受け入れられた。(私は、今でも原爆ドームが残っていてよかったと思っているが。)でも先月、久しぶりにこの本を読み返して、2013年の今は、この限定的な考え方では、だめだ、と思った。吉田健一の文章自体は、たいへん好きだけども。お酒もよく飲む、はっきりものをいう、よく食べる、みたいな豪胆な文学者というイメージ。

この本を読み返したきっかけは、東京デスロックの公演だった。ざっくり言ってコミュニケーションをめぐる作品だったのだけど、パフォーマから観客まで、一人一人が思考するということが必要そうだな…というところから「各自の生活を美しくして、それに執着する」というフレーズを久しぶりに思い出した、というわけ。

話を戻す。なぜこの考えではだめか、というと、私たちの生活は既に彼の時代に想定されていた戦災、災害を超えたものに襲われてしまったからである。災害のあった場所に住むことはもうできない、という事実がある以上、彼の文章の含意は、読み手が刷新するべきだ。それと同時に、やっぱり今、日本が(福島が)直面している事態は、太平洋戦争以上のクライシスなのかもしれないということを改めて思って、だとすれば、あのとき以上に日本人は必死にならなければいけないはずなのだけど、68年前の日本人がどれくらい必死だったか本当のところは私にはわからないし、今の日本人が本当に必死なのか、私も含めて、どう必死になればいいのかもわからなくて、それが一番苦しい。だから、もう単純に彼の言葉の一文だけを美しいものとして心に留めることはもうできないし、そういう力のあるワンフレーズみたいなものを求めたりも、これ以上したくないのだ。

2013年8月13日火曜日

プライベートスカイラインⅡ

大伯父のお見舞いに行った。体調がよくないのだ、と電話で言っていた彼は、老人ホームの自室のベッドで、上下とも下着のまま横になりっぱなしだった。おみやげに、西荻窪のこけしやの小さいチーズケーキを持っていったので、一緒に食べた。

大伯父は、昨年から勉強を始めたという戸坂潤という哲学者の思想について、マルクス主義を使って一生懸命説明してくれた。私がときどきとんちんかんな応答をするので、あなた、それ私が以前書いたの読んでないのか、とぼやきながらも嬉しそうにして、今月出したばかりの新しい評論同人誌をくれた。彼は、自室に大きな書棚をいくつも持ち込んで、壁中を本とクラシックCDと写真のアルバム(自分で撮ったもの)で埋めているので、話に応じて「そこのあれ取って」と言われる。レーニンの『哲学ノート』は、ものすごく紙が古くて、漢字の書体も戦前ぽい難しいもので、奥付を見たら「昭和9年」と書いてあった。大伯父がマルクス主義の話を始めると、レーニン、スターリンまで網羅しないと終わらない。彼にとっては何しろ生きてその目で見てきた道なのだから、こちらも耳を傾けないわけにはいかないのだ。

どういう流れだったか忘れたけれどもヘンリー・フォンダの話になって、『黄昏』のVHSを持っていけと言って、私の鞄に押し込んだ。そのあと音楽の話をしながら、やっぱり僕にはベートーヴェンの『交響曲第九番』とヘンデルの『メサイア』が最高だ、と言うので、伯父さまがそんなふうに主観的に「最高!」なんて言うの珍しい、と私が言ったら、伯父はベッドの上で顔をくしゃくしゃにして笑っていた。

水谷豊の『相棒』はカント的な絶対正義に基づいているのだ、と、ダシール・ハメットのハードボイルドミステリに絡めて話すのは、このところ大伯父のお気に入りの言説である。そのままカントとヘーゲルの話をずっとしながら、テオドール・W・アドルノの『否定弁証法』を読みたいのだ、と彼は言った。君のスマホでどの出版社から出ているか調べて、と言うのですぐ探した。Amazonのマーケットプレイスに出ているのが分かったので、私は即断で画面を操作し、注文した。来週これ持ってきますよ、と約束すると大伯父は、古本屋の在庫まで私の手元で調べられると知って驚いていた。でもそのとき私は、早く彼にこの本を渡さなければ、時間がもうない、と思ってしまったのだ。

お昼ごはんのチャイムが鳴ったけれども、大伯父は黙ってベッドに横になったままだった。しばらくすると、介護士さんがごはんを持ってきてくれた。介護士さんは、机の上の食べかけのチーズケーキを見て「わ!よかった!食べたいもの、好きなもの、食べてね」と喜んでいた。それで私は、普段彼がもうほとんど食事を取れていないことがわかった。その日は老人ホームの夏祭りイベントで、お昼のメニューは焼きそばだった。

背中が痛い、と言うので手を伸ばしたら、触らないでほしい、と言う。 肺の悪性腫瘍が、広がっているのだ。私は自分の手を引っ込めたかわり、大伯父の手をじっと見ていた。彼の手は、亡くなった祖母(彼の妹)の手と、骨張り方や指のそり方がよく似ている。帰り際、本棚に九鬼周造の『「いき」の構造』を見つけたので借りた。読んだら、返すためにまた会いに来るのだ。つかの間のお別れ、という意味で手をぎゅっと握ると、彼はぼそっと「君と話すのが一番うれしい」と言った。その声がずっと耳に残って、駅に向かう市内循環バスの中でちょっと泣いた。私たちは確かに血もつながっているけれど、年齢を超えてつながる魂みたいなものがもしかしてあるのかもしれないと思ったら、たぶん、何年経って思い出しても、泣いてしまう。

わたしの繭

マームとジプシー『cocoon』を、二度観た。月曜日の初日と、その週の土曜日。演出のニュアンスが大きく変わっていたところがあり、どこにクローズアップして書くかは迷いどころ。そのあとナオミちゃんと、芸術劇場の1階にあるお店で夕方早いうちからビールを飲んだ。そういえばこのお店には、好きな女の子と来ることが多い。ナオミちゃんはそこで、ふと恐ろしいことを私に言った。

「あなたは人生の中で安定と呼ばれるものを、何かひとつ持って書くべき。わかるでしょう。そういう人にしか覗けない不安の淵が、あるのよ」

私は手のひらを口元にあてて、撃たれたような顔で彼女を見てしまった。

2013年8月10日土曜日

ため息と独り言

ある人にはどうしてため息ばかりつくのと言われ、ある人には何でなにもしゃべらないのと言われ、ある人には独り言が多いねと言われたりして、その他よく指摘されることを統合しても何だか整合性が取れない。ただ、どうせ正直ではあるから、そのとき向き合っている人に対して一番素直な感情が出ているのだと思う。そして全然関係ない話に見えるかもしれないが、髪に触れたいと思うかどうかが、自分にとって決定的な差だというのがよくわかった。

とにかく蒸し暑い。歩いていると、背中や胸の間を汗がつたうのがよくわかって、顔に汗をかくより忌々しい。歩きながら、この暑さの中での戦争を思う。遠いフィリピンの地で死んだ、祖母の兄を思う。彼が敬愛してやまなかったという、夏目漱石の全集は私が今譲り受けて持っている。祖母もとっくにいないが、彼女が読んだ俳句にはよく兄が出て来た。いずれ句集をまとめなければと思っている。明日は、ただひとり残っている祖母のもうひとりの兄に会いに行く。

最近また町歩きをよくしている。この間会ったKちゃんにも「よくお昼休みにお散歩ツイートしてはりますね」と言われた。知っている場所から出発して、知らない道に逸れていくのがいいのだ。先日は、歌舞伎町から大久保まで歩いた。同じホテル街でも渋谷の円山町のほうが、道が狭くて急な坂とかがあって秘密っぽくていいと思った。歌舞伎町のラブホテルは、なんというか開き直っている感じがある。でも、あのバッティングセンターあたりの雰囲気はいい。新宿は特に、ソウルとか台湾とかと、欲望の混沌具合が似ている。アスファルトの感じ、看板の立ち並び方や情報量が、とてもアジア的だという感覚があるが、ああいう感じの原点がどこの街にあるのかは何だかよくわからない。

2013年8月9日金曜日

あめ色の髪どめ

物持ちがいい。今つけている茶色のバレッタは、17歳の誕生日に従姉がくれたものである。ぼーっとしているうちに歳月のほうが経ってしまうのだ。きっとこのままあと10年くらいは、壊れないかぎり、使い続けると思う。

バレッタをくれた従姉は青森に嫁いでおり、今はねぶた祭りも終わって、県外からのお客さま(ねぶたを見に、毎年誰かしら来るようだ)も帰っていったころだという。私も、二年前に見に行った。東日本大震災の年だった。どんな都市のどんなお祭りでも、私はとても好きで、でも、それは観光客の人たちが「元気をもらった」とか思えるからではない。お祭りは、やっている人たちが心や腹の底から「元気を出す」姿が美しいのだ。

昨夜は、先日山手線の渋谷駅でばったり会った同級生と、今度は待ち合わせをして会った。ほとんど帰り際、何の話をしたときだったか忘れたけど、彼女はしみじみ、あんたの周りはいい男が多いねえ、と言った。私は、ありがとう、という意味で少し笑った。

「俺の中ではお前の行動はかなり謎だな」
と、部署(というか会社全体?)の中でもアウトロー的で有名な先輩に、唐突に言われて、とんでもなくびっくりした。強面ではないのだが、雰囲気が騒々しいので、話しかけられると身構えてしまう。いい人なのはわかっているが「えっ、何でですか」というつまらないことしか言えなかった。
「俺、だいたいの人は口開く前に頭の上にテロップ見えるんだよな。ピコン、って、次しゃべる内容が出んの。でもお前はテロップ見えねえんだよなー。何か謎だなー。謎だよー」
言いながら、先輩は煙草を吸うために去って行った。先輩の声は大きかったので、周りもややぽかんとしていた。私はPCの前で固まって、え、そんなに謎かな?、と少し不服に思っていた。でも、偏見だが、サッカープレイヤーの人と(先輩はサッカーが好き)私のような趣味の人間は謎同士なのかもしれない。私はただ、思いつきと興味に駆られて動いているだけで、煮立ったお鍋のふたを興味本位で開けてみるまで蒸気が熱いということも分からないくらいの、ただの馬鹿なのだけども。

2013年8月7日水曜日

幽霊とダンスを

下北沢の街を、開演時間のような時間制限もなくさまよったのは珍しいことだった。歩きながら、ああ、ここ絶対に誰かと行ったのに、この道も誰かと歩いたことあるのに、全然思い出せないわ、と思って胸が痛くなった。そういう場所は、あの頃の私に会わないように駆け足で通り抜けた。誰か、って誰だっけ。男の子?サークルの仲間たち?高校の同級生?真剣に思い出せば、思い出せないなんていうことはないのかもしれないけれど、抜け落ちるように忘れたものの消息は知らないほうがいいこともある。

前置きが長くなったが、京都から遊びにきたKちゃんを待つため、ごはんを食べてから、喫茶店(カフェではない)に行った。一人で、たまにしか行かないのだけど、たまには行くので、マスターは私の顔くらいはたぶん知っている。でも話してみると、私を誰かと間違えているようなことを言う。もしかしたら本当はわかっているのかもしれないが、それはわからない。今日のマスターは、レジの側から私に話しかけてくれて、なぜか30代の男と女について語ったあと、店を女の子に任せてふらっと出て行ってしまった。Kちゃんは、東京芸術劇場でマームとジプシーを観ている頃だった。私は昨日の初日を観ていたので、彼女のこと、受け止められる(っていうと変な言い方だけ ど)からよかったな、と思いながら待っていた。パソコンを開けて、一生懸命自分の書き物は進めながら、2時間半くらいそこで過ごした。Kちゃんを駅の南口まで迎えに行って、今度は別のカフェ(喫茶店ではない)に向かった。


マームとジプシーを初めて観たKちゃんと、いくつか話をした。Twitterでは、書いた瞬間目に入ってしまうので、昨日は控えたことも言葉にした。週末にもう一度観るので、そうしたらもっと書くけれど、一応、以下に書く部分は色を変えておく。読んでも差し支えない量と質です。

藤田貴大の『cocoon』は、今日マチ子の漫画を圧倒的に超えた、と私は思う。その超え方は、今日マチ子の最近の、マームへの飲まれぶりを見ていれば予想は出来たけれど、そもそも原作とは別物になるよね、とか、音楽が入ると変わるね、とかいう次元の話ではなかった。漫画で、今日マチ子が描けなかった(描かなかったのではない。恐らく)空白を全て全て埋めて、螺旋状に音階が上がるように、風景を眼前に広げ、えぐり、叩きつけるようだった。現実とファンタジーの距離の測り方には一寸の容赦もなく、彼岸として描かれていた漫画を、思い切り此岸に引き寄せ、さらした。舞台上に現れたその状態は、苛烈を極めた。

Kちゃんの名前は、劇中で何度も呼ばれていた子の名前と同じで、その感覚でcocoonを観る、というのはどういうことだろうと想像した。(余談だが、私はその感覚はチェルフィッチュの『クーラー』で味わったことがある。あれは「マキコさん」がクーラーを寒がる話で、私に特別な実感を残した)

そこから、ダンスの話をした。京都のデザイナーであるところのKちゃんは、ライブハウス通いの音楽ガールでもあるので「最近ね、歌詞とかタイトルとかに”踊る”とか”ダンス”っていう言葉が増えてるんですよ」と言う話をしてくれた。ミュージシャンたちは演劇作家たちよりもムードをすぐ察知して演奏に落とし込むから、その敏感なスピードは信頼してもいいと私も思っている。しかし、踊るしかないところに時代が来ているのだとすれば、それはとても危ない。言葉でも身体でも制御ができない、暴走の別の意味としてのダンスが、すぐそこに迫っているのではないかと思って怖くなった。比喩にせよ実際の行動にせよ、もう他に手段がなくて踊るしかない、というときに人は踊るのではないか、というのは発見だ。

続いて幽霊の話になった。 ゴースト、という言葉の付くバンドも最近になって二つくらい見かけた、とKちゃんは言った。(あと「川本真琴and幽霊」とか?)私は、演劇でも、幽霊の話をしたりそういうものを扱う作品は、思うに2011年から明確に増えているよ、と言った。現実の裂け目から溢れ出るやわらかい、傷つきやすい、壊れやすいものに、名前をつける必要がみんなに生じているのだ。

ちょっとそれるけど、ゾンビについて。三野くんの写真展での、ゾンビとゴーストのパフォーマンスの話をしながら、でも、ゾンビのほうが健康的だし手に負える、と思った。幽霊は浮かんでるけど、ゾンビは地に足がついているからだ。腐ってるけど、撃てば殺せるし、殺しても起き上がってくる実体がある。

さっきの、傷つきやすくて壊れやすいものを仮に「幽霊」と名付ける話だが、幽霊に出会って時間が経った人たちは、それに実体を与えることを試みたりもしているようだ。だから範宙遊泳が大阪でやった『おばけのおさしみ』というタイトルは、素晴らしいと私は思う。いや、観ていないし、あらすじもわからないけれど、幽霊(おばけ)に実体を与えるのみならず、さばいて食らうタイトルをつけるとは、一体どういうメンタリティなのだ、山本卓卓よ。

話は戻るけど『cocoon』がやっていたのも、端的に言ってそういう意義があるのだ。私たちの世代にとって、想像も届かないほどの遠い沖縄の戦争に、あれだけの肉体的実感と負荷を作り出して、観客をその風圧で立ち上がれないほどに竦ませる、という。

2013年8月5日月曜日

時計の針

フロアごと、職場の引っ越しが行われた。同じ駅だが、もっと川に近い方のビルになった。初日から私は朝当番だったので、誰もいないフロアでPCを組み立て、IPアドレスが正しいことを確かめて、7時の定点確認メールを書いていた。ちらっと壁を見ると、時計が3時間以上狂っていて面食らった。いくら太陽の光り方が違うと言ったって、物証としては時計しか時間の証明にはならないし、視覚に文字盤が侵入してきたら自動的に頭がその時間になってしまうのに。

どうやらその時計は電波時計とやらで、引っ越しで運んできたとき何かのはずみで狂ってしまったそうだ。手では動かせないので、電池を入れ替えない限り難しいらしい。放置されているのを見たところ、電池だってたぶん簡単に交換できるようなものではないのではないか。そんなのを掛けておくことを許可した誰かは、何を守ろうとしたのか知らないけど頭がどうかしているので、本気で腹が立った。

朝当番で急いで家を出たので、冷房よけのカーディガンを忘れた。凍えながら午前中やり過ごし、早めの昼休みにして、買い物にいくことにした。日本橋に出れば知っているお店もいくつかあったけど、量販店の場所を調べて、あえて知らない街まで歩いて行った。川をいくつか渡って、信号を超えて、うしろを振り返ると、曲がりくねったように見えた道の遥か向こうまっすぐ、私が出て来たビルが見えた。結局、往復で1時間かかった。日傘を差していたとはいえ、相当暑かったけれど、でも冷房の部屋に閉じこもっているより、ずっと幸せな体温調節ができた。

何でも、あとから書くのはよくない、と最近ある人に言われた。いいことはいいけど、文句があるならそのとき言え、ということで、それもやっぱり私の書き方がよくないのだろう。少しだけ反省する。深読みは得意な方だけど、真っ当な共感がちょっと下手なのかもしれない。でも、誰かのことを思って書くと不思議にそれはその誰かに届いてしまう現象のことはよく知っているし、いつだってちょっと素敵に、あるいは無様に、宝石のカッティングのようなものが施されているというのも、わかっているのだ。

2013年8月4日日曜日

プライベートスカイライン

大叔母に、月に一度会う。そうめんを食べながら1930年代の日本の話をいくつかしてもらっているうち、この間若い子が、「海ゆかば」を口ずさんでいたのを聞いた、という話になった。

あれはねえ、送る側が鼓舞する歌じゃないのよ。特攻隊で死んでいく賢い若者たちが必死に自分たちを慰めるために、無駄に死ぬわけではないと信じたいがために、歌った歌なのよ。そう思うと本当に、悲しいねえ。私は今でも、あのメロディを聞くと、ほんとうに、不安になるの。悲しいよりも、不安になる。あのころの、一体日本はどうなるのか、こんなに嘘の情報ばかり満ちていて、どうすればいいのか、娘の頃の私の、ほんとうに不安な気持ちがねえ、今でも。

そして彼女は、当時の大本営の発表がいかに信じられなかったかを話してくれた。わかっていたのにどうしようもできなかった、とも言っていた。今だって、信じられない公式発表は山のようにある。そこで思考停止して(しまうように見える?)いるのはなぜなのか。話してみれば疑問に思ってる人はあらゆる年代に、たくさんいるにも拘わらず。

渋谷の地下鉄がわかりにくいからと言ったって、覚えるためには何度も歩いてみるしかしょうがないじゃん、と思う。迷路だわー、とか文句言ってるおばちゃんは今日もたくさん群れていたけど、そんなのお前の怠慢だわ、と心の中で悪態をついた。

どうしたってなるようにしかならない。これまでと同じだけ、あるいはこれまで以上に、私は私だと、まあ既に何度も唱えてきた気持ちを確かめてきたことの繰り返しでしかない。だって、どうやってもそのときいるコミュニティから外れちゃうのだもの。簡単に変わるはずもないのだから、都度生き方を選んでいくだけなのだ。

無敵の星

才能の話。タレント、という英単語には「贈り物」という意味があるし、ジーニアス、という言葉の語源は「精霊」だという。そういえばランプの魔人の名はジーニーだ。どちらの単語も、もともと自分が持っているものではなく、誰かからふっと与えられるイメージである。彼らはとても気まぐれだから、肩に止まったら、今この時をおいて他に捕まえることはできない。逃したら戻って来てくれない。”それ”をすべきとき、というのが絶対あると私も思っていて、天から降るにせよ地から湧くにせよ、タイプは様々だと思うが、今できることが、未来のある一点においてもできるとは全然思っていない。だからときどき異様に焦るし(たぶん周りから見て疑問に思われるほど)結局のところ、本当に私は書きたいものを今、今、表に出せるかどうか、そのための時間があるかどうか、感覚が保たれるかどうか、ということが気になっているのだろう。この間TA嬢が、大学のときに数百文字だけ小説を書き出してみたことがある話をしてくれた。その時の日記に一行だけ「今、小説を書かなかったらもう書くことはない気がした」とあるという。それ以来彼女は、別の仕事をしていて、自分で書くことはもうないかな、と言っていた。

無敵の話。たとえば私はある演出家の最近の仕事を見ていて、彼は今マリオの無敵スターを取ったみたいな状態だな、と思った。スターを取れるということは確かにあって、ちょっとした亀やクリボーくらいならすぱーんと飛ばせるし、ぴかぴか光って周りから見てもわかるし、それもつまり、才能の精霊をつかまえた状態に等しいのだと思う。美しい。思い返せば、かつてスターを取った状態になった(と私が思った)人は他にもいる。指折り数えてみて、確かにそういう現象はあるのだろうと思う。

嘘の話。Twitterにせよブログにせよ、ときどき相当嘘っぽいことを書いているので、出力具合が変になってしまったときは、真夜中のせいにして見ないふりをしたくなることもしばしばだ。事実としての嘘ではないし、そもそも別にまったく嘘ではないんだけど、まあでもありのままにただ毎日あったこととか、考えたことを書きます、というのは私にはできないので、必然的にこうなる。でも、嘘か本当かが他人にとっては結構重要みたいで(それはそうだろうとも思う)かつて、書いたものに関してひどくなじられたこともある。でもそれは私の作業精度が悪かったということで、今後の精進の糧にしなければならない。何でも自分のことから出発するからそうなるのだし、もっと枠の外に行きたい、とずっと思っているので、努力を続けるしかない。どこにいたって生きられるし、何にだってなれる。離れてからのほうが、とか、離れた人のほうが、なぜか近しい距離感で物事を見られるということは確かにあるのだし、それを他人がどう思うか、ありもしない目に縛られるような青春を繰り返す気は絶対ない。

と決意を勇ましく書いたところで、知らないうちに繰り返すのが人間の愚かで恐ろしいところなので、気づいたらすぐに書きとめて、見つめ直す習慣が必要だ。(そのためにこのブログを開設したのかもしれない、と今思った)

でも上記のようなことをしてしまうのは自分のことを書くときだけで、たとえば劇評などに嘘は書きません。あれは、取捨選択。まあ、嘘って何よ、という話ではある。事実誤認は書かないよ、というだけの意味にすぎないのかもしれない。割愛。

必要以上に気鬱の波に翻弄されるのもよくあることなのだが、身体と生活が切り離せないのを言い訳にするな、と嫌な顔をされたこともあるので、表にはやっぱり出したくない。別にそのせいだけじゃなくても、あとから見ると結構、そこまで塞ぎ込んだり仮想敵を攻撃しなくてもいいじゃないか(でもそれはつまり自分を攻撃しているのだ)と思うことはよくある。過ぎ去ると分かっているからこそ耐えられる種類の感情だけど、そこに他人も付き合わせるとしたらだめだ。付き合わせるならそれなりのものでなければならない。そろそろいろんな感情や視点がウロボロス化してきて、蛇をほどく気力も技術も時間もなく、とりとめがなくなってきているけど、今は比較的朝早い時間だから、ほどほど希望を持って今日という日を始められそうな気はしている。とりあえず、朝ごはん作って、食べよう!

今に閃く

昨夜彼女はメールで、私への質問に妙な言葉を使った。それまでの会話の流れを、ぐっと変えるみたいにして。 私はびっくりして、口をあけたまま携帯電話の画面を見つめ、ワープするみたいにしてこういう領域に飛び込める脚力を持っている人だな、ま、知ってたけど、と思った。ぎりぎりを掠めたのち、彼女はまたすぐに別の方角へ飛び去っていった。

部屋の本棚を整理した。前段を入れ替えて作家ごとに(多少)並べ直し、プログラミングとか金融の本とかを捨てた。そうしたら、同級生の女の子に昔お説教され、真摯な愛情について勉強しようと思って読んだ、エーリッヒ・フロムとかが奥から発掘された。でも、それと一緒に宇野千代も見つかったし、だいたい発掘しないと出てこない時点で普段忘れているということになるのではないか。あるいは普段から実践できている可能性もあるけど、それにしたって真摯な愛情って何よ、という気分になっている。

とりあえず今夜も書く。書き上げないと、仕方ない。

ある場所で使うので短歌を作った。年に一回、三つか四つ作る習慣なのである。習熟する暇がないので、ださいけど仕方ない。本当は三十一文字の中で、情景や五感を複数種類浮かばせることが出来るようになりたい。

(豪雨にふられて)
 蔵の街雷鳴とどろく夏嵐しとど濡れゆく黒髪のつや

(観劇のあとの飲み会にて)
 夜も更けて言霊さまよう街の辻杯を交わしつ愛を語らう

(実家での留守番)
 床に伏せ母の帰りを待つ犬とパンを分け合う秘密のしあわせ

2013年8月3日土曜日

帽子があるなら目深にかぶれ

ここへ来て、先月全体的にダークブラウンに染めた髪の色が目立ってきている気がする。少しずつ褪せてきたのだろう。しかも重めの前髪を、これまたうっとうしそうに垂らしているので、きわめて手をかけていない感じの髪型になってしまっている。はねやすい。

昼休み、ふとふたりになったところで「髪、伸ばすの」と残念そうに言われたので「ええ、それはまあ」とか何とか言って、ごまかした。その人が、耳の下くらいで揃えたスタイルが好きだというのは知っていた。ただ言及するだけで、妙な浸食濃度を示す人というのはいるものだ。

渋谷でライブを見て、そのあとHA嬢と落ち合ってビールで乾杯。彼女がもうひとりゲストとして呼んだHY氏もあとから合流。HY氏にいろんな指摘を受け、印象的な夜だったが、私よりHA嬢がそれをおもしろがって喜んでくれていた。

ねえ聞いていいかしら。あなたが持ってるそのカバン、奥にしまってる言葉はほんとうにあなたの歴史を語ってるの。

2013年8月2日金曜日

夏の名残の薔薇

夏つながりで、若い娘から恋の相談をよく受ける、という話。「一度飛び込めば変われますか」と聞かれたので「一度くらいじゃ何も変わらないわよ」と言った。だから安心なさい、という意味だったのだが娘は茫然としていたので、伝わったかどうかは不明だ。相談はそれですぐ終わってしまったので「いつだって本当に始まるのは唇以外の場所への口づけから」と、山田詠美に教わったことも付け加えた。

「夏の名残の薔薇」というのはスコットランド民謡だそうだ。もう八月になったので、すっかり残暑の気分である。





 
           
The Last Rose of Summer

'Tis the last rose of Summer,               それは夏の名残のバラ
Left blooming alone;                     一輪だけ咲き残る
All her lovely companions        同じ木に咲いた美しき仲間たちはすでに
Are faded and gone;                    色褪せ散っていった
No flower of her kindred,            ともに咲く同じ血筋の花もなく
No rosebud is nigh,                 小さな蕾すらそばにいない
To reflect back her blushes,          仲間がいれば紅の色を映しあったり
Or give sigh for sigh!              嘆きを分かち合うことも叶うのに

I'll not leave thee, thou lone one,        さびしい薔薇よ 私は おまえを
To pine on the stem;            茎の上で嘆き暮らすままにはしない
Since the lovely are sleeping,   愛しい仲間は永久の眠りについているのだから
Go sleep thou with them.                  さあ、共に眠るがいい
Thus kindly I scatter                 こうやっておまえを手折り
Thy leaves o'er the bed            花壇に葉を優しく散らしてあげよう
Where thy mates of the garden               仲間だった花たちが
Lie scentless and dead.             香りもなく散り敷く その上に

So soon may I follow,               まもなく私も後に続くだろう
When friendships decay,                     友情が朽ち去り
And from Love's shining circle          そして愛の輝ける団欒の輪から
The gems drop away!    宝石のような大切な人たちがこぼれ落ちる その時に
When true hearts lie withered,           心を許しあった人が枯れ果て
And fond ones are flown,            愛しき者たちも去ってしまったら
Oh! who world inhabit               ああ、誰が生きて行けようか
This bleak world alone?               この凍える世界に独りきりで

2013年8月1日木曜日

夜の線路沿い

不随意に涙が出る。人といるときにもそうなので(誰とでもではない)時に驚かせたり興ざめさせたりしていないか心配だ。涙だけですむならまだしも、声が出てしまうこともあって、そういうときは真剣に泣く形になってしまう。理由はいくつかあるが、悲しさやうれしさを実感した瞬間にそれが過ぎ去る、ことに対して反応が過剰なのだと思う。今気づいたけど、過去って「過ぎ去る」って書くんだな。当たり前か。 

数日前、電車の地鳴りと、横で話す人たちの会話を聞きながら、まだ新しい場所に行ける、という希望が私の中にはもうない、と思って絶望していた。遠くに行く、ということが人生の負荷にならない人がこんなにもたくさんいて、それに比べて私の恐れているものの実体の無さが情けなくて、あまりに絶望したので、途中から話がよく聞こえなくなってしまった。でももし、こういう距離感で書けるものが本当にあるなら、もうそれだけを見ていたい。

無知が人を傷つける可能性について、考えている。関係ない話だが、妹にこの間「まきちゃんにずっと『無知は罪悪』って言われ続けたのを覚えてる」と言われた。私、そんなに厳しく騒いでいたかしら、と思いつつ、横で聞いていた弟も同意していた。私の性格のきつさは、親ではない姉という近しさではよく作用するのかもしれない。ちなみに妹と弟は私を名前で呼ぶ。「お姉ちゃん」とか呼ばれてみたかった。そして、私は、他人よりもっと自分に厳しくいないといけない。 

夏なので、花火大会のことを思い出す。横浜の大観覧車に並んだこともあるし、川越、神宮球場や東京湾、荒川。よくもいろんなところに行ったものだ。もう息切れしてしまって、花火の美しさを見上げるより、下を向いてつかの間溺れたい気持ちのほうが強い。

こう見えて私は、愛がなければだめ、などと思うほどにはロマンティストなので、単なる興味には身構えてしまう。

昨日の世界

死にたいなどと具体的に想像しているわけではないけど、もうこれでは死んでしまう、と思うことはあるし、もう少し積極性を発揮するなら、消え去りたい、どこか遠くに逃げたい、とは思う。あまりの通じなさ、分かり合えなさに、これからも努力できるかわからない。

誰とだってお互いさまだと言われようが、そんなのわかって言ってるんだからただ聞いてほしい。私がどうでもいい、と言うときは、本当に本当にどうでもいいときで、それは本気で助けに来てほしいとお願いしたいときなのだ。でもそれが誰にも届かないということは、既に思い知っている。