2013年8月21日水曜日

紫のガラス

母親が自転車の練習をしている。その理由が私にはあまり受け入れられなくて、でもその気持ちは一生懸命乗れるようにならなきゃ、と思っている彼女に対してだけ向けられているのではない。期待という名の暴力そのものが顕在化したようなこの状況に、自分でもびっくりするくらい苛立っている。うまく乗れない自分を責める母からのメールを見ながら、いくらなんでもほどがある、と思った。サドルをもっと下げなよ、と私は返信したが、彼女は限界まで下げていると言う。そもそも無理な仕様のロードバイクに乗っているとしか思えない。止まるときは身体を傾けて足をちゃんとついて、と言って寝た。翌日、彼女は20メートルくらい進めた、という連絡をよこしたので、おめでとう、と返した。

俺の、私の気持ちを考えてくれ、と言って泣く男も女も世の中にたくさんいて、私はあるとき、その全てに応えることはできないという当たり前のことに、ぎりぎり気がつくことができた。じゃあわたし自身のことを本当に本当に考えてくれる人は誰かいるだろうか?そう思ったときから、絶対、自分のことは自分で一番考えて決めないと、と思ってきたのに、気づくとやっぱりうまくできていないことばかりだ。みんな、心配はしてくれるかもしれないが何もしてくれない。誤解を招こうが何だろうが、これは(わたしの)真理だ。なんて傲慢なんでしょう。こんなことを書いて、皆から見離される日も近い。

だから、私が誰かを心配するときは、何もできないことに対する絶望と対になっている。それはそれで、相手も鬱陶しいだろうし、あまりに独りよがりだな、とは思う。

携帯電話のカメラレンズ部分に埃が入ったらしく、妙な影が写るのでお店に持っていった。店員は悪びれもせず「交換します」と言った。いろんな履歴が消えてしまって寂しいけど、もしいつか全部終わる日が来るなら私、跡形もなく去ってゆきたい、と思ってるから。

なんて、嘘に決まってる。そんなの。

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