2013年8月29日木曜日

海岸沿い

妹と弟と宮城県に行った。ホテルの従業員のお姉さんに妹が、このあたりの津波被害について聞いていた。松島群に守られてこのあたりはほとんど無事だったんですよ、波の高さも低くて、と彼女は言った。それはよかったですね、と妹が言っているのを聞いて、私は少し変な感じがした。でも、私が話していたとしても、よかったですね、と言っただろうなと思った。彼女の職場は無事だった話を今聞いた。しかし、彼女の家族はどうだったかわからない。彼女だけじゃない。今フロントで会った人、すれ違った別の従業員の人、さっき通って来たお店の店員さん。それぞれの生活を毛細血管のように想像した。

翌日、南三陸の町まで行った。海岸沿いは、少しずつ整地されているけれど、もう、全然、本当に何もない。重機がたくさん入っていて、時間の問題というのもあるけれど、自民党政権に戻ったことも何か関係あるのだろうかと思ったりした。仮設商店街の写真屋さんが、2008年と2011年の定点観測の町の写真を見せてくれた。あそこで営業してるお寿司屋さんは昔このへんにあったんですよ、と指差しているおじさんが店の前にいた。

元通りになれば復興というわけではない。一度失ってしまった以上、元通りになっても、元通りであるということはあり得ない。地方、県、町。どんなところにも細分化されて溝が生じる。目を上げれば、高台に残った家が見える。そこから見下ろす風景を想像する。こんなに広い更地が、従来、日本にあるわけがないのだ。

防災市庁舎とか大きな病院は取り壊されずに残っている。地元のお寺の方でないかと思うのだが、自転車で、普段着でいらしていて、建物の前でお経を唱えていた。息子さんも連れていて、息子さんのほうも少したどたどしく、でも、父親と同じお経を唱えていた。

おなかがすいたので、三人で、商店街のお魚屋さんで海鮮丼を食べた。何があってもおなかがすくのが生きているということだ、なんて、当たり前なのだが、目の前のものを見ながら、更に更に、想像力を使わなければ届くものが見つからなくて、それも届いたのかわからなくて、いったいこれがいつまで続くのだろうと思う。もう二年半も経って、すでにこれが日常?になってしまっている?それすら私にはわからない。さっき見て来た家の枠の跡にそって、頭の中で町並みを組み立てながら、南三陸のうにを食べた。

車の中で、妹と弟と、戻れない場所の話を少しした。津波だけでなく、放射線量が高い地域の話、それによってもう食べられなくなった魚の話。表立って報道はされていないが、某県の某深海魚はもう漁獲してはいけないことになっているそうだ。家をかじるハクビシンの話、家から生える草の話。全部いっぽんの、ひと続きの道の先にあるんだよ、車からね、いきなりそういう風景が現れるんだよ、今までと同じ道を走っているのに、と妹は教えてくれた。

夜になって東京に戻り、最寄り駅で降りてしばらく歩いてから、手に職場用のおみやげの袋を持っていないことに気づいた。一応、駅まで戻って届け出た。無駄な半往復をしてマンションに着くと、共用廊下の蛍光灯が切れていた。屋外での暗がりの原初的な怖さを、いつまで経っても克服できない。昨日も、夜の黒い海を見てさんざん怯えたばかりだ。あの海沿いの町は今この時間、何の明かりもついていないのだな、と、家の鍵を開けるときに考えた。

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