2013年8月4日日曜日

無敵の星

才能の話。タレント、という英単語には「贈り物」という意味があるし、ジーニアス、という言葉の語源は「精霊」だという。そういえばランプの魔人の名はジーニーだ。どちらの単語も、もともと自分が持っているものではなく、誰かからふっと与えられるイメージである。彼らはとても気まぐれだから、肩に止まったら、今この時をおいて他に捕まえることはできない。逃したら戻って来てくれない。”それ”をすべきとき、というのが絶対あると私も思っていて、天から降るにせよ地から湧くにせよ、タイプは様々だと思うが、今できることが、未来のある一点においてもできるとは全然思っていない。だからときどき異様に焦るし(たぶん周りから見て疑問に思われるほど)結局のところ、本当に私は書きたいものを今、今、表に出せるかどうか、そのための時間があるかどうか、感覚が保たれるかどうか、ということが気になっているのだろう。この間TA嬢が、大学のときに数百文字だけ小説を書き出してみたことがある話をしてくれた。その時の日記に一行だけ「今、小説を書かなかったらもう書くことはない気がした」とあるという。それ以来彼女は、別の仕事をしていて、自分で書くことはもうないかな、と言っていた。

無敵の話。たとえば私はある演出家の最近の仕事を見ていて、彼は今マリオの無敵スターを取ったみたいな状態だな、と思った。スターを取れるということは確かにあって、ちょっとした亀やクリボーくらいならすぱーんと飛ばせるし、ぴかぴか光って周りから見てもわかるし、それもつまり、才能の精霊をつかまえた状態に等しいのだと思う。美しい。思い返せば、かつてスターを取った状態になった(と私が思った)人は他にもいる。指折り数えてみて、確かにそういう現象はあるのだろうと思う。

嘘の話。Twitterにせよブログにせよ、ときどき相当嘘っぽいことを書いているので、出力具合が変になってしまったときは、真夜中のせいにして見ないふりをしたくなることもしばしばだ。事実としての嘘ではないし、そもそも別にまったく嘘ではないんだけど、まあでもありのままにただ毎日あったこととか、考えたことを書きます、というのは私にはできないので、必然的にこうなる。でも、嘘か本当かが他人にとっては結構重要みたいで(それはそうだろうとも思う)かつて、書いたものに関してひどくなじられたこともある。でもそれは私の作業精度が悪かったということで、今後の精進の糧にしなければならない。何でも自分のことから出発するからそうなるのだし、もっと枠の外に行きたい、とずっと思っているので、努力を続けるしかない。どこにいたって生きられるし、何にだってなれる。離れてからのほうが、とか、離れた人のほうが、なぜか近しい距離感で物事を見られるということは確かにあるのだし、それを他人がどう思うか、ありもしない目に縛られるような青春を繰り返す気は絶対ない。

と決意を勇ましく書いたところで、知らないうちに繰り返すのが人間の愚かで恐ろしいところなので、気づいたらすぐに書きとめて、見つめ直す習慣が必要だ。(そのためにこのブログを開設したのかもしれない、と今思った)

でも上記のようなことをしてしまうのは自分のことを書くときだけで、たとえば劇評などに嘘は書きません。あれは、取捨選択。まあ、嘘って何よ、という話ではある。事実誤認は書かないよ、というだけの意味にすぎないのかもしれない。割愛。

必要以上に気鬱の波に翻弄されるのもよくあることなのだが、身体と生活が切り離せないのを言い訳にするな、と嫌な顔をされたこともあるので、表にはやっぱり出したくない。別にそのせいだけじゃなくても、あとから見ると結構、そこまで塞ぎ込んだり仮想敵を攻撃しなくてもいいじゃないか(でもそれはつまり自分を攻撃しているのだ)と思うことはよくある。過ぎ去ると分かっているからこそ耐えられる種類の感情だけど、そこに他人も付き合わせるとしたらだめだ。付き合わせるならそれなりのものでなければならない。そろそろいろんな感情や視点がウロボロス化してきて、蛇をほどく気力も技術も時間もなく、とりとめがなくなってきているけど、今は比較的朝早い時間だから、ほどほど希望を持って今日という日を始められそうな気はしている。とりあえず、朝ごはん作って、食べよう!

0 件のコメント:

コメントを投稿