2013年9月29日日曜日

胡桃の中の世界

その夜は、彼女も私も泣かなかった。そのかわり、日ノ出町の交差点近くのカフェでいっしょに壁にもたれてねむった。私のほうが先に起きたので、追加で温かいウーロン茶を注文したら、カフェのお兄さんに「大丈夫っすか、お疲れみたいで」と言われたけど、疲れてねむかったわけではないので「いいえ、特に」と答えた。起きた彼女と、まだ暗い道を駅まで歩いた。寒い朝だったので、毛布をかぶって寝た。

船から降りてくる人たちを待って、横浜のフィリピンフェスティバルを覗き、いっしょにビールを飲んで鶏肉の焼いたのと、ビーフシチューを食べた。友達のお母さんの得意料理だったアドボを見かけて、食べてみたいと思ったけど、明日家で作ればいいや、と思ってやめた。次の仕事があるからもう行く、と言って立ち上がり、皿とプラスチックカップを捨てにいった人の背中を見送りながら、私はふと
「ねえ、身体の線に合う服より年齢に合う服を着るほうが難しいし、人には必要なことだね」
と向かいに座っていた彼女に言ってみた。
「自分がいちばんよかった時代で止まっちゃだめってよく言うけど、服もそうだね」
と、くだらない話を続けていたら、彼女は前の日の夜と同じ遠い目をしながら、私の最近の予定の詰め方を聞いて、そんなんじゃ将来ママ友ができるか心配だよ、と言った。

2013年9月28日土曜日

少し灰色

意を決して、状況を改善すべく上司のもとに向かったが、最終的に、より仕事をがんばりたいので別のチームのことも引き受けさせてほしい、と申し出てしまった。何をやっているのだろうか。私は誰のために、何を背負うというのだ。期待に応えたい、という幼い感情ではなさそうだ。ネガティブなことを言って見くびられたくない?そんなの、同じくらい幼いという懸念は拭えない。でも、助けて、と言おうとしたのに、逆にその人を励まして帰ってくる、みたいなことは今に始まったことではない。助けあいの精神が歪んでいるのだ。

ある名前を持つ人と相性がわるい。誰にでもそういう傾向があるのかはわからないが、私には、小学生時代から、少しあわないかもしれない、と思う人々はそういえばこの名前である、ということがある。あらかじめ気づくことはなく、後から思い至ることがほとんどだ。でも、5、6人程度いるように思うので、偶然にせよ規則性に気づいてしまったときの気持ちは気のせいにはできない。気づいたところで口に出せば角が立つので、人に話したことはない。

2013年9月27日金曜日

夢とかⅡ

弱音の吐き方がわからないので、アクセルもブレーキもあってないようなものである。しかし責任は、何かが起きたときに発生するのではなく、私がそこに生まれた時点で(あるいはその役目に置かれた時点で)すでにあるものだ、という矜持は強く持っている。

明日の夜あの子に会う約束を果たす前に、なみだをぼろぼろこぼしてしまった。私は、他の子みたく人前で泣いたりしないわりに絶望に水をやるのが妙にうまくて、だからきっと手紙を書くのも得意じゃないかと思うんだけど。そんな小手先のご機嫌伺いなんかじゃ、なくって。

こんな吐息のようなことで、と驚かれたって、感じやすくなくてどうする。私は、くちびるから生まれる空気のふるえで文字通りいってしまえることを、後悔したことはない。

4時が好き、というのをときどき思い出す。一緒に夜更かしをして、何となくねむる準備をして夜の4時、とか。3時は闇が深すぎるし、5時は朝の気配がせわしない。ねむって起きてを繰り返して、静脈と動脈の区別もつかないくらい、翳った夕方の4時もいいと思う。3時は明るくて後ろめたい。5時は暗くて心もとない。カーテンをぴったり閉め切って、窓はあけておいてもいいけど、どこから数えても遠い時間がたぶん4時だから、安心するのだと思う。

2013年9月25日水曜日

循環

同級生に画家がいる。今は行方知れずとされていて、ときどき私にだけ連絡をくれる。母校の集まりで彼女のことが話題に上ることがあっても、私はそのことは秘密にしている。彼女に昔、「私って何色?」と聞いたことがある。きわめて少女趣味な、たわいもない会話だと笑われてもかまわない。でもそのとき彼女が即答してくれたのは「色のない色。でも、透明って意味じゃないよ」ということで、そんなことを思い出してまどろみながら毛布を引きあげ、そろそろウールのセーターを出そう、などと考えたりする。

そんなだから、寝つけないのと、ねむりすぎるのを繰り返す。カーテンもあけられなくて家から一歩も出られないし、長い長い夢を見る。もともとそんなことは珍しいので、起きて懸命にメモ帳に書きつける。私たちは映画じゃないから、ラストシーンがどこにもない。

乗った船には、職場の人々がいて、彼らは一様に私を睨め付けてくるのだった。その瞳の圧力に胸を押されるような思いがして私は船の中から出られなくて、中にある食堂や喫茶室をぐるぐる回りながら、人を探して走った。誰を探していたのかはわからない。戻った部屋では皆がすごろくに興じてダンスをしていて、私はそれにちっとも入れなくて途方にくれた。ダンスなら私のほうがずっと好きなのに、と悔しがっていたような気もする。

異様な量の髪が抜けて、排水溝に流れてゆくのをただ眺めていた。あまりに黒々として多すぎるので、冷静に、全部は私の髪じゃないかもしれない、とも考えた。

誘われて、自転車を引いて坂を上った。緑のきれいな公園に出る。道路が視界の下にひらけるくらいの小高い土地のようだ。昭和記念公園の、あのエリアに似ている。いつのまにか自転車のサドルに乗っている。私は、うまくタイヤの横あたりに足を引っかけて後ろに立ちたかったのだけど、そうもいかなかったらしい。二人乗りだと私は前が見えないから、どこに飛んで行くのかがわからない。それがとてもドラマティックだと思って、そんなことを考える自分は結局どこにいても自分すぎて、疎ましいほどに安心だ。風を切って坂を下る。森の長いトンネルを抜ける。遠くに出口の光があって、振り返っても入口に同じ光が見えて、でもそれは本当に同じ光なのだろうか、と、たぶん、私は考えていた。

港町の魔法

九月の連休は、大半の時間を横浜で過ごした。魅力的な催しが密集していたからだ。このブログでは、個別の作品のすばらしさについてはあまり言及しない。それよりは、自分からわいた感慨とか風景に触発されて何か書きたい。でも、すばらしくないときは言及もしないので、この複雑な思いは処理が難しい。

悪魔のしるしを観に行って、出演者の中に古い友達を発見した。先日も別の作品で同じことがあったのだが、大学時代から通算して12年ほども小劇場演劇に(ごくごく細々と)関わっているうちに、こういう「再会」に遭遇する年齢になってきたように思われる。それぞれ来し方は様々で、向こうからしてみても私と再会することは驚きの一言だろう。でも、久しぶりすぎて会話がぎこちなくたって、私は私と彼らのうしろに連なる、不連続なプロセスが結実した今がうれしい。

ハイバイの『月光のつゝしみ』 を観ながらぐっと心臓を掴まれて、息をしながら、身体が劇場の中に満ちた空気に溶けていくような心持ちがした。こういうお芝居があるから、許せはしないけど、遠くから見つめることくらいはできるようになる人がいるのかもしれないと思った。「あの人は子ども生んだことがないからああなのよ」って、いつか母が言っていたこととかをぼんやり思い出していた。

横浜の海沿いのカフェで行われる、ままごとのワークショップ公演に滑り込みで行けたことが連休のいちばんの特別なできごとだった。発表が終わって、カフェがそのままバーになったので、私は残ることにした。お酒を少し飲んで音楽を聞いて、胸が締めつけられるように好きな人がたくさんいて、それだけで見放されてしまいそうになり、とても人と話せない、と思ったので、窓のほうを向いてひとりで座り、ノートを開いて書き物をしたりした。カードゲームに興じる人々の声を背中で聞いて、飲みながら意見を交わし合っている人が窓ガラスに映り込む様子を眺めた。結びついては離れ、いつか忘れ忘れられてしまう今日。こんなに、過ぎてゆくそばから寂しい時間があるというのは、こんなにすばらしい時間はかつて自分の人生になかったと告白しているに等しい。12月、また来て下さいねってみんなが言ってくれて、でもその時の私は今と同じ私ではないはずで、それは何だか目の前が霞むような未来なのだった。憧れの人が私のノートをのぞき込んで「何書いてるの?」と話しかけてくれたときには、いわゆるネクラ文芸部少女みたいな根性になっていたところだったので、びっくりして飛び上がるような思いがした。その後しばらく話をしたけれど、ここで過ごした時間を後で振り返ることまでも想像しながら、私が、今ここにいる人やすれ違った人が作り出す時間をどれほどうつくしいと思い、そのせいで苦しくなっているかはきっと伝わらない。だからこそ、そういう自分を懸命に外から(未来から?)眺めて、自分が今日この場に立ち会って流した涙も自分だけのものにしないでノートに残そうとしていたのだが、私のその気持ちだって、彼は永遠に知ることはないだろう。それはもちろんそうあるべきだし、いつだって何かに愛を注ぐというのは、それぞれの孤独な営みなのだ。
 

2013年9月23日月曜日

無花果

ここ数日と言ってもいいし、ここ数年と言ってもいいくらいで、この日記もそうなのだが、ふとまとめて読み返すと自分が同じことばかり書いていて愕然とする。驚くべきは、書いても書いても、こちらの切実さはちっとも摩耗しないということだった。 でも、読む側の神経は摩耗するかもしれないから、気をつけなければならない。そしてこれを書きながら、同じ手法が続くと飽きる、とか、その先の表現に行ってほしい、とか言われているいくつかの劇団のことが頭をよぎった。私は、手法はともかく作品ごとの切実さがまっとうならばそれでいいよ、と思っていて、つまり私にとって一番重要なのはそういう切実さの表れなのだということが、奇しくも自分の日記の山を通して明らかになったわけだが、そこの機微をどう説明していくかが、次の自分の課題かもしれない。

無花果のことを、自分では好きだと思っている。でもそれは祖父の好物だったから好きなのであって、食べるとだいたい「こんな味だっけ」と少しがっかりする。がっかりしたところで無花果を嫌いになるわけではなくて、これをおいしいと思えるようにまた食べたくなる。だいたい、好きな理由を簡単に説明しきれるものは本当に好きではないのだし、そう考えると無花果のことはかなり好きなんだろう。

何に向けたものにせよ、自分の愛がどのように結実するかには大変関心を持って取り組みたいが、全方位への「もて」みたいなものはなるべく遠ざけて生きたいし、他人の愛情の行方にも正直興味は持てない。なぜなら私の愛が一番強いに決まってるから!……というパフォーマンス的なことを常に嘯きながら、波風立てて生きていたい。

それはあなたがものを書く人だから、とある文脈で最近言われて、普通なら、条件つきの言説にはクレームのひとつもつけたくなるところだが、私がなにかを書くための頭をなくすことは(おそらく)ありえないから、まったく動揺も苛立ちもせず、全部水割りで流し込んでしまえるくらいには、うれしかった。しかし「言われてうれしいこと」というのは得てして「自分が一番認めてほしいこと」であり、その自覚なきまま安易に喜んだりはしたくない、とも思ってしまったのでどうも可愛げがない。

2013年9月22日日曜日

睡眠を導入するための反復運動

繰り返しは眠気を誘う。同じ道を何度も通っていることに気づくと最初は困る。でも、本当に困り果てたあとには、眠るしかない。眠りに落ちるために有効な何らかの反復運動は、子守唄を歌ったり髪をすいたり日記を書いたり、何だってかまわない。

ため息が、どんな思いも引き受けてくれるのでつい頼ってしまう。うれしくても寂しくても、失望しても孤独でも。 でも、どうせならため息だってすっと身体を通るほうがいいのだから、身体はいつもなめらかに動くようにしておきたい。

ジャン=フィリップ・トゥーサンの『浴室』を10年ぶりに読んでいる。このブログタイトルの由来になっている人魚を浴室で飼って一緒に暮らすイメージは、たしかこの小説がもとだったはずなのだが、思いついてから長い時間が経ってしまったので今となっては何だか創作とヒントの境界は曖昧である。

使い道の不確かな言葉ばかり頭の中に溜めているから、いつまでも熱が下がらない。でも、誰にも読めて伝わる言葉で、誰にもわからない秘密を書けたらいい。

2013年9月19日木曜日

In other words

「落ち込んだときのほうが、空は綺麗ですよね」「そうかも。でも、空って落ち込んだときしか見なくない?」という会話をしている人たちがいて、私はそれをじっと聞いていた。私は晴れでも雨でも夕暮れでも空ばかり見て、うつくしいなあ、とさめざめしているので、それはいつも落ち込んでいるということだろうか、と考えたりした。

とにかく恋文には命をかけたい。「あなたが好きです」ということを、どのような言葉に乗せ換えるかは、いつだって一番の勝負だ。脚本、小説、手紙の隅、メールの末尾、劇評、日記に至るまで、研ぎ澄ましたいと思う気持ちは、私にとって愛の告白の精度を上げるということなのかもしれない。それは「君を愛しているからだよ」という言葉に対してカポーティがかつて書いたような究極の返答に、この世でもう一度出会いたいと思ってしまう気持ちと、近い場所にあるような気がする。

一度覚めると眠れない。どうして、一度も起きないまま朝も昼もねむり続けることのできる人がいるんだろうと思う。そのとき、私は私でちょっと変わった時間の過ごし方をすることにして、それはとんでもなく孤独なことだったけれど、とにかく続けた。ひとりのときより孤独じゃないでしょ、と後から言われたけど、あれは、ひとりのほうが寂しくない。でも隣にいるのに孤独だと思うのはなぜかを考えるほうが興味深いし、寂しいことと寂しくないことだったら、寂しいことをいつもなぜか選んでしまう。かつて切り捨てたいと思った他者と、今受け入れたいと思う他者のことをずっと考えながらやってみた。ねむる前の時みたいに少し泣いたりしながら繰り返した。そんなにも、と驚かれたけど、でも、別に全然大したことではないのだ。

2013年9月18日水曜日

月光浴

やたら歩いてしまう夜がある。この間は、最寄り駅の手前で降りて、真夜中の街道沿いを長く歩いた。その間に届いたメールは全部無視した。

昨日は、職場を出てから2時間、意地になっていることもよくわからないまま、夜の東京を東から西へ歩いた。金融の街を抜け、飲み屋街を横目に、暗い濠のまわりを走り回る人々に巻き込まれそうになりながら、シャッターの閉まった古書店の看板をひとつずつ読んで、とうとう神社にお参りするところまで行ってしまった。思い悩んでいるとき、私は神社みたいな場所に吸い寄せられやすいたちである。おみくじを引いたら、結婚は三年待て、と書いてあって今さら途方に暮れた。縁談は自分から騒ぐと壊れるから黙れ、とも書いてあった。学問は詰めが甘いと書かれ、失せ物は出ず、商いは急ぐな、とあった。あまりに困ったので、結んで置いてくることもできず、ポケットに入れて持ってきてしまった。夜遅くても、神社にはたくさんの参拝の人が訪れていた。

そのまま十三夜の月を背に、何かを振り切るように歩いたけれど、結局乗ったのはいつもの地下鉄の車輌だった。それを嘆いていたら、友人が、ステップアウトして振り切ろうとして戻るというのは意味のある身ぶりだ、というレスポンスをくれた。私は思い直して、そういえばドリフトもブレーキングが命らしい、と答えた。

2013年9月17日火曜日

君の味方

目が覚めるたび、さびしさは募るし、絶望は深くなる。隣に誰が寝ていてもそうなんだろうか。どうだろう、わからない。朝方から目が冴えてしまって、もう一度寝付くためには抱きしめてもらわないと、といつも思うのだけど、起きてるかもしれないのにこちらを見てくれなくて寂しいときもあるし、絶対起きないなこれは、というくらい眠っているのが寂しいこともある。だから結局眠れなくなって、薄い鉛筆で線をずっと引くように意識を持ったまま、低空を滑って明るくなるのを待つ。夢の中で名前を呼ばれたことを、思い出している。親しさや愛情は中にくるんで、遠く乾いた三人称。

のどが痛い、と思ったが、のどあめをそういえば持っているということに気づくまで一時間かかった。この頃仕事に行く意欲がなかなか持てなくて、出社する前から帰りたいし、起きる前から眠りたい。始まる前から、終わりたい。

その夜、私は「面倒見がいいのですね」と人から言われたばかりで、でも、母なる面倒見のよさだけではなくて、姉のようなつめたさもあわせもつのが私だから、本当にやさしいってどういうことだろう、っていつも思っている。でも私は、血膿のしたたる思いを抱えきれずに引きずっている人がやっぱり好きで、それはいつもなるべく味方をしたいというような、気持ち。

夜中のことだった。顔が見えないのでわからないけれど、泣いていなければいいな、と思った。言うことと書くこと。その速度の違いを意識すること。何のための遅さであるかを知ること。その上で私は、必要な速さを身につけなければならない。

2013年9月14日土曜日

乙女座の月

数日前が誕生日だった。母が家のごみ置き場に置いて行った花は無事見つかった。(※二つ前の記事参照)

その日は、15歳になるまでの15年間と、その後の15年間が果たして本当に同じ長さだったのか、頭の中で検証していたら一日が終わった。そして夜のだいぶ遅い時間から、MN嬢の部屋に遊びに行って、またいろいろ話をしたのだった。本当にぶっ壊れたやばい男は、まわりにどれだけ人がいても瞳の光ですぐわかる。

ここのところ、女性が何かを書いたり、芸術作品を作ったりするときに感じる様々な抵抗の話をいろんな人として有意義だったけど、有意義であるということは疲れるという意味でもあるので、なかなか消耗もした。語り方がいくら新しくたって、語られることが新しいわけではないこともあるし、バリエーションはそうそう増えるものではない。

だからって何でもあきらめていいわけではないけれど、いつだって腕枕は男の余裕だし、膝枕は女の甘やかしと決まっていて、それくらいは分担してもいい。私たち、他人の身体を通して自分を見る、ということが、彼らよりは少し得意。

最近記憶にあるだけでも、 携帯電話のカメラが壊れ、給湯器に落雷があって電気が通らなくなり、冷蔵庫が原因不明で冷えなくなった。家電が身代わりになってくれているとか、自分を見つめ直せという印だとか言われるけれど、一連の故障が何を示唆しているのか、考えてもよくわからない。わかりたくないだけだったらどうしよう。それでは重ねた年の意味が、あまりないように思われる。

1936-2020

オリンピックが決まった朝のこと、ある人からメールが来た。でも私は東京にいるしかないし、この狂騒を見届ける意志を今のところ持ってる、と返事した。そのあといくつかやりとりして、結果としてひどく落ち込んだ。仮に世の中がまた戦争に向かうとして、いつだって残されるのは女で、男たちが去っていくこと、一緒には苦しんであげられないこと、彼らがもう戻らないこと、動乱の中に置いてゆかれる覚悟は、15歳のときから何度も想像している。

という話は面倒なのでしていないが、そのとき私は黙っていたわけじゃなくて、1936年のベルリンオリンピックについて調べまくっていたところだった。当時男子マラソンで金メダルを取った選手は、日本に併合されていたころの朝鮮出身なのであった。そして思い出したのはこの劇評。大学時代、東館の図書館で、ある女の子と一緒にこの作品の映像をずっと観ていて、その他様々な事情により、ある意味で私の大人になってからの(思春期という意味でなくて)人格形成に非常に影響している。こういう植民地支配にまつわる物語の影響なしに、今、演劇を観続けていたかも分からないくらい。

ベルリンオリンピックと言えば思い出すのは、レニ・リーフェンシュタールが撮った『オリンピア』という映画。独裁者の演説を撮った『意思の勝利』も、授業で観た。何でこんなこと覚えてるかというと、彼女にちなんだ名をつけられた先輩が大学にいたからだ。彼女とは、今もときどき飲みに行くので、レニ・リーフェンシュタールのことも忘れない。彼女の毀誉褒貶を思いながらWikipediaを何となく漁った。

職場に北京からの出張者が来ている。出張自体は、相互的に、しょっちゅうたくさん行われているので珍しくないが、私が去年北京で大変お世話になった人が三年ぶりに日本に来たので、この前ランチした。北京のオリンピック公園はまあまあうつくしいけれど、あんまり面白くないから私は行きません、と彼女は笑った。

他に北京で一緒に仕事をした楊さんという人のことも思い出す。彼が「中国の人は、日本みたいに、あまりえらい人のことは皆で話したりしないのです」と言ったのをよく覚えている。簡単な日本語だったので、かえってダイレクトにその日常が伝わった。そのとき楊さんと私は食事をしていて「楊さん、このつるつるしたやつ何ですか」と私が日本語で尋ねたら「五月雨です。あ、違った。春雨です」と答えてくれた。そういう日本語の知識があるのに、彼は母語で政治について語ることはないのだ。

ひとつのシステムで障害があると、部署を超越して影響が出ることも珍しくない。原因は些細なことのはずなのに、ひとつの判断ミスから思いもよらない方向に広がり、結局大きな労力がかかる。時間もかかる。テンションは下がる。金融システムでさえそうなのに、原発関連の、数十年かかるようなプロジェクトに対して本当の真摯さで取り組めるほど、人間の意識のスパンは長くない。これまで少なくない数の炎上プロジェクトを見たり、その火消しに放り込まれたりする経験をした。自慢できることではない。でも、期間と予算に基づくひとつのプロジェクトというものがどれだけ予定どおりに進まないか、その進捗管理とトラブルの制御が難しいものかは、少し知っているつもりだ。

東京オリンピックまでにはリニアモーターカーの運転開始は間に合わない、という結論が出たそうだ。今後14年ほどかかるリニアモーターカーのプロジェクトを7年でやれるかどうか、ということが言われていたらしいが、決定しなくてほっとした。原発事故の現場でも、水の処理などの特定の作業を7年で終わらせろ、ということが言われているのではないか。そうなったら、2020年という期限だけが独り歩きして、それに間に合うことだけが目的になるのだ。おそろしい。そういう、期限が目的になってしまった指示にたくさん遭ってきたけど、今さらそれを気に病むほど繊細じゃない。やるしかないんだから繊細なんかじゃいられない。そして、うまくいかなかったとしても検討されるのは新たな対応ではなくて(もちろん対応は現場で考えるけども)いかにして上に報告するか、なのである。本当にこういう世界あるんだ、と思いつつ、私だって思いっきりそこに加担して、なのに週末は演劇とか観て泣いたり、あまつさえ劇評を書いてみたりなどしている。信念と生活が乖離してんだよ、でも、どうにもできないんだよ。自分の矛盾に気づいていたって、行動できないことを贖えないことは、わかっているのだ。

で、そのあと彼は、昔死んだロックスターの話をしてくれたけど、それを聞いても私はよけい傷つくだけだった、でもそれは別に彼のせいではない、という長い説明の日記は以上。

2013年9月11日水曜日

女の成長

「男はせいぜい本音と建前の二層くらいしかないけど、女の多重人格はいくつも同時に働かせることができる」と、かつて母は言った。まあ、覚えてるかは知らないけど。いつだって彼女は、自分が昔言ったことを覚えていない。

私はいつか私に似た娘がうまれる予感があるけれど、父親になる男が悲しみそうだなと思う。ああ、何と言うことだ、お前はお母さんそっくりになってしまったね、悪いところばかり受け継いで。なんて、20年後くらいに。

母が大伯父を訪ねたらしいので、そこから近い私の家に寄ってみた、というメールが来た。私の住むマンションの共有玄関には鍵がかかっていて、鍵がないとエントランス部分(というほど広くない。狭小な階段スペースだ)に入ることもできない。それを忘れていたらしく、私にくれるための花束はマンションのごみ置き場に置いて来たから拾ってね、と書いてあった。「夜まで無事にありますように!」というふうにメールは締めくくられていて、え、ちょっと、ママン、それはおかしいんじゃないの、と携帯電話をにぎりしめて脱力したけど、彼女がずれているのは今に始まったことではないので許した。母を許すということ、すなわち女の成長である。

2013年9月8日日曜日

贈り物

男から体重計が届いた。体脂肪とか筋肉率も測れるやつだ。先日不在票が入っていて、知らない名字だったので、家にあまり帰っていなかったこともあり、忘れていたら再配達されたのだった。呼び鈴が鳴ったので出ると宅急便で、荷物を見て、不在票にあった謎の名字は某有名電気屋の名前だったことを私は理解した。

しばらく前に食事をしたとき、なぜか(迂闊に)体重計を持っていない、という話をしてしまったのだ。やたら勢いこんで、では買ってあげよう、と言われたのだが、冗談だと思っていた。それでしばらく体重とか体型の話になってしまって、失敗した、という記憶もあった。

知り合ってずいぶん経つ人だが、何で体重計の話にだけ、あんなに食いついてきたのだろう。家電好きなのかな?と思ったが、これに裸で乗るのはいかにもためらわれて、開ける気にならない。MN嬢にメールしたら「私は昔ガスマスクをもらったことがあるよ」という、クールでいかれた返信が来た。

タイプライター

パン屋でクロワッサンを食べていたとき、急に電話が鳴った。いつだって急に鳴るのが電話だが、表示された名前が大伯父のものだったので、何か大変なことがあったのではないかとぎょっとして出た。彼はゆっくりと、もう字があまり書けなくなってしまって、自分がしゃべるからそれをテープに録って私に書いてほしい、ということを言った。いつ来られるか、と聞かれたので、私は時計を見て一瞬考えてから「二時間後に」と答えた。自宅に寄ってラフな服に着替え、レコーダーを持って老人ホームに向かった。

私が少し遅れたので、彼は私に何度か電話をしたようだったが私はそれに気づかなかった。事故にでも遭ったのかとても心配した、と彼は言った。私は約束より15分過ぎた時計を見て、謝った。

彼のかわりに書き取った話は、アドルノの弁証法についてのものだった。彼は私が持ち込んだノートパソコンを、タイプライターと呼んだ。

話の中で今村仁司のことに触れ、終わってから大伯父は、今村氏の著書をいくつか本棚から出してほしいと私に頼んだ。そのうちの一冊の奥付のページに、今村氏の小さな死亡記事が切り抜かれて貼られていた。大叔父はとてもまめなたちなのだ。

そうか、死んだのは2007年なんですね。
え、何年生まれなの、彼は。
1942年、って書いてあります。
じゃあ、ずいぶん早いな…60ちょっとで死んだのか。
はい。
…まあ、ああいう人たちは、だいたいみんなガチャ勉するから、身体も壊すんだろうねえ。
そうですかねえ。
私みたいに、適当にやってたらこんなに長生きもしてしまうけど。はは。

大伯父は、私が二週間前に渡した本を既に半分くらい読んでいて、これは翻訳者が25年もかけて訳したものらしい、という話をしてくれた。そのあと、私の携帯電話のアルバムを繰りながら、赤いパーティドレスを着た私の写真を見て彼は言った。

あなた、赤いのはあんまり似合わないんじゃない。
えっ、これが一番似合うと思って今まで着ていたのですけど。
その青のほうがいいよ。

そして私が今着ている服を指して笑った。紺色の、ジャージー素材の何ということのないマキシワンピースだ。僕が青を好きだということかな、と言いながらなお嬉しそうに笑っている。自分のらくらくホンに、この間娘が転送してくれた花火大会の動画があるので見たい、と言う。私は適当かつ適切に操作して動画を探し出し、しばらく一緒にそれを見た。最近仲良くなった介護士さんがいて、彼はどうやら若い頃に漱石を読んでるみたいなんだよね、と教えてくれた。17:30を過ぎて、介護士さんが夕飯を持ってきた。大伯父はまったく食事をとる意欲を見せない。

好きなものじゃないと、最近は食べられない。
うーん…そうですか。何がお嫌いなの。
そうねえ、肉とか…魚。
それじゃ食べるものなくなっちゃいますよ。
君、鯖は好き?
鯖?いや、あんまり。でも締め鯖は好きです。
私も、この間食べた締め鯖はおいしかったよ。

そのあと大伯父は、この間私が持ってきた佃煮がおいしかったと言って、別の人にもらった昆布は味がきつすぎる、とこぼした。確かに私が持っていった佃煮は、百貨店で買ったとてもおいしい(と私が思う)ものだったので、喜んでくれたと知って、うれしかった。

あれがまたほしいな。おねだりしてもいいかな。
もちろんですよ、また持ってきます。

彼がそれで白米を食べてくれるなら何でもしようと思った。

じゃ、そろそろごはん食べようかね。

大伯父がそう言ったので、私は少し安心していとまを告げた。今日書き写した原稿は、原稿用紙に清書して送ると約束した。手を振って私が部屋を出ようとしたとき、今ごはんを食べると私に言ったはずの大伯父が、気だるそうに横になってしまったのが見えた。立ち止まった私に彼は、背中が痛いんだ、と言った。




 私たちの実際生活では、面つき合わせればいつもいがみあってしまうことが多い。素顔と素顔との対面関係が本当に平和裡に進行することは、まことに困難である。面つき合わせれば、何か暴力的なものが顔を出すのではないかと恐れて、私たちは互いに顔をそむけ合う。顔と顔とのスキ間にひそかに支配する権力が割りこみ、個人の人格はいつのまにか目にみえぬ大きい力に隷属してしまう。生活のなかにしっかりと根をおろした希望(暴力なき人間関係)を少しでも現実のものにするためには、何よりもまず素顔同士の意思疎通の可能性を追求することが要求される。他人を、強制力や暴力なしに受け入れるつきあい方、交通の仕方を建設することである。暴力をおしもどし、それが頭を出すところでそれを溶解させてしまう他者との関係ができるとすれば、それこそ希望の名にふさわしい人間の生活が生まれたといいうるのである。言葉のなか、思考のなか、さまざまな行動のなかに、棘のある暴力がある。私たちが実践する多面的な行為のなかから、暴力性とよぶべき要素をひとつひとつとり除いていくこと、こうした地味な作業こそ、単なる知的行為でない真実の理性の仕事である。生きられる生活を、暴力なき理性をもって建設すること。そこに思想と実践のあらゆる面で希望を育てあげる道が開けていくのである。
 希望を失うな、希望を育てよ----これが現代思想の最後の言葉である。
 (今村仁司(2006)『増補 現代思想のキイ・ワード』ちくま文庫)

2013年9月7日土曜日

くだもの

指先にとって少し噛む。苦くはなくて、むしろ甘い。しばらくのどが焼けるくらい。赤いジュースの缶を捨て、いつもの道を横に逸れ、すぐ行き止まりで息が切れ、見知らぬ扉がたくさんあって、猫は私に目もくれない。降りても降りても、坂の上。

2013年9月5日木曜日

好き?

昨日あったことを思い出して今日書く、というスタイルが多い。軸足は今日にある。

自分のことどう思ってるか、人に聞けるってすごいことだなと思う。大切であればあるほど怖くて聞けないというのはあって、それは、自分のほうが好きすぎたらどうしよう、ということなんだけど、よく考えたら自分のほうが深く好きだと困るというのは、愛した分だけ愛されたいと思ってしまって、でも自分のほうが多く愛している以上それが叶わなくて苦しいってことなんだろうか。でも多く愛するって何だろう。みんな楽に生きられればいいのに。

あと私の書いたもののどこが面白かった?というのは、私のこと好き?どこが好き?と聞くのと同じくらいできない。客観的な成否を伴うという意味では、気持ちよかった?というほうがよほど楽に聞ける。

まあそれは本題ではないので、いつかまた恋愛問題集のねたにするとして、結局、簡単に聞いてしまって確認したいということは、自分の安心を優先しているように見えるので、それがあさましく思われて嫌なのかもしれない。「あさましいから嫌」というのは、私の中で結構大事な感覚で、気がつくとよく言っている。口に出すと差し障りがあることも多いから、黙ってることもあるけど。

東京について、様々な見地から考え方を収集している。演劇の供給のされ方。地方の俳優。そして、地方の観客。拡張された「われわれ」という言葉を無神経に使う東京の男がいて、でも結局、どこから始めるか、ということなのかもしれない。私はこれまで東北、北陸にしか縁がなくて、薄い青の空と水びたしの白い絵の具みたいな雲、寂しげな細い針葉樹しか肌になじみがない。南や西の島々は私にとっては異世界で、私がうれしそうにしていたとしたら、それは今ここにいない人のおかげだから、それはごめん。

ふと、女のほうが身軽だと思うよ、と言われて、バンコクに居を移したSさんのことを考えた。彼女のことは全然知らないけれど、彼女について、実はときどき考える。

生きている人

劇評を書く話と、関係あるようなないような、と私が書くときはもちろん関係あるのだが、刑法の名誉毀損では、たとえ書かれた内容が嘘でも本当でも、毀損された名誉が死者のものであれば罰せられない。でも生きている人の場合はその事実が本当のことでも、罪になる。これは、刑法各論で勉強した話なのだけど(もう講義を受けたのは10年も前だ)今もときどき頭をよぎる。今この瞬間も生きている人、これからも活動を続ける人が、相手だということ。

気にしていた訴訟で、違憲判決が出た。婚外子の相続に関する問題だ。全員一致なんて、大法廷、やるじゃん!と思って、仕事中にとても嬉しかった。

1973年の尊属殺違憲判決まで、日本では尊属加重規定と言って、親とか祖父母とか、父母より系図が同等・上の血族・姻族を傷つけたり殺したりすることは、通常の傷害や殺人より罪が重かった、ということを思い出したりもした。これは憲法の講義の、わりと最初で習う。(今調べたら、これが廃止されるように条文が変わったのは1995年らしい。改正には時間がかかるのだな)

家族のことは、時々考える。

お昼、駅前の喫茶店に行ってサンドイッチを食べた。空席を挟んで隣は女性二人連れで、ひとりはトースト、ひとりはナポリタンを食べていた。ナポリタンを頼んだ女は、いい年して細切りのピーマンを全部よけていたので見ていていらいらした。ピーマンくらい食べろよ。

2013年9月3日火曜日

すみれ

帰り道に、安野光雅の展覧会に行った。皇居のお庭のお花の水彩画展である。写生をするときに彼という画家が何をしているかといえば、陰影をじっと眺めて写し取るということだ、というのがわかった。

私には大事な先生が何人かいるけれど、絵を教えてくれたY先生は中でもとても大切な人だ。中学と高校の間、好きな女の子と二人でその教室に通っていたのだが、自分が大学受験をするときにやめてしまった。そのとき先生は私にすみれの花の絵をくれた。17歳の私は、すみれという名前の女の子が出て来る小説に運命を感じていたところだったので、今に至るまで引っ越してもずっと、その絵を壁に飾っている。

理由なんて忘れた

泣いた理由はきちんと書いておかなければならない。その日の自由が丘は祭囃子がうるさくて人もやたらと多く、この街ってこんな場所だったっけ、という疎外感に苛まれて私は歩いていた。久しぶりに会った友人は開口一番「大丈夫?まともに生きてる?」と言ったので私はいらっとして「生きてない」と答えた。彼女は以前から「あなたが思うように生きるとろくなことがないから、恋愛には満足しないまま死ぬのがよい」とか「子どもを産んだら落ち着く」とかいう(デリカシーのない)言葉をいろいろくれる、ありがたい、友人である。それは私のためなんだろうけど、でもそんなのは(言うまでもなく)私が決めることだ。そして私は、子どもを産んだくらいで変わるならそれが何より恐ろしい。しかし、よくも飽きずに、変わるのが怖いとか言い続けられるものだ。いざ自分が変わってしまったときに、変わらない人を見て気持ち悪いとか思わないようにしよう。でも、川端康成の『山の音』を読んだときに「ああ、年をとってもこの煩悩から逃れられないんだ」と思って怯え狂って、それを当時の友達に言ったら「そんな感想ありなの?」と笑われたけど、でも私は本気でそれを憂えていたんだよ。年老いたら解放されるものがたくさんあると信じて年をとる希望を持ってたのに、どうやら全然だめそうだし、むしろ増えていく一方なんじゃないかって、思ってしまったときのあれが。今でも。

余談だが、このところ面倒な人々に辟易しきっているというのもある。面識がある人にせよ、街で出会った人にせよ、私の輪郭を侵食するやり方がおかしい。本気で突っぱねろ、とひどく説教されたのでこの頃はそれを実践しているが、それが足りないのだろうか。私が本気でありったけの嫌悪と罵倒の語彙を発揮すれば、どんな男もしんでしまいたくなるほどの殺傷能力はあるはずなので、たぶんまだ足りないのだ。私の手は、そんな面倒な人を抱きしめるためには、ない。

だから話はそれるが、異性と遊んで喜んでいる人を私は信用しない。好かれたり頼られることが珍しくも何ともなくてうんざりしている人が好きで、それは私の、持って生まれたもののせいで嫌な思いをしたことがある人、に対するフェティシズムみたいなものだ。

私が何か言いたい、と思って、言いかけるとそれより先にいくつもの言葉が返ってきて、とうとう私が泣き出すまで誰も気づかない。泣いてから何かしてもらったって仕方ないし、泣いてどうにかできる年は過ぎてしまった。足りなかったものを後からいくら補おうとしても満たされるわけないのがまだわからないのか。いやいや、わかってるのにまだやるのか。

私は、もういられない場所を思って泣くときに一番変なエネルギーを発してしまう。もうすぐ皆に会えなくなるだろう。そのまま朽ちて死ぬかもしれない。大丈夫、あなたは死なないよ、って言ってくれる友達もいるし、三年前の日記を見たら「もう恋に落ちる体力がなくて石炭みたいな気持ちしか残ってない」と書いてあって、あほかと思うくらいには未来はわからないもので、それに希望を持ってもいいってことを私は知ってる。でも私は何回でも、愛したものから、人々の輪から外れていくだろう。泣いてもいいからかきむしって書いて、でもそれで何かを取り戻そうと考えるべきではない。春には照りつける太陽を、夏には落葉降る並木道を、秋には肩に積もる雪を、冬には花咲く庭を求めて生きるしかないし、これを闘争と呼ぶことにはいささかのためらいもない。むしろ、ためらいを覚える人がいるというのも不思議だなあと思うし、自分の気持ちをすっきりさせるために文章を書く人もいるようだが、でも、そんなふうに簡単にあなたのものになってくれるほど(私が欲しいと思っている)言葉は軽くない。

その証拠に今書いてきたことは虚構の話ばかりだし、全部電車の中で書いたから勢いあまってつんのめってるし、読んだ人が面白くないと思ったとしたら、それは私のセンスと技術がないせいなのだ。

2013年9月2日月曜日

美しさの価値

元上司が久しぶりに私を見て「お前、いくつか顔を持っていないか?」と言うので「そんなに違いますか」と返したところ「いや、何種類かあるのは知ってるんだが」という答えをもらった。比喩ではなく、本当の見た目のことらしい。

ここ数ヶ月、男と女の間には何が起きるかわからないって頭ではわかっていたけど世の中本当にそうだ!!という事例を立て続けに見ている。なんと、あの人とあの人が数年越しに…というような感慨もあり、20代にはちょっと似合わないような、人より少しいろんな経験をしてくたびれてしまった人々の間にこそ編まれる何かは田辺聖子の小説でも読んでいるみたいだ。そして、そういう恋の見返りがこの世にあるなら、もう少し生きるのもいいかもしれないと思う。でも、欲望がまだ自分の中にあることを確かめるために無理に掻き出すような生き方は浅ましいから、そうはなりたくない。

ロマンティストと美しさの話を少し考えていた。建前や強制から離れたプライドと美しさのために生きることはロマンティックだ。そういう美しさを私はとても好きで、なぜなら美しいということは構造的に強いという意味だから、信頼に足る。

夢とか

よくつまづくので、階段から落ちるとか、敷居に引っかかって派手に転ぶとか、すぐに事故に遭う想像をしてしまう。このスピードのままハンドル急に切ったらどうなるだろう、ということを考えてしまって、高速道路や山道の急カーブなんかを走るのは、いつも怖い。でも、ひとりで車に乗るときはちっともそんなこと考えなくて、純粋に生への執着が増した状態になっている。無事に、できれば華麗に生還したいと強く思う。それに比べて、誰かと一緒のときは、どっちかっていうと、このまま走って異次元に抜けたりしないかな、とか、衝突して宙返りしたらどこまで身体が飛ばされるのかな、とか、本当にそうなっても文句は言えないくらい、いろんな想像をめぐらせて怖くなっている。

いきなり友達に連絡して、会いたい、と言ったことなどない人生を送ってきた。何にしたって遅すぎるなんてことはなくて、それを決めるのはただ私の思い込みだけである。

愛について(私が)語るなら、どんな話をするだろうか。愛とは、わかりあえないことをわかりあうこと。小さくてもいいからあなたにいいことがありますようにと祈ること。あなたの痛みを自分の痛みよりつらく思うこと。あなたが誤解されてたらそれを歯がゆく思うこと。胸の奥のロマンティシズムが死にそうなときは人工呼吸してほしい。夕暮れの歩道橋で、まだ少年のあなたに、いつかわたしに出会うことを教えてあげたい。