2013年10月29日火曜日

二つの手

友達にはめぐまれてきた、とわたしも思う。物語の主人公になれるか、なれないか、ということで言えば、わたしはなれない方の人間、という信念のもとでこれまで生きてきたし、わたしではない誰かを主人公にするために、今夜も相変わらず「だけど」と「だが」の使い分けについて悩んでいる。友達について考えるときに、たまに思い出す文章がある。小説に共感するような読み方はもうしないが、しおりがはさんであったということはリズムが気に入ったりしたんだろう。

わたしは夜ときどきベッドの中で、友だちの中で誰のことが本当に好きだろうと考えてみることがあるけれど、答えはいつも同じだ。誰のことも好きじゃない。この人たちはみんな仮の友だちで、そのうちに本物の友だちができるんだと思っていた。でもちがう。けっきょくこの人たちが本物の友だちなのだ。わたしの友だちはみんな、自分の好きなことを仕事にしている。いちばん古い付き合いのマリリンは歌うのが好きで、名門音楽学校の事務局で働いている。もちろんそれだっていい仕事だとは思うけど、口を開いて歌うだけっていうほうがもっといい。ラララ。

好きかどうかということで言えば、これよりもっとあとの文章のほうがいい。

わたしのもう一つの欠点がそれだ。今あるもので満足できないこと。そしてそれは一番めの欠点—あせること—と手に手をとって結びついている。もしかしたら手に手をとってるんじゃなくて、同じ動物の二つの手なのかもしれない。もしかしたらその手はわたしの手なのかもしれない。わたしがその動物なのかもしれない。
(ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』 訳 : 岸本佐知子)

ひとりきりの本当の「孤独」について考えると「密室殺人」という言葉を思い出す。たしか森博嗣が書いていたのだが、「密室殺人」という言葉は正確ではなくて、というのは犯人が脱出している以上、それは密室”前”の殺人であり、 あとから密室になるからである。孤独もそうで、孤独”前”の状態がなければ、孤独にはならないだろうと思う。本当の孤独は誰かと一緒のときにやってくる、とも言うが、それだって同じことだ。

わたしは、好きな人は見えなくなるまで見送る、と自分で決めていて、その人々が改札にのみこまれてゆくとき、階段を上がってゆくとき、自転車で走り去るときなどの局面では(できるかぎり)そうしてきた。その行為と同じくらいの濃度で振り返ってこちらを見てくれる人はこれまでいなかったので、たいがいの男はわたしのその取り決めを知らない。

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