2013年10月31日木曜日

三十二歳


家にやって来た彼女は、私のうしろから階段をのぼりながら、黒いストッキングをはいた私の足の腱の張りかたについて言及した。おみやげに、マリアージュ・フレールのÉrosというフレーバーの紅茶をもらったので、こけしやのケーキにあわせて、一緒に飲んだ。ポットの中で、ハイビスカスとモーヴの花びらが浮くのがかわいい。私の部屋は、明確な仕切りやいれものはないけれども「これは缶バッチを置くところ」「これはノートを並べるところ」というようにあなたの中で所在位置が決まっているのだね、というのが彼女の分析だった。何ごとも頭の中で完結させがち、という自分の傾向は知っていたが、部屋の全体までそうだというのは、ただの自分勝手なのかもしれない。

机上のものをだらしなくずらして、紙に文章を書きつけながら「わたし適当なのよ」と彼女に言いわけしたとき、私の頭をよぎったのは、今の口調はあまりに母に生き写し、ということで、イントネーションから声色からこんなに似た生きものが育つというのは、もはや逃れようがないのだな、とひそかに観念した。昨日は家の近所で、幼いころの私にそっくりの2歳くらいの子どもを見かけてぎょっとしたし、気分はだいぶ走馬灯である。

やまだないとの『西荻夫婦』の中で、みぃちゃんが「ねえ、60歳のわたしたちって、本当にわたしたち?」と旦那に言ってみる、というシーンがある。次のページで、漫画家の旦那は「途中で老人の自分とバトンタッチするんじゃないかな!」と言いながら元気に焼き鳥をたべていて、わたしはそこも含めて好きなんだけど、彼女は「でもそういうばかっぽい感じでも、答えてくれる人自体なかなかいないよ」と言ったので、またわたしは目がひらかれる思いがしたし、ひらかれた目からは、いつか涙が落ちるだろうとも思った。

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