2013年11月27日水曜日

今日は寝ない日

君は簡単にショックを受けすぎだよね、と、港町のカフェで言われた。そう振る舞っているつもりがないことほど本当の自分を映していることは分かっているので、恐らくそうなのだろう。自分で自覚している自分のことは、半分くらいしか信じないのがよろしい。しかし、ショックを受けながらもどうやって書くか、誰に話すか、どう描写するかを同時に考えることが、私にとっての緩衝剤になっている。私の行動に対してどうももの言いたげなので「未練がましいかな」と聞いてみると「いや、まあ何だろうね」と言葉を濁してどこかへ行ってしまった。

蜜柑をむいて食べながら、床に仰向けになって転がって、今自分が死体だったらどうかな、と考えたけれど、死んでいないので死体ではなかった。人が蜜柑を一生懸命むいてぱっぱと口に入れる姿は、小動物のようなスピード感を持っているので、どちらにしても人間ではない。

自転車で街の肌をなぞる、というモチーフが最近見た演劇に出てきて、それについてはきちんと書いている途中なのだけど、自転車に乗ると、急に街と街の断片がつながる瞬間があって、身のすくむような思いがする。街を知っていって、その肌に自分がなじんでしまう恐ろしさとかなしさを、このごろ痛感している。

母が、柿と何かでミックスジュースを作るとおいしい、と言っていたので何だったかなと思って聞いてみると、バナナと牛乳だった。まじかよ、また適当なこと言ってんじゃないの、と思ってやってみたら、たいへんおいしかった。

2013年11月24日日曜日

冬の気配

11月だから今はまだ秋なのよ、という暦主義の私の発言を受けて、もう寒いから冬だと思ってた、と気温主義の男が言った。同じ寒さなら、あたためてもらいたいと思うよりも、あたためてあげたいと思うほうが好きだ。甘えたいと思うより、甘やかしているときが幸せなのと似ている。その考えは私の傷つきやすさと表裏一体だけれども、気づいている人がいるかは知らない。

亡くなった大伯父の本棚を、老人ホームまで引き取りに行った。吉祥寺からの市内循環バスに乗ることももうないだろう。もらった本棚は大きく、いくらでも本が収納できた。マニキュアがはげ、爪がわれ、指先の水分が失われるまで、その日は紙の束を片付け続けた。

フェイシャルのマッサージをまた受けにいった。女は私の顔だけでなく、背中や鎖骨のあたりを触っていくつかコメントしたのちにふと「お母さまもこういう肌理をしているのですか」と言った。えっ、まあ私と同じ年齢のときにどうだったかは知りませんが、顔かたちやしぐさは似ているからどうかしら、と思って、一瞬戸惑ったのち「たぶん」という妙な答えをしてしまった。今回、身体の緊張は少しほぐれていて、少しだけれどベッドでねむった。

夜は近くの喫茶店に行った。とある人がその店にいることを私は知っていて、なので混んだ店に入ってその人の隣に案内されたときにも自然に「こんにちは」と言うことができた。彼はめがねをかけなおして、少し面くらったように私のことを見た。私も前髪をちゃんとかきあげて向き直った。本と音楽とお酒を深く愛する顔をしている人だ、というのがわかった。その喫茶店はテーブルでノートパソコンを広げるような風情の場所ではないので、私は帳面をひらいてシャープペンシルで、最近観た演劇について書いていった。その人も、小さな電子画面にずっと何かを書きつけていた。いくらか話もして、結局閉店まで一緒にいたけれど、この街は坂がなくてどこまでも見渡せるから、彼にもいつかまた会えると思う。

2013年11月23日土曜日

天鵞絨の声

寝付けなくもあり、早朝に目が覚めることもある。そういうときは少し起きて身体を洗ったり、簡単な掃除をしてからまたねむってみる。家からは、出ない。 

毎夜本棚を整理する。曾祖母や祖母、大伯父の俳句や短歌の草稿がたくさん出てくる。文学については血脈に伝播してにじむまで時間がかかるので、親子の作家というのはいても、それは書く習慣が遺伝しただけで、作家性を素直に認めたり、受け継いだりしていくのは、隔世であることが多い気がする。

知り合いが、小学六年生に言葉についてのワークショップをしたという話を聞いて、思い出したことがある。私が小学生のころ、あれはたぶん、当時の担任が知り合いか何かで呼んできたんだと思うけど(変わり者で有名な教師だったし)たしかどこかの記者か編集者が授業をしにきたのだった。新聞の読み方とか、文章の書き方について、国語の先生とは全然違うへんなことをいっぱいしゃべっていた。当時の私は、家族以外の大人と言えば習字教室の師匠くらいしか話したことがなかったのでよく覚えている。子どもにとっては、学校と家庭が世界の全てで、それ以外の全体は、何となくまとめて生活の背景みたいなものだ。その記者は、授業が終わったあとも教室に残っていて、何人かの児童から話しかけられていた。私は大人が珍しかったし、やや自意識過剰で構ってほしかったので、その輪に寄ってゆき、ボウリングのこつを教えてほしい、と言ってみたのだった。授業の中で彼が、ボウリングが趣味です、と言ったせいだったように記憶しているが、あとから捏造した記憶かもしれないし、今考えても何の脈絡もなくてよくわからない。それくらいの年の頃に、友だちとボウリングに行った覚えがあるので、その直前で何か心配があったのかもしれない。ともかく彼は数秒考えて「ぶれないことかな」と言ってくれた。その人の声はベルベットみたいな手触りで、うつくしい茶色だった。 

ぶれない、って何を、と思ったが聞けなかった。礼を言って、担任とその記者が一緒に教室を出て行くのを見送った。ぶれないこと?身体の芯を、なのか、ボールを持った手を、なのかは分からないがその言葉はその後しばらく不思議な吸引力で私を支配した。でも私は不器用で、身体の使い方もうまくなかったので、へたに固定すると、全体が凝りかたまってうまく動けなくなった。大人の言葉は、時に言った本人が思った以上に、忠実に子どもを従わせる。しかしまあ、おかげさまかは知らないが、今に至るまでぶれずに育ててこられたものも多くある。私はあのとき子どもで、「横顔がとても素敵」なんて男の人に対して思ったりはしなかったし、たとえば彼が、大人になった私がそう思うくらいの人であったならばロマンティックな話だが、彼の顔はとっくに忘れてしまった。

しかし、どうもほんの少し、生まれ間違った気がしてならない。いつも戻れないほど遠くまで来てしまうくせに、慕情の強さは人一倍だ。酒のしずくは甘いし、涙は苦い。毎日毎日、嘘をひとつ混ぜて日記をつけなくては生きてゆけない。

2013年11月20日水曜日

大切な嘘

「だって大切なことは何でも面倒なのよ。宮崎駿がそう言ってたわ」と母が言うので「それはアニメーション映画を手描きでつくるのが面倒っていう意味でしょう。私が言っている面倒さは、もっと何て言うか、抽象的なことなの」 と反論した。そのあと母は私がたべたお茶碗を見て「北国育ちの子ってお米をきれいにたべるって言うわよね」と言った。「お米の大切さを小さいときから教えられてるから」とすましているが「その話、今作ったでしょう」と聞くとすぐに「うん」と答える。こじつけと作り話の習慣は遺伝するのでやめてほしい。

四ッ谷に行って、坂道を下ったり神社にお参りしたあとで、ベルモントという食堂に行った。学生のころ、演劇サークルのミーティングでよく通った定食屋だ。昼下がりのお店には、おじいさんがひとりだけ窓際に座っていて、私も8年ぶりにテーブルに座った。おばちゃんがいなくなっていて、息子っぽい人が調理場にいた。最初にお豆腐が出てくることと、みそ汁のわかめが多すぎること、からあげの味は昔と同じだった。ここにひとりで来たのは初めてだな、と思った。

本当に久しぶりに、日中、前後不覚にねむくなった。電車の中で今にも倒れるかと思い、まあ、座っていたので倒れるのはまぬかれたものの、いったいいくつ乗り過ごしたのかわからないほど遠くの、青い電波塔のふもとまで行ってしまった。うなだれてねむっていたので首筋はすっかり凝り固まり、頭痛がひどかった。涙も出ないまま、反対側の電車に一生懸命乗って、病院をめざした。もらった処方箋は面倒なのでまだ薬局に持っていっていない。これが大切なことだなんて、今はとても思えない。

2013年11月18日月曜日

理解と寂しさ

老人ホームまで、大伯父の部屋の整理に行った。母の従姉とその夫君が先に来ていて、書棚やCDラックを片付けていたので、私も参加した。段ボール箱に古い本とCD(ショスターコーヴィチ、バッハ、ヘンデルが主)を詰めて、譲ってもらった。ほしかったけど言い出せずに念じていたら、大きな書棚本体も譲り受けることができることになった。

返送しなければならない書類があったが、極限まで放置したあげく、ついに極限を越えたので、夜中に速達を準備する羽目になった。電車で新宿の郵便局まで行こうと思っていたが、近所の道をふらふら歩いているうちに、なぜか青梅街道まで歩いて行くのもいいな、という気を起こしてしまい、霜月も半ばの寒い夜ということも忘れ、片道20分弱を歩くことにしてしまった。愛する町を足で愛でるキャンペーンの一環として、ひとけのない道を一生懸命歩いた。善福寺川の中には緑の草がはえていて、たぶん、セキショウモという草だと思うが、あまりに多くしげりすぎているように思うので好きではない。郵便局に行ってから、青梅街道の上の歩道橋にのぼってしばらく爆走する車を見ていた。このまま道路に落ちる想像を何度もしたが、私が落ちる日は今のところはやってこないはずである。帰り道、歩くのが嫌になったのでタクシーを拾ってやる、と思ったが流しの車がまったくやってこず、結局歩いて帰った。途中、MN嬢に電話したら彼女は何とパリにいて(この前、ハワイにいたばかりではなかったか?)電波が悪かったのでおしゃべりはあきらめた。他にこころよく電話に出てくれそうな友達も思いつかなかったので、今日はひとりで歩く日なのだ、と思い定めて家を目指した。

夜道を歩きながら今日一日のことを思い返していたら、しばらく封印していた「寂しい」という気持ちがお湯のように涌き上って流れ出して大変だった。今日会えた何人かの人。会えたけれどすぐ別れた人。会ってしばらく一緒に居た人。でも皆、結局離れてしまう人。普通に、事故もなく生きると仮定すれば一応まだ結構人生は残っているはずで、これだけ生きた成果としては、大人になったら寂しくなくなると思っていたことは、大人になっても寂しいということが分かっただけにすぎない。

理解者を得るということが人生においてどれほど起こりがたい出来事であるかは、ちょっと考えれば分かる。顔をあわせるだけの人、訪ねてきてくれる人、好きだと言ってくれる人はいても、理解してくれる人、というのはつくづく得がたい。 会話をする人に恵まれていたり、いつもそばに誰かがいるからあの人は寂しくないだろう、などと考えるほど、この日記を読むあなたは愚かではないはずだ。

2013年11月15日金曜日

プライベート・スカイラインⅢ

大伯父に昔もらった手紙が見当たらなくなってしまい、かれこれ数年探していたのだが、本棚の奥にそれを挟んだ雑誌を見つけた次の日、彼が亡くなったという知らせを受けた。私はそのとき劇場のロビーにいて、これからレバノンの作家の演劇作品を観るところだった。開演前の暗闇の中で少し泣いて、気持ちを切り替えた。

終演後、劇場の地下階でグレン・グールドのゴルトベルク変奏曲を聞いていたら1時間くらい経ってしまって、そのあいだにいくらか涙も出たようだった。帰ろうと思って腑抜けのように歩いていたところ、知り合いが誘ってくれたので明るい酒席に少し顔を出すことにして、死者について考えながら、生き続けて作品を作っている何人かの人たちに元気づけてもらった。

本棚の奥から見つけた手紙については、近いうちにこの場で引用しようかと思う。

今日は、通夜に行った。彼は入院した日に「こんな顔であなたに会いたくないから」と言って、ホームに戻ったら会う、という約束をしていたのにそれはかなわなかった。棺の窓から顔を見て、その寝顔はとてもきれいで、私に顔を見られるのは不本意だったかもしれないけど、置いていかれるのは私の方なんだから私の心残りがないようにさせて下さいね、と心の中で話しかけた。大伯父の息子たちが入れ替わり立ち替わり現れて、大伯父が家族に私のことをどう話していたか聞かせてくれた。母の従姉が「今までありがとう。まきこさんの顔を見たら急に悲しくなってしまったわ」と言うので、一緒に泣いた。私しか知らなかった彼の顔が、もう誰にも知られることがないことに泣けた。

2013年11月14日木曜日

彼女たちの履歴

本棚を片付けていたところに、母がやってきた。私がせっせと作業している横で、手伝うこともせず急に、高校生だったころに、深沢七郎が曳舟にひらいた太鼓焼き屋に行った話を始めた。あまりに突飛な話なので信じがたいと思ったが、そこの包み紙は横尾忠則が描いていた、というので、どんなの?と聞いたら「何かすごい原色のやつ」というざっくりした、しかし横尾忠則の本質を突いた答えが返ってきたので、どうやら本当らしいと思った。「お嫁に行くまではその包み紙を持っていたんだけど」と彼女は言った。それから彼女は、「話の特集」という雑誌が好きだったこととか、そこの編集長だった矢崎泰久という男のこととか、彼女が彼を直接知っていたかどうかはその話しぶりからはわからなかったが、ともかく私の片付けのリズムにあわせた雑談を繰り広げつつ、紅茶を飲んでいた。そうして唐突に「あっ、シモーヌ・ヴェイユ」と声をあげたかと思うと本棚から『重力と恩寵』を抜き出し「懐かしい、読んでいい?」と言って、何が懐かしいのか説明もせず、持って行ってしまった。

このごろ、一族の女たちが妙な一面を私に見せる。人生の岐路を迎える年齢になった私を、新しく迎え入れた仲間として、打ち明け話でもするかのようだ。結婚前の大失恋の話とか、大きな借金をいかにして返したかとか、そういうのを次々聞かされていると、今の自分の年齢だってずいぶん生きたように錯覚しているけれど、まだまだいろんなことが降り掛かるに違いない、と思って茫洋とした気分になる。

父の妹に電話をした。あまりにメールを返さない不義理を働いていても、心が痛むし、こじれてよくない。彼女はだいたいいつもそうであるとおり、だいぶ陰気に酔っているようで、彼女の夫が飛び降りたときに私がどのように励ましたか、それがどれくらい支えになったか話してくれた。そのあと私の子供のころの話をして、私も娘がほしかったの、と湿った声で言った。

本棚を片付けていると、学生時代に買ったり読んだりしていた雑誌や演劇のチラシ、パンフレットが大量に発掘される。その中の1ページに、見知った人の名前を見つけてはっとした。もちろん当時の私とその人は知り合いでも何でもないのだけれど、しかし8年もの間、私の部屋の片隅にその人の痕跡が記された紙が眠り続けていたというのは不思議なことだ。人と人が出会うということは、顔をあわせ、言葉を交わすことだけではないと知ってはいたけれど、しかし何にせよどちらかがどちらかを認識するところからが、出会いの始まりだと思っていた。「もしかしたら、あのとき同じ場所にいたかもね」みたいなことは、ロマンチックではあるが、ただのすれ違いであって出会いではない。だが(気づくにせよ気づかないにせよ)その人物の確たる痕跡が私の人生に掠っていたということは、物理的な実感を伴うもので、こういう「出会い」について考えることは、私が演出家だったら作品につながったかもしれないが、私は演出家ではないので、このように日記にしたためて終わることにする。

2013年11月12日火曜日

教育

少し前、飲みながら、隣の女の子が別テーブルの人々のやり取りを聞いていて「なんか童貞っぽい」と言ってきたので「童貞っぽいんじゃなくて、年上の女に教育された感じが無いのよ」と答えたら、彼女は膝を打って喜んでくれた。役に立ててよかった。

環境について、このごろよく考える。「こういう環境で育ちました」とか「こういう人たちと関わりながら生きています」ということが、その人自身に影響していないわけがない。いくら抵抗しようとも、逃れられないものはあって、その受け入れ方が最近の私のテーマだ。大人になってから自分の意志でおこなった選択に意味が無くなるほどに無自覚に飲まれるわけにはいかないが、無碍に切り捨てることもできないものの中にその人がいるだろうし、そういう諦めと抵抗のアンビバレンスにとても興味がある。

正直、他人が引くほど気分と体調にむらがあって、まずい。20時間ほとんど寝たきりだったり、カーテンもまったく開けず、お湯をわかしてお茶だけ飲む生活だったり、パンを一口だけたべて捨てたり、掛かってきた電話にも半分怒りながら対応したりするので、前まで普通にできていたことがちっともこなせない。会社から来た封筒も、一週間開けないで放置しているし、どうして開けられないのか、開けたくないのかも自分で分からない。困るのは、まわりにも私が「もともとそういうところのある人」と思われていることだが、心配されたいのかされたくないのかもわからないし、されたところで「心配しないで」などと怒ってしまうだろうから、一体何なんだろうと思う。

好きでもない男が自分の認識できるほどの近くに寝ている、という状態が大嫌いで、夜中のファミレスでいびきをかいて寝ているひとがいるので、ものすごく帰宅したい。私のそばで寝ないでほしいし、寝るなら呼吸器からの音はさせないでほしい。

とりあえず三十二歳までは、途中で死ななければ生きると決めた。それまで、今好きな人たちのことを好きでいたいと切に思うし、自分も好きなことができていればもっといいけれど、好きな人たちが生きていてくれるだけで、今はいいな、と思う。フランス語は勉強したことがないけれど、フランス語の「すごく愛している」という言葉は、逆に軽い意味になると聞いた。辞書に使用例として「彼のこと愛してるの?」「すごく愛してるわ(=好きって程度だけど)」というのが載っているらしくて、べつにその精神性に共感はしないが、心の片隅に置いてもいいとは思う。

2013年11月11日月曜日

口の使い方

家にあるたべものがアイスクリームだけ、という状態が続いて長い。今日は、サーティワンのバナナアンドストロベリーを消費した。何でアイスクリームをたべているのか自分でも全然わからない、と思いながら惰性でスプーンを口に入れていたら、指がべとべとになった。たべものと言えば最近印象的だったのが、屋台で何かを買うのが苦手になっていたことだ。どうも「焼きそばください」などと言おうとするときに「1パックを、同じモチベーションで全部たべきれるのか?」という不安が先に立って動きがフリーズしてしまう。飲みものは買えるので、先日も池袋西口公園でチャイだけ買った。焼き鳥を買った人に焼き鳥を恵んでもらって、それはうれしかったので、1串ぶんくらいのたべものにしか興味が持続しないことがわかった。私はたとえば回転寿司などでも声が出せないときがあって、隣のひとに「鯵がたべたい」などと耳打ちして頼んでもらったりするが、このときの心の動きと、屋台でたべものが買えないことと関係あるのかはよくわからない。(本当はわかっているが、説明しない)

生理が来ても来なくても、考える深度は変わらない。子ども、できたかな、とか、できなかったな、といつも思っている。不安になることはない。さびしいときは、ある。

今日は何人かの人に向けて何度かメッセージを書きかけてやめた。内容はそれぞれだが、一通も送らなかった。受信したものにはきちんと返答したので、受動的に人とつながっていれば、まあ良し、ということにした。途中で、今日はまったく人と喋っていないことに気がついたので、夜も遅くなってから珈琲屋さんに行き「ココア下さい」と言ったら、声が少しかすれていた。

2013年11月10日日曜日

星の兆し


占星術師に呼ばれたので、会いに行った。「あなたがどうしてるかなと急に思って」と彼女は言った。そのあと誕生日から星を三つ導き出して、淡々と私の性質について語った。これまで多くの人に言われてきたことがほとんどだったが、新しいこともいくつか言われて、性格というのが時間を幾重にも上塗りしてできていくのがわかった。最後に彼女は骰子を振って、未来を少し見てくれた。

昨夜は池袋に行って、フェスティバル・トーキョーのオープニングを楽しんだ。たくさんの人に会えるというのは、やっぱり幸せだと思う。その人たちが自分を覚えていてくれるのは贅沢なことだ。お天気ひとつでお祭り気分はだいぶ減じてしまうけれども、くもりの寒い日も、11月らしくて陰気で私は大好き。

夜になって、どうしても食事をしないと、と思ったのでおかずとごはんとお味噌汁とつけものと野菜が一緒に出てくるものを頼んだ。たべ始める段階になって、何から手をつけるか、そもそもたべるために何から作業すればいいかわからなくなってしまい、とりあえず箸を持つ、ということはわかったが、何をどういう順番で、どのくらいの分量を口に入れるのか、という概念がしばらくわからなくなって参った。占星術師には、今日のあなたは顔がしろすぎるわ、と言われたし、それは初めて電車の中で席を譲ってもらったこと(そして驚いて断ってしまった)と無関係ではないだろう。あまりに青白い顔でよろよろしていたので妊婦などに間違われたのかもしれない。順番がわからなくなりながら、口に押し込んだ揚げものの衣で上あごがむけてしまった。弱った粘膜を舌で触りながら、舌の裏に今もある口内炎のことを同時に考えていた。

2013年11月8日金曜日

青い鳥と白い服

母が「幸せは青い鳥」というポエティックな趣旨のメールをよこしてきた。趣旨はともかく、メールの結びが「伝えたいことは伝える主義だから。今日事故に遭って伝えられなくなるかもしれないしね!」となっていて、そういう刹那的なメンタリティが遺伝だということに愕然とした。そういえば私は子どものころ母から「ちゃんと”行ってきます”を言いなさい。帰ってくる前に死んだらどうするの」とよく言われていた。遺伝と言うよりは、教育の賜物かもしれない。

文房具屋さんが好きで好きで、文房具屋さんの店員になりたい、と今書きながら思った。もしくは紅茶屋さん。それはともかく、こんなときは文房具屋さんに行くしかない、と思って近所まで歩いていった。そこはすばらしい文房具屋さんで、お姉さんが個人で仕入れていると思われる品物たちを心行くまでながめ、馬の絵のスタンプと、紙細工のクリスマスカードを1枚買った。お姉さんは、私の着ていたドレステリアの白いパーカと同じものを持っているらしく「それ、あたたかいですよね」と言ってくれた。

そこから気の迷いで電車に乗り、大きな量販店に行ってみたけれど、文房具が大量にあるにも拘らずそれらがまったく魅力的でなかったので、行って損した。私の疲れのバロメータは「えびが虫に見えてたべられなくなるかどうか」という他人には分かりづらいもので、今はもちろんたべられない時期なのだが、クリスマスコーナーに飾られていた松ぼっくりが、これまた巨大な虫(たぶん三葉虫的な)に見えて、もうここには少しもいられない、と思った。回転寿司屋の前を通って、えびのレプリカを見て嘔吐しそうになったので、駅前でコーヒーを飲んでから最寄り駅まで帰った。

そもそも今日は、何かをたべることについて、感覚と実際の身体が切断されてしまったようだった。たべたらおいしかろう、ということはわかるが、自分がそれを口に入れるイメージまでたどり着かず、霞がかっている感じ。作業をしようと思って駅前のファミレスに寄ってメニューを見ながら、でも何もたべたくなくて、つけあわせのコーンの黄色いつぶつぶ、これはたべものなのだろうか?たべるのが恐ろしく面倒そうだけども?、ということばかり考えて、10分ほど過ごした。それだけ悩んだにも拘らず、食事が運ばれてきたとたんにお味噌汁をすべてぶちまけてしまい、隣の席の人にまで迷惑をかけた。女がひとりでお味噌汁をぶちまけて、ボタンで店員さんを呼んだにも拘らずあまりのことに戸惑って自分で状況を説明できない場面には、かなしいものがあった。私の太ももにかかった熱いお味噌汁が服に染みていき「大丈夫ですか」と聞かれたけれど「大丈夫です」と反射的に答えた。

さっきえびの話をしたけれど、ついでに言うと、そういう気分のときは、かぼちゃ、さつまいも、じゃがいもなど、ほくほくした野菜も全く咀嚼できなくてたべられない。もともと好きじゃないのだが、それが鮮烈に顕在化してしまうのは何かの発作みたいなもので、生理が来たら治るようなものであればいいと思うけど、どっちにしても生理は周期的に来るのだから絶望は止まない。夕方お姉さんが褒めてくれた白いパーカにもお味噌汁が飛んでしまったので、今は、帰ったらすぐ洗濯しないと、と考えている。なんて書いたそばから、今度はドリンクバーのカウンタで腰骨を強打して、お味噌汁でのやけどはまぬかれたとしても痣くらいはできているかもしれず、とにかく今日は距離感を身体ではかれない日だった、ということだ。

2013年11月7日木曜日

追悼ノスタルジア

初台まで行くにあたり、新宿西口を出て、高層ビル群の横を歩いて歩いて山手通りを越えて、清水橋から中野区のほうを回った。そこはかつて通いつめた道で、通うのをやめてからは一度も歩いたことがなくて、でも今日はここを歩く、と決めて家を出たのだ。坂の下にあった大きなマクドナルドが建て替わっていたり、スーパーが「まいばすけっと」に乗っ取られていたりしたけれど、クリーニング屋やスナックの看板、中華料理屋の入り口とかその並びの郵便局なんかは全然変わっていなかった。 前を通って、久しぶりなのに私はその光景にもう飽きた、と感じて、そのことに安心した。

細い道に折れて入る。ここは、遊園地再生事業団が9月に上演した『夏の終わりの妹』の舞台だった「汝滑町」とされるあたりだ。中野区と新宿区の間の、渋谷区。後ろから走り抜けてくる自転車にひやひやしながら、あのときこの道を歩いてた自分がいったい誰だったのか今は全然わからなくなっている。でも、その頃より今はずっと、なりたかった自分に近いところにいる気がしていて、このままもっと続けていって、いつかなりたかった自分になれるんだとしたらあと何年ぐらいかかるのかな、と考えながら、そのためなら何をしてもいい、と思った。

私は結局、本当にはひとりのことしか考えられないと思っているけれど、端から見たらそうじゃないのかもしれないし、そんなことには何の意味もないのは分かっている。でも、意味のためにやっているわけじゃないし、あなただってそれはそうだろう。私の自己中心的な部分が相手の気に障ったり、愛が薄いとなじられたことも、そこそこ長い人生の間にはあったように思うけど、そういうときは、お互いが望むようにお互いを愛せなかっただけなんだと思う。基本的に、自分が誰かを好きなことは少しはわかるけれど、人が自分を好きになることがあるのはあんまりわからない。自分だけが執着しないように気をつけていても、そう思ったときには逃れられないところまで来ているものだし、わざわざ気をつけなければいけないほど溺れるたちであるほうが豊かだとさえ思っている。くるしい、と嗚咽していても、この気持ちを知らずに死ななくてよかったと思うし、このまま居なくなりたい、と漠然と思いながら、でも生きてないとこれから先何にも無くなっちゃうからな、と考えている。

2013年11月6日水曜日

眠れる魔女

朝から電話が多くて、でも薬のせいで頭が朦朧としていて、何を言われたのかわからないまま応答して結局あとで掛け直したりした。掛け直したところで苛立っただけで、今日は実のあることは何一つできなかった。部屋の隅でマリアージュ・フレールの紅茶を飲みながら、何かを書くときに「数個の星から双子座を見出してしまう精神性」がにじみ出ていると人から言われたのを、一生懸命思い出したりしていた。

着るものについて、自分で決めたルールがたくさんある。「ピンクと緑は合わせて着ない」「オレンジのトップスは着ない」「黄色は似合わないから着ない」「ウェッジソールの靴は履かない」「オープントウのパンプスもできれば避ける」「レギンスとスカートを重ねない」(というかレギンスは絶対買わない) というように、気づけば禁止事項ばかりなのが性格を表しているし、バリエーションの少なさを露呈している。だいたい服はほとんど無地だし、ストッキングも黒いし、灰色もむらさきも紺も好きで、これでは魔女と呼ばれても仕方ない。

2013年11月5日火曜日

あなたについて思うこと

基本的に従順だが、それは私が相手を敬っているというしるしである。そうでない場合は、無気力、と呼ぶ状態で、その見極めは傍目にはむずかしいかもしれないが、相対している人にはきっとわかる。ちゃんと敬う気持ちを持っている人にしか許さないことが、私にはとても多い。

最近、魔女みたいな黒いストールをよく着ている。先日某氏に「『マクベス』っぽい」と言われて、それはつまり予言する魔女っぽいという意味で、私はマクベス夫人みたいな物語の中心にいるヒロインになることはない。この間の読書会で『桜の園』を読みながら、MN嬢はアーニャっぽいね、という話になったけれど、私はもちろん思いの叶わないワーリャだろうし、『かもめ』だったら絶対にマーシャなのだ。

かけがえのなさ

見知らぬ番号に掛け直すと母の従姉だった。私の大叔父の、娘である。
「わざわざお知らせすることでもないかな、とは思ったんですけど」
切り出された瞬間、最悪の事態を想像して頭の血管につめたい血が走った。
「父が、入院しまして」
「はい」
「すぐにどうとか、戻れないってわけではないんですけど、もしね、いない間にお電話頂いたらあれだなあと思って。病院、携帯使えないから。まあ、帰れない入院ってわけじゃなくてね。ホームより居心地がましなんじゃないかって思ったみたいで、自分から行きたいって言い出して」
「…はい」
「すみませんねえ、知らない番号からだから絶対お出にならないとは思ったんですけど」
「いえ、そんなことは、あの。どこの病院なんですか」
言いたくなさそうだったが、絶対聞き出そうという心が働いた。母の従姉は見事に、私のことを何とも思っていない人の声で、何もかもちりとりにまとめて掃きこむような、しゃべり方をした。
「でも今日入院して『病院も思ったほどでもないな』って言ってたから、すぐ戻るかもしれませんから。だから、また会うのはホームに戻ってからにして下さいな」
「…はい。あの、私いつもご挨拶もしないままですみません。なかなか面会の時間が、その、皆さんとずれてしまって」
「いいえ、私の方がね、いい加減なものですから」
ひとつひとつ水門を閉ざされていくようで、気が遠くなった。

電話をきってしばらく茫然としていたが、盛大に部屋の片付けをしてから、横浜橋の酉の市に行った。ひとりでピカチュウの人形焼きと、水餃子を買ってたべた。日ノ出町に戻って何人かで食事をして、そのあと黄金町に行った。久しぶりにたべたスパゲティナポリタンがおいしかった。生まれかわったら歌手になる、と言ったら、今からでも歌いなよ、ウクレレでよければ伴奏練習するよ、と言われた。本当はウクレレよりもアコースティックギターがよかったけれど、まあそれもいいなと思った。

「どうして嫌なの」と聞かれたけれど首をふり続け、頑として答えなかった。失うものにいちいち言及して、悲しくなりたくなかった。光が明るいほどに黒く照らされるものが私にはあって、そういう人生であることについてはだいぶ前からあきらめている、ということだけその人に伝えようと思ったが、しゃべれなかったのでだめだった。とにかく私は今、最悪に暗くて、それ以上ここに書くことは何もない。書けもしないものを私がしゃべるはずがないし、それは強固な意志の問題だ。

結局終電を逃し、タクシーを拾って、何だか回り道をしてしまってから家に帰った。重ねた毛布も、やっと季節が追いついてきたようで暖かいと感じた。雨の音で二度ほど目を覚まして、でもカーテンの外を見ることはしないで、明けた日がまた暮れるまでねむってしまった。電車の中とか喫茶店の椅子ではなく、ベッドの中で眠気がふくらむのがこんなにうれしいというのは、久しく忘れていた。昨夜から気持ちが後ろ向きすぎて、前髪でずっと顔を隠していたら、起きてからセーターを後ろ前に着てしまって滑稽だった。

2013年11月3日日曜日

交差点

何かの試練のような胃痛でずっと横になっていた。14時かと思っていた鳥公園のマチネが15時からだというのを知って、この勢いで起きよう、と思ったので、三鷹まで行った。初日と楽日に観る、ということをこのごろたまにやる。というか、9月の鳥公園もそうだった。劇場でTK女史とFC氏に会って同じ電車で帰った。中央線でいろんな話をしたが、私はそのとき対面の席で居眠りしていた男が、大学のドイツ語クラスで一緒だったカスガ君じゃないかな、と思って気になっていた。アメフト部だったカスガ君のことなんてもう7年くらい思い出したことなかったし、だいぶ若く見えるから本当に彼かは全然わからないけど、休日に練習に行く社会人スポーツマンぽい格好してるし、まあカスガ君じゃないとしても7年ぶりに彼のことを思い出したという事実は私の中に残るし、彼がこの世のどこかで元気にしているといいな、と思った。そして、鳥公園のラストシーンの会話について、考えた。 

五反田で用事をすませようかと思って現地まで行ったけど、18時からの公演が気になってしまって池袋に戻った。本当に勝手だ。でも、誰に対して勝手なのか、責任所在があいまいな事柄は勝手にするのがよい。私は広い国道とか三叉路とかが大好きで、なかでも池袋東口の五叉路はすばらしい。赤信号を待つのもいいし、青になって人々がいっせいに渡り始める瞬間もいい。それと同じくらい好きなものは、あとは、おなかすかした男の人、というのがある。

2013年11月2日土曜日

作り花

僕らは手書きの文字がもう読めなくなってしまったのですよ、と昨夜彼は言った。飲めない彼は、それでもノンアルコールを何杯か干していた。自分の考えてることを分かってもらえると思ってない人って字がきたない傾向にありますよ、数学が一番できる人の答案って読めなかったでしょ、と私は言った。そのあとは、コピー機のない時代は台本をガリ版で刷っていただろうけれど、それすらない時代は写本していったのですかね、おそらく車座で、などという想像をしあった。

寝つけなくて、身体の半分かそれ以上はずっと起きたまま、少し陽が高くなったようだった。二度、明確に目を覚まして行動したのは覚えている。しょうがないので本気で眠ろう、と思って目を閉じたら本気を出しすぎて、次に目を開けたときには、しばらく何もわからなくなっていた。あれ、私今死んでたんじゃないかな?と思って身体を起こした。危なかった。電気をつけないままの夕方の室内ほど、寂しい場所はない。

ステージで女の人のエロティックな振舞いを見る、というのは男性にとってどういう体験なんだろうと、六本木の新世界で思った。でもまあ、「見る」ことが何かを喚起する特別なものだということは、あれだけ強い視線を向けられたら想像がつく。歌を聴くとか、ステージの女を見るとかいう体験は、比較的他人と共有しやすい。でも、たとえば酒をのどに流し込むときの感触とか、それが口もとからこぼれてしまった、というようなもっと閉じた瞬間があって、それは(私にとって)見られることで知らないうちに身についてしまった媚びの毒を抜くようなことなのかもしれない。