2013年12月30日月曜日

すみれ色の空

「いい景色見られてよかった」と頭の上の方で人が言った。私はそのときぼうっと夕焼けを見ていて「え、何?『いつ死ぬか分からない』?」と聞き返したら、その人は私の聞き違いにあきれ、そのような耳になった私の人生を憐れんだ。空は群青とすみれ色と薄桃のうつくしい三層で、日が沈みきらずとも、今夜は星がきれいだというのがわかった。

麻辣羊鍋、というものを食べた。今年の悪い汗がながれた、と思ったが、これくらいでながせるほどの量ではないな、と思い直して、ハンカチで額を押さえた。紹興酒と一緒に供された干し梅が、今までたべたどの干し梅よりおいしく思われて感動した。途中、自分でもよくわからないスイッチが入って、隣の人が「僕にも聞こえるようにしゃべって」と言うのを無視しながら、目の前の人に向かって一生懸命、来年の抱負を語ってしまった。まあでも、語っていたのは来年の抱負だけではないのだ。

同級生と話していて、私が昔のことをよく覚えているので驚嘆していた。私はおしゃべりしあう友達が少ないかわり、みんなのことをよく見ているので、それで記憶が強く組まれる。好きな男と好きでない女にまつわることは、忘れない。

2013年12月29日日曜日

歳末小景

ある日の午後、寿司屋に行った。同伴者がふと「あ、Nじゃないか」と呼びかけるのでその方向を見ると、初老の男性が昼間からひとりで入って来るところだった。Nと呼ばれた紳士は、一瞬驚いた顔を見せたが「私、今日はお忍びなので」とちょっと笑って静かに目を伏せた。店主は、N氏を見て「こんにちは、田中さん」と呼ぶ。N氏は「田中です」と重ねてこちらに向かって言い、鯵の刺身をつまみに飲み始めた。その後、N氏が席を外したすきに店主が「あの方、昔から来て下さってますけど僕ほんとにどんな方か存じ上げないんですよ」「この辺でも銀座でも、あの方は田中さんで通ってます」と言う。N氏は、とある病院の教授であるのだが、田中と名乗ってあちこち飲み歩いているらしい。「そういうお客さん、たまにいらっしゃいますよ」と、店主は笑った。

来る早春に向けて、とある打合せをしたあと、某氏と高田馬場を歩きながら、一年前の冬のことを振り返ったりしていた。あの頃は私も某氏もだいぶ、心構えも立場も今とは違っていて、一年後に共にこんな企てを図ることになろうとは、想像もしていなかった。「ほんとにねえ」などとお互い言い合いながら、2013年に到来した様々な機会を思い返した。まだ何も始めていないし、やれそうなことを何となく掴んでいくしかない。でもやってみなければならない、他でもない自分たちが、と思うくらいには大きな変化のあった一年だった。

その日はすでに遅刻していたけれど、ライブハウスに行く前に百貨店に寄った。靴売り場の前を通ったときに、急に靴がほしいと思って、グレーのショートブーツを試着し、すぐに買った。それまで履いていた靴は、その百貨店で捨てた。どうしてそんな気を起こしたのかわからなかったが、ともかくその日は、新しい靴で、新しい場所に行きたかったのだ。

2013年12月26日木曜日

有限の人生

朝から工事のドリル音がひどく、とてもこの家には居られないと思ったが、ずるずるとしばらく居てしまった。窓をあけてもどこで何をやっているのか分からないが、階下からとにかく爆音だけが聞こえる。気がふれたかと思って幻聴の可能性も考えたけれど、身体に音が響くので、まぼろしではなさそうだった。苺を一粒食べてまた泣いた。分かってもらえないことには慣れていたって、分かってもらえない状態に慣れるわけではないのだ。あんなこと言わないでほしかったと後で泣いたって、一生そのことは言えないで終わるに違いない。

女がいやいやながらも何かに付き合ってくれるのは、ちゃんとその相手をいとしく(あるいは可愛く)思っているからだが、男が、嫌そうな態度を見せるときは本当に嫌だという意味なので、何と言うか、報われない。

赤ちゃんのころの弟を抱いて、街を歩く夢を見た。昔、「子どもを育てるには条件がある」と言われたことがある。その人によれば「どこまでも責任を取るということ」と「すべてを受け入れてやるということ」の二つだそうだ。彼は、自分はすべてを受け入れられるが、責任は取れないと言った。だから子どもは今はいらない、恋人が妊娠しても、と。 私はどう考えるかといえば、責任を取ることはできる(少なくともしようとする)だろうが、子どものすべてを受け入れることはできない、かもしれない。

総武線に久しぶりに乗ったので、一度も降りたことのなかった駅でコーヒーだけ飲んで、切符売り場で少しだけ人を眺めてから帰った。どうしてもだめかもしれないと、やはり思った。味方がこの世に一人もいない、わけはない。考えればわかる。でも、私が今のように生きることを許してくれる人がいる気がしない。一生このままだとあきらめるには、想定している人生の残りが長すぎて、つくづく悲しい。

2013年12月25日水曜日

眠りの森

「起きる」と決めてから、二時間もベッドの中で目を開けたまま、落ち込みっぱなしだった。坂の下のマンションの、奥まったこの部屋から一生出られないような気がして、最近はいつも朝がつらい。まだ午前中だ、がんばれ、というもう一人の自分の声も虚しく、つい追い込まれたような気持ちになってしまう。沈む原因を少しでも解消しようと、観劇ブログのほうにこんなエントリを書いた。いちいち傷ついていられない。ロマンティシズムを貫くためには、タフでなければならない。

クリスマスは、子どものころからミサにあずかってきたので、恋人がどうとか、そういう概念がほぼない。クリスマスだからデートしよう、とか言われたら逆に鼻白む。もう、あんまり波風立てないで生きていたい。

それにしても歯切れが悪すぎるので、今日はこれくらいにして書くべきものを書き始めなければと思う。

2013年12月23日月曜日

寒椿

人と話すべき思い出があまりない。久しぶりに再会して、高校時代とか大学時代にあったことを延々と思い出しあいながら笑うことが、私はあまり得意でない。思っているだけで言わないが、ここで書いてしまえば何でも一緒だ。覚えていないわけではない。むしろ克明に思い出して、描写もできるくらいである。世の人が思い出を反芻する時間の豊かさを感受できない、貧しい人間なのかもしれない。私は自分のことをずいぶん未練がましい人間だと思ってきたので、そう思っている自分に気づいたときは驚いた。でも私は、あの頃の私がどうたら、ということよりも、何もかも今しかない、ということのほうをずっと強く念じているのだ。あの頃の話より、今の話、未来の話をしてくれる人が好きで、何かを共に懐かしんでくれる人は(そんなには)いらない。

一番いいときで自分の時間が止まってしまうことへの恐れが強いのだと思う。若いころの自分が似合っていた服のまま年を取ってしまうこと。それはつまり、自分を測ることができていないという意味だ。「対象と自分の距離を測り、それとの誤差をできるだけ少なく出来る」のが「うまい」ことだと思っている。絵がうまい人は見たものとデッサンする手の動きの誤差が少ないし、音楽家はイメージした音に近くなるように楽譜を再現する。

まあ確かに、誰かと寝てみる、というのはいろんな面で大切だと私も思うので、一刻も早くやってみたらいいのだが、単純に多くの人と触れ合ってもまったく意味が無くて、それよりも、ひとりの相手とは何度も関係を深めたほうがいい、などという我ながら当たり前の結論しか言えなくなってくる程度には、魔女らしくなってしまった。それこそ数年以上の付き合いになる相手もいるだろうし、恋人でなくても複数回の逢瀬を重ねる間柄になる人にも出会うだろうし、そういう相手は一人じゃないこともあるだろうし、と言ったら、どこが引っかかったのか知らないが、えっ、という顔をされたので無視した。相手を通して今まで知らなかった自分を見る、ということはよくあるが、見えたその自分を信頼するためにはやはり時間をかける必要があると思うし、そういうときは、自分にとってだけでなく相手にとっても大切な何かがかなりの確率で起きている。そういう相手に出会った経験を持つ人を、私は信用する。(「そういう経験を持たない人を、私は信用しない。」 という書き方とどっちがいいかな、と迷った)

量販店で、二秒で選んでキッチンマットを買った。二秒というのはあんまりかな、と思って、他の棚も見て吟味してみたけれど、結局最初に選んだものが私には圧倒的にいい、ということになった。そのあと、文具コーナーで冬の花や雪の柄の便箋を見た。でも、こういうときに私がまっさきに手紙を書きたいと思う人は、この秋にもう亡くなっていた。そのことを考えて、忘れていたわけじゃないけどやっぱり居たたまれないほど寂しくて、綺麗だと思った便箋と封筒をぜんぶ、片っ端から買った。

2013年12月20日金曜日

炬燵に微熱

MN嬢とTA嬢と、白金のビオトープで、東京という場所で育つことについて話し合った。かつて通った学び舎が近くにあり、三人でここでたびたび読書会をしていることもあるので、とても気持ちが明るくなった。これまで、場合に応じていくつものルーツを自分の中で使い分けてきたように思うのだが、最近はこう見えて、自分の軸が統合されてきた意識があり、特に生きづらさを感じなくなっている。開き直りには注意して、でも、しなやかに生きたい。MN嬢の密かな励ましを受けたので、これからも修行にいそしむ。

炬燵に縁がない人生を送ってきた。大学時代は、同級生の家に集まって炬燵で飲んだりゲームしたりする生活からは程遠いものだったし、通った男の部屋も簡素なテーブルしかない部屋ばかりで、足下は寒かった。昔、男が家にいない間にファンヒーターをつけて部屋を暖めて待っていたら、男が帰宅後に「外気温との気温差が気持ち悪い」と意味もなく怒鳴ったということがあった。今でこそ、そんな理不尽さに屈するなんてばかな女だったな、私は!と思うことができるが、それ以来、どんな人が相手でも必ず冷暖房は相手の許可を得てから(相手が不在ならメールしてでも)つける習慣が身に付いてしまった。習慣というものがいかにくだらないか、他人の家のエアコンスイッチを入れるときはいつも感じる。まあ、それと炬燵の話は関係なくて、微熱、という言葉との語呂がいいので書いてみただけだった。

紅茶を淹れて、象のかたちをしたクッキーを食べている。先週、港町のカフェで買ったのである。Nさんに紹介してもらった中学生の女の子と一緒に食べようと思って買ったのだが、彼女は私があげた象のクッキーを、可愛い、と言って喜んでくれたあとに丁寧にティッシュにつつみ「妹におみやげにします」と言って、かばんにしまったのだった。持って帰るまでに割れなかったかな、と今でも心配に思っているが、彼女くらい優しいお姉ちゃんであれば、この象のクッキーがいかに可愛いかたちをしていたかきっと妹に話して聞かせただろうし、割れたクッキーをふたりでわけて食べてくれただろう。あの日の港町のカフェはたいそう楽しい雰囲気であったし、彼女といろんなおしゃべりもしたけれど、今度彼女に再会することがあれば私が一番に思い出すのは、彼女がクッキーをかばんに入れたときの、あのしとやかな仕草だ。

昨夜、熱燗を飲みながら思いついたことなのだが、最近放置している観劇ブログのほうで、年内に「演劇とわたし」という、読んでも誰も得しない物語を書くことにした。主に19歳以降の、演劇とわたしの愛憎の歴史を書いてみる。学生演劇に苦悶していた時代から、いわゆる「小劇場演劇」の孤独な観客時代を経て、F/Tやら何やらの前衛的な演目に触れ、一人の女として成長していく様子を描こうと思う。そんなことやる前に書くべきものがありすぎるが、誰しも、書くべきものから書き始められるとは限らないものだ。

2013年12月18日水曜日

そういう女

夜中に、グレーパープルのネイルカラーを塗る。こういうシンプルなもので私にはもう十分だ。飾りたてても、もはや白々しい。しかし肌がもう少し赤みを帯びていたらよかった、とは思う。とにかく夜中に鏡で見る自分の顔が、ばけもののようでさっきも驚いてしまった。愛らしい色白などからは程遠く、そんなこと言ったら「愛らしい」という言葉がふさわしい年齢からも既に遠いのだが、生きている人間のように見えない、と言っても差し支えないほどの顔色にときどきなってしまう。

元気がないのはちゃんと書いていないときで、さぼったことに起因していようが、才能がないから書けないだけであろうが、とにかく、表に出さないと自分がくずになった心持ちがして、寝ても覚めても泣いても飲んでも、元気が出なくてだめなのだ。チェルフィッチュの『地面と床』で、山縣太一演じる由紀夫が「自分がクズなのを、クズ本人が何よりわかるんだよ。他人にはわからないよ。自分がクズかどうかは、他人が決めることじゃないんだよ。」と言っていて、すごくいいなと思ったけれど、ただ、私の現状を表すためにこの台詞を引用するのはあまりにも不適切な気がする。この台詞以外にも重要な構造や台詞がたくさんあることはもちろんわかってはいるのだが、全体を見ても一部を読んでもすばらしいのが、すばらしい作品(戯曲)である、という言葉をもって、私の弛緩した日常を食い破る力にしたい。

愛じゃなくて業が深い、というのは逃れられない宿命だが、それでいて情が深いのが更に致命的なところである。「どんな人よりも、大事なものがあるというだけなの」と私が言うと、S氏は鍋の白菜をつつきながら、信じられないといった面持ちで私を見た。「え、笑わないでよ」と私は反論しながらも、まあ、そう言われることにも慣れているな、とあきらめてハイボールをあけた。取り繕ったところで仕方ないので、あと二年くらいはこのスタンスで生きてみようと思っている。とはいえ、無闇にのたうち回るのは自分の精神状態を考えるとよくない。そういう私を見て、彼は「他人を気づかって関係を維持することと、より近しい人への義務を混同しなくていいんだよ。自分で自分を縛るべきではないよ」と言ってくれた。先にも書いたように、私はいささか情が深すぎるように思われがちだが、明確な但書きもたくさん持っている。その但書きに関係あるようなないようなことをつらつら喋りながら、受信したメールと腕時計を見比べていると「自分が引き止めたくせに他の男のところに行くんだね」とS氏がふざけるので私は「そうよ、私はそういう女なの」と応答した。S氏がやれやれと言った表情で手を振ってくれたので、私は先に店を出た。

2013年12月17日火曜日

冬には名前を

子どものころから、自分の姓が好きでないのだが、人が自分の名前を覚えていてくれるだけでとてもうれしくなる気持ちのほうが大きいので助かっている。もともとは、名前も好きでなかった。中学一年生の時、憧れだった副部長のお姉さま(高校三年生)から文化祭前夜に頂いたお手紙に「初めて見たときに、なんて綺麗な字かしら!と思ったの。」とあったのを読んでから、好きになったのである。しかし中高時代には「名前+ちゃん」で呼ばれることはあれど、呼び捨てにされることはなかった。女の子同士、親しげに呼び合うさまを眺めてじりじりしていたのはこの頃だ。初めて呼び捨てにされたのは、大学生の時、サークルの先輩にだった。そのとき、長年のくびきから解かれるような思いがしたことまで覚えているが、こんなことをいちいち覚えていて、今ここですらすら書ける自分もいやだ。いい名前だよ、と人に言われないと自分を承認できないような心根も自意識過剰でいやすぎる。

チェルフィッチュの『地面と床』を観て、恐れ多くも、こんなに自分の人生に寄り添ってもらえる、と思えるカンパニーがあるなんて本当に幸福だ、と思った。寄り添うというよりは、仰ぎ見る、ということに近いし、彼らの作品はけっして優しい言葉をかけてくれることはないけれど、そのことがいつも私を安心させる。『フリータイム』『わたしたちは無傷な別人であるのか?』など、観るたびに、そのときの自分の人生の状態にリンクしているように思ってきたが、それは決して作品を矮小化して解釈しているのではない。チェルフィッチュに関してだけは、劇評もおすすめも書いたことがない。書けると思ったことがない、というのが正確だけれど、今秋の『現在地』『地面と床』に関して、方法とか演劇論とか音楽論とか、いわゆる"小難しい"批評の視点ではなくても、自分の言葉で書くべきなんじゃないかと思っているのは私にとって大きな変化だ。チェルフィッチュの作品が、自分に「寄り添ってくれている」と感じるのは、私だけではないのかもしれない。でも、若手のころ死ぬほど残業して働きまくっていた自分とか、子どもが持てるのか迷っている自分とか、もし子どもを持ったら盲目的に守り抜くであろう自分の姿を考えながら見えることは、作品の外枠を形成する問題意識を理解するうえで大切なことなのだ。不思議である。理解できないと思う相手なのに、その存在を意識するときはいつも、とても近くにいる気がする。

弟が医者になることになったとき「合格してよかった」という思いの次くらいに「これでいつ戦争が始まっても、軍医になれるから、この子が前線で死ぬ可能性は減った」と思って安堵した。冗談ではない。弟が小さなときから私はいつも、この子が戦争で死ぬことがないように、と祈ってきたし、たとえば選挙権を得てからは、愛する男の人たちが戦争で苦しむことにならないことを、かならず考慮に入れてその権利を行使してきたのだ。

2013年12月15日日曜日

治癒のための血流

手の甲の傷が治らないの、もう一週間も経つのに、と言ったら弟は「そんなの仕方ないよ、血流が少ない場所なんだから」と、理論的な解をくれた。 傷も治らないし、電車や店内でがっくり眠くなるのもやめたい。家のベッドは冷たくていつまでも眠れないし、一晩かけて自分の体温がゆきわたった後では、忌まわしくて長く眠るのが憚られる。
 
したくてたまらなくなること、というのが私にはあまりない。編み物は、数少ないそれになりうる趣味だ。ここ二日は編み物のことを一番多く考えていた。あと、したくてたまらなくなることは、劇場に行きたい、とか、このまま一緒に眠りたい、とか、今すぐ焼きたてのパンを食べたい、くらいしかない。他のことは、面倒というより、人生の時間をそこに費やすのがもったいないと思ってしまうので、どうも身が入らない。毎日毎日、何か書きつけているのは、したくてたまらないからしているのではなくて、気がつくとしている部類のことで、そういうものはそういうもので、別にいくつかある。

2013年12月14日土曜日

地水火風

「私たち水のエレメンツだから」とNさんが言った。だから仲がいいの、すぐなじむの、と笑うNさんに、男たちは「何、水のエレメンツって」ときょとんとしていたが、生まれた星座のことを言っているのだと、私にはすぐ分かった。蟹座、蠍座、魚座は、12星座を4つのグループに分けたうちの"水の宮"に属するのである。「ちなみに双子座は風で、私は乙女座だから地のエレメンツです」と教えると彼らは「何ですぐ分かるの?」と訝しんだので、Nさんと二人で「女の子なら誰でも知ってますよ」と言った。もちろん人にもよるが、黄道12宮について、小耳にはさんだことくらいは、どんな女の子にでもあるのではないかと思う。

そういえば私は、集中すると意外とお酒が飲める、ということを思い出した。そんなわけで二軒目の立ち飲み屋で、理想の死に方、あるいは生き残り方について話した。F氏は『麻雀放浪記』の出目徳と言い、私は『永遠の都』の初江をあげた。ポルコ・ロッソもマダム・ジーナも捨てきれない、という話をしていたあたりでS氏が唐突に放った、『千と千尋の神隠し』に登場する大根の神様になりたい、という言葉は至言であった。

とにかくその日は朝から憂鬱で、滅びの風を召還すべくベッドの中でぶつぶつ呪文を唱えたりしていたのだが、そうもしていられない、と思って上半身を起こすころには、もう普通の人の活動開始時間から半日以上もずれてしまっていた。そのことにさらに憂鬱になり、もう今日は誰とも会える状態ではない、という思いと、いや、会いに行くべき人はきっとこの世界にいる、という壮大な葛藤に飲まれて、とにかく髪のブローは念入りにおこなっていたところ、港町のカフェに行くべき、という天啓がくだった。そうか、やはり港町か、と頭を抱えながら、天啓なら仕方ないと観念して、深緑のコートを着て駅へ向かったのだった。港町では、数人の目利きの女の子が「いい色ですね!」と言ってコートを褒めてくれたので、私はとても勇気づけられた。

S氏が、自転車の二人乗りをしている大人を見て「二人乗りって何かいいね」と言ったのを聞いて、確かにとてもいい、と思った。高校生や大学生よりも、いい年した大人が二人乗りしてるほうが、抜き差しならない感じがある。高校生が全員さわやかだとは思わないが、彼らには、込み入った感じはほとんどなくて基本的にはまっすぐだ。まっすぐであることと、さわやかであることを混同してはいけない。まあ、それは酔っぱらいの余談で、酔ってふらつきながら蛇行するほうが、この街を往来するのは楽しいし、大人になっても悲しいものは悲しい、という気持ちも素直に身にしみる。「自転車買えば」とその夜S氏に言われたけれど、私は自分でペダルをこいで進むより、サドルの後ろにすわって、目を閉じたり開けたりしていたい。そんなことを思っていたらS氏がライトで私に目つぶしを仕掛けてきたので、もう未来が見えなくなってしまった。

2013年12月11日水曜日

白いカクテル

新しい髪型かわいいと思うよ、というのは、ここ数日言われた言葉で2番目に私を勇気づけるものであった。長い方がよかった、と言われた翌日に、俺は短い方が好きだな、とか言われるのが人生というものなので、結局みんな自分の好みでしゃべっていると分かってからは好きなように生きようと思っている。好みで済ませてならない部分だけ、守り抜くために力を尽くす。

六本木のライブハウスで、リーディングの公演を観た。あんまり切実さを感じて、笑いが起きるところで私は何度か泣いてしまって、でもちょっと怖くもあって、官能的っていくらかの恐ろしさを含むものだから、これはまさに官能なんだろうと思った。想像であり、恍惚でもある。不穏なギターと、俳優の台詞の音の応酬は、絶頂に向かって同じリズムを強くきざんでいて、それは私のくちびると手の動きによく似ていた。終演して、私は白濁したカクテルを口に含み、舌の裏に溜めてそっと飲み込んだ。

夕方、深緑のコートを買ってしまった。百貨店の隅から「私を買って」と呼ぶ声がしたので、振り向いたらもういけなかった。ひとめ見て「着てみたいのですが」と言ってしまい、袖を通したら後はもうプラスチックのカードを店員に引き渡すしかない状態だった。本当はマフラーが欲しくて百貨店を歩いていたはずなのに、ずいぶん高いマフラーだな、と思った。しかし、そういえば服や靴を買ったあとは、ものが書ける、ということがあったかもしれない。その場合は、新しい服を着る、もしくは眺めながらでないと効果が出なかったように思うので、今、家の中でコートを着ようか迷っている。

2013年12月9日月曜日

みずぐすり

薬を飲んだのがいけなかった。数度の覚醒があって、でも朝の記憶ははっきりせず、結局ベッドの中でまどろみ続けて、日が南を回るころをとうに過ぎてしまった。どうしようもなさで、このままここで目が覚めなくなってもいい、とさえ思った。この自己嫌悪がなければ、薬で眠るのは気持ちいい。

2013年12月8日日曜日

全て忘れない

仕事どうするの、と聞かれたので、具体的に予定を答えたあとに、今はチョコレート屋さんになりたい、と言ったら思いがけず、いいんじゃない、という答えをもらった。でも、自社チョコレートの理解のために、年に数回は工房で製菓を手伝わなくてはならないらしいので、そういう、職人との対話はちょっと怖い。今は怖いことがとても多くて、怖くないことと言えば演劇を観に行くことしかない。

そういうわけで、港町のカフェにまた行った。広がる風景と、生み出される音やシーンの全てにどうしようもなく幸福を感じて、このままの自分じゃいられない、という気持ちになり、その場で電話をかけて美容室を予約した。「しあわせ」なんていう単語を発話することは普段なかなかないけれども、今日はそう言っても差し支えないほどの日だったし、でも、それだっていつか忘れてしまうということが寂しくて泣けはしたけれど、怖くはなくなった。折り紙を折ったり、スコーンをたべたり、明るい日差しのもとで、私はしあわせだった。

髪を10センチ以上切ったあと、別の劇場に行った。舞台には髪の長い女優が出ていて、その肩にかかるうねりを見て一瞬後悔したけれど、どうせ切らなくても私という人間は後悔したに違いないわ、と思い直した。

今のはね、スリーポイントシュートが入ったような感じ、という表現を聞いて、それは結構適切な単語だな、と思った。大人になると、何でも集中とタイミングによる部分が大きくなるのだ。

2013年12月6日金曜日

姫君

MM先輩と会うために出かけた。西荻窪の、南口の、「パン屋」というよりフランス語で「ブーランジェリー」と呼びたいような、そういう店構えの奥のテーブルに二人で座って、ランチをふたつ頼んだ。かごに盛られてきたパンはどれもおいしくて、私は特にバゲットが、先輩はフォカッチャが、気に入った。最近観た演劇の話と、仕事の話と、消失してしまった食欲が戻った切っかけの話などをしながら、年齢が上の女友達を持つべきよ、と先輩は言った。あなたの持つ悩みや身体の変化を必ず先に通っているから、と。そういう女性に、話を聞いてもらうのも聞かせてもらうのも、私にとっては両方大切なことであるだろうと思った。

頭で分かってたって年を重ねないと本当には分からなかったことだらけですよね、と言ったら、まだまだそれは続くわよ、聞きたい?とおちゃめな感じで言われて、でもそれはとても幸せなことだと思った。35歳とか40歳とか、これから私が生きて行く上で、いつまでも若いままの頭でいるわけにはいかない。私は、思えば二年前から一年前くらいまでは、普通に母親になりたいと思っていたけれど、今は全然そうなれる気がしない。精神面の不調もあるのかもね、と先輩は言った。私の人生においてその時期がどうだったか、今ここで語りはしないが、寝ても覚めても子どもがほしい、と思って涙を流すようなことが、女の人生にはあるのだ。だいたいはホルモンのしわざではないかと思う。

その後、先輩と近所をお散歩した。今度ここも行ってみたいね、というお店をいくつか見てまわって、中でも特別素敵な外観の和食屋さんを見たときには心臓がどきどきした。そのあと、有機スパイスのお店でチャイのもととジンジャーエールのもとを買った。身体、あったまるよ、と先輩が言ったので、寒い夜が楽しみになった。そういえば先輩は、かつて仙骨の動かし方も私に教えてくれたので、今でも身体をほぐすときにはよくその体操をする。

翌日も演劇を観て、好きな人にだけ会い、好きなものだけたべた。ただの目立ちたがりは変わっていると他人に言われると喜ぶが、本当の変人は、変わっていると言われると怒ると言う。それと同じ理屈で、本当にぶっ壊れた人はそれを指摘されても、何がおかしいのかわからずきょとんとしているそうだが、どうなのだろう。

2013年12月4日水曜日

チョコレートから洋梨

いらっしゃいませ、という気持ちをこめて、狂っている自覚がなくなってからが本番ですよ、と言った。いらっしゃいませ、と今書いたが、彼の方だってとっくに狂ってると私は思っていて、気が狂いそうだ、などと今も言っているのが何よりの証拠だと思ったが、その場では言わなかった。言わずに後でこうして日記に書くのである。

某氏に劇場の外で会ったとき、顔色大丈夫ですか、客席に入って来たときからやばそうでしたよ、と言われた。私はたまに、明らかにまずいと分かるほど顔が白いときがあるので、たぶんそういう日だったのだと思う。頭のほうに血が流れていなかったのだろう。だから女の子に対してばかみたいに意地悪な気持ちになるし、ささくれ立った人の気持ちを、分かりながらも邪魔したりしてしまうのだ。

引っ越すので、よく通っていた食堂のおねえさんにチョコレートを渡した。同じ東京だし、大好きな街なのでまた来るとは思いますが、と言うと、おねえさんは「あ、ちょっと待って」と言いながら、鯖を焼く火をちょっと弱め、炊飯器の下の紙袋から、洋梨とすだちを出して「これ、どうぞ」と言ってくれた。人にものをもらう(あげる)のが、こんなにもうれしいということを、すっかり忘れていた。

明るい朝が一番苦しい。夜は身体が痛い。つくづくろくでなしに生まれてしまって、何がろくでなしかと言うと、このろくでなしが治るのではないかと思いながら今日まで生きてしまったことである。でも、到底、これは治らない、ということがもうわかってしまった。いっそ海の藻屑か泡になりたい、と思って、でもきっとあの場所ならこんな気持ちも晴れてゆくんじゃないかという未練に似た希望を持って、港町のカフェまで行った。「人魚はいつのまにか海よりも、愚かな人間達のつくりだすはかないもののほうが愛しくなってしまったのかも。」 というメッセージをある人にもらって、でも、そうよね、声を失ったって陸には紙とペンがあるのだわ、と思った。港町には、象がいて、人もいて、歌があって、言葉と絵と音があった。世界が一気に美しく見えて、見ること感じることに執着を覚え始めるこの体験こそが恋だ。恋を続けなければ、私は生きられない。生きられない。

2013年12月1日日曜日

もしも明日が

MN嬢は「人間なんて変わるわけないじゃない、安心しなよ」と笑って、じゃあ会うのを楽しみにしてるね、と言って電話を切った。確かにそうだ。何度考えても、自分の中のゆがみが今後の人生で矯正される気がしない。ある時期が来たら、その道筋にしたがって、そうするしかない、という覚悟を決めることになるのではないかと思う。今固めているのは、そのための事前の覚悟のような、気がしている。

実家の庭の向こうに見える桐の実は赤い。私の顔色は青白くて、死んだ魚の腹のようだ。

飲み屋で、おでんは売り切れていた。思ってもいないことを言われたり、本当に思っていることを言ったりしながら私はかじりかけのカキフライを見て、カキは一口でたべるべき、という持論について考えていた。そのあと、自己認識より身体が強いと言われるのだ、という人に対して、私は自己認識よりメンタルがきっと頑健なのだわ、と思った。

夜中、人が小声で歌っているのに耳をすます。晴れでも雨でも、私の考えていることはひとつだ。もうだめかもと思ったって、本当に終わるときまで終わりじゃないし、いくら生きたところであなたの人生を狂わす人間の希少価値は変わらない。