2013年12月18日水曜日

そういう女

夜中に、グレーパープルのネイルカラーを塗る。こういうシンプルなもので私にはもう十分だ。飾りたてても、もはや白々しい。しかし肌がもう少し赤みを帯びていたらよかった、とは思う。とにかく夜中に鏡で見る自分の顔が、ばけもののようでさっきも驚いてしまった。愛らしい色白などからは程遠く、そんなこと言ったら「愛らしい」という言葉がふさわしい年齢からも既に遠いのだが、生きている人間のように見えない、と言っても差し支えないほどの顔色にときどきなってしまう。

元気がないのはちゃんと書いていないときで、さぼったことに起因していようが、才能がないから書けないだけであろうが、とにかく、表に出さないと自分がくずになった心持ちがして、寝ても覚めても泣いても飲んでも、元気が出なくてだめなのだ。チェルフィッチュの『地面と床』で、山縣太一演じる由紀夫が「自分がクズなのを、クズ本人が何よりわかるんだよ。他人にはわからないよ。自分がクズかどうかは、他人が決めることじゃないんだよ。」と言っていて、すごくいいなと思ったけれど、ただ、私の現状を表すためにこの台詞を引用するのはあまりにも不適切な気がする。この台詞以外にも重要な構造や台詞がたくさんあることはもちろんわかってはいるのだが、全体を見ても一部を読んでもすばらしいのが、すばらしい作品(戯曲)である、という言葉をもって、私の弛緩した日常を食い破る力にしたい。

愛じゃなくて業が深い、というのは逃れられない宿命だが、それでいて情が深いのが更に致命的なところである。「どんな人よりも、大事なものがあるというだけなの」と私が言うと、S氏は鍋の白菜をつつきながら、信じられないといった面持ちで私を見た。「え、笑わないでよ」と私は反論しながらも、まあ、そう言われることにも慣れているな、とあきらめてハイボールをあけた。取り繕ったところで仕方ないので、あと二年くらいはこのスタンスで生きてみようと思っている。とはいえ、無闇にのたうち回るのは自分の精神状態を考えるとよくない。そういう私を見て、彼は「他人を気づかって関係を維持することと、より近しい人への義務を混同しなくていいんだよ。自分で自分を縛るべきではないよ」と言ってくれた。先にも書いたように、私はいささか情が深すぎるように思われがちだが、明確な但書きもたくさん持っている。その但書きに関係あるようなないようなことをつらつら喋りながら、受信したメールと腕時計を見比べていると「自分が引き止めたくせに他の男のところに行くんだね」とS氏がふざけるので私は「そうよ、私はそういう女なの」と応答した。S氏がやれやれと言った表情で手を振ってくれたので、私は先に店を出た。

0 件のコメント:

コメントを投稿