2014年1月30日木曜日

ムーミン谷も今は冬

登戸を通るので、これは「のぼりとのスナフキン」を読まなければと思って、堀江敏幸の『おぱらばん』を持って出かけた。 そして"「のぼりとでおりる」という語義矛盾を実践"した(小田急線に乗り換えたので正確には降りていない)。小田急線の唐木田のほうに、うちの会社の研修施設があって、新人のときと三年目のときに、同期で泊まりに行ったことなどを思い出した。途中で通った溝ノ口でも酒に酔った記憶があるので、誰と会ったとか、あの街には誰が住んでいたとか誰の実家があったとか、こういう、土地に付随してふっと湧き出る微妙な思い出も、この年齢になると結構堆積してくるものだなあ、と思いながら歩いた。

堆積という言葉は、Kちゃんと話してから少し気になっている語彙だ。記憶や人の行き交い方が「堆積」する街と、そうなりにくい街は確かにある。どっちが暮らしやすいとか美しいという話ではなくて、ときには上澄みを漉さなければ息もできないこともあるし、澱や地層にこそ練り込まれているものもあるということだ。

夢とかⅢ

絶望しているあいだは、たくさん夢を見た。

大学卒業以来、音信不通になっている女の子に再会した。どこかの本屋か図書館で、私は彼女を見つけたのだった。「ユリ!」と呼びかけると、彼女は大学時代より少し年を取った、30歳の女の顔でこちらを向いて「あ」と、私の名前を呼び捨てで呼んだ。(当時、私を名前で呼んでいた女の子は、ユリとミズキの二人だけだったのでよく覚えている)どうしているか、ときどき思い出しては本当に会いたいと思っていたので、メモに電話番号とメールアドレスを書いてもらった。彼女が書いた名前は、私の知っている苗字ではなかったので「結婚したんだね」と言ったらユリは「そうなの」と、昔のままの弱々しい微笑みを浮かべた。起きたら、そのアドレスも全部わからなくなってしまっていて、本当に悲しかった。ユリ、どこで何をしているんだろう。幸せになっているといい。

高校の卒業式のやり直しもおこなった。セレモニーの部分というよりは、今もうあまり会わなくなっている友達にサイン帳を書いてもらったり、今度会おう、という約束をしたりした。式が終わって人工芝のあざやかな校庭に出ると、もう時間は真夜中だというのに空は明るく、音楽専攻の生徒たちがうつくしい衣装をまとってミュージカルの名曲をお祝いに歌ってくれていた。

ある劇団(たぶんマームとジプシー?)の新作公演の初日と、楽日を観た。砂浜が舞台で、山型に積まれた海の砂には浜木綿や露草が植えられていた。「この木、初日はなかったですね」と私が言うと、美術担当の女性が「一生懸命植えたんです」と説明してくれた。

小劇場女優の青柳いづみがウエディングドレスを着て立っていた。青柳いづみは、長袖のコットンの白いドレスで、それはそれは可愛らしかった。森に住む、白い花の妖精のようだった。

 二十歳のときに亡くなった祖母の死を、もう一度体験したりもした。夢の中で、祖母が死に際して書き残したノートの断片をひとつひとつ読んでいったのだが、残していく飼い犬を心配している一節がいちばん痛切だった。

母と妹とわかりあえなくなって、声をあげたらどうやら実際に叫んでしまったらしく、一度目が覚めた。

ある人に名前を呼ばれているのだが、彼の声は聞こえず、私は振り向くことができなかった。その間、なぜか私は蜜柑をたべ続けていた。 

そして起きたときには、すっかり目が腫れていたのだった。

2014年1月27日月曜日

淵を覗く

ひどく絶望的な言葉を受けた。どんな演劇だって、これほどまでに他者との断絶を浮き彫りにすることはあるまい、という夜だった。あんまりつらい気持ちになったので、たまにはいいのではないか、という自棄ぎみな気持ちになってしまい、Twitterに思わず書いてしまったら、MN嬢がリプライをくれた。「体中の血の気がひいた」と言ったら、彼女もその夜に絶望的な目にあったらしく「私は身体が裏返って内蔵が晒されたよ」と返ってきた。さらに「血が引きすぎて体感体重が軽くなった」と訴えたら「飛べるかもよ!」と言われたので、一生手放さずにおくべきは、すばらしいボキャブラリの友人であることを痛感した。「身体が裏返って内蔵が晒される」なんて感動的ですらある。生きるのも死ぬのも汚いことだと思えばもう怖いものはあんまりない、かもしれない。

2014年1月26日日曜日

グッドラック

コートとお財布の色が同じですね、と受付の女が言った。ちょうど処方箋と領収書をもらったところで、私は虚をつかれてちょっと笑った。緑が好きなんです、と答えた。

赤い電車に乗って、飲み屋をはしごした。もっと年を取ったら私も妖怪になりたい、と、刺身をたべながら思った。肩に小さい猫を乗せて近所を歩くようなおばあさんになりたい。移動した先の店で頼んだ餃子がいつまでも来なくて、おばちゃんに聞いてみたら「もうすぐダヨー」と言うので、忘れてたな、と思った。でも「忘れてました」と言うより、もうすぐ、って言いながら騙し騙し生きていくしかないときもあるのかもしれない。騙し騙し、っていうくらいだから、その場は騙せるということなのだ。

いくつになっても煙草の灰がうまく落とせない、という歌の一節があって、さっきマニキュアを塗っているときに、それを思い出した。いくつになっても右手のマニキュアがうまく塗れない。煙草の灰なら拭き取ることもできるけれど、失敗したマニキュアはきたなく滲んで、いつまでも目に入るのが疎ましい。

何時間かかけて、ゆっくり化粧するのが好きである。朝起きて、洗顔して基礎化粧水を肌になじませ、化粧下地とファンデーションをすませる。手元に眉墨があればここで眉も描く。そのあと、お茶を飲んだり食事をしながら今日の予定にあわせて、出かける時間が近づいたら頬紅を入れてマスカラを塗る。気が向けばアイシャドウもする。肝心なのはくちびるで、ここが最後になる。私は口紅がとにかく好きなのだが、流行りのナチュラルなリップとか、グロスで艶をつくる、ということにはあまり興味が無くて、ただ自分の好きな赤みを自分のくちびるに乗せることに喜びを感じる。たとえばぱりっとしたスーツや新しい靴、帽子などで人が武装を行うように、口紅を引くということは、私の戦闘モードのスイッチが入るということなのだ。気の置けない人々と食事をするときは、あまり口紅を塗り直さない。でもちょっと意識が張りつめているときは、ことあるごとに、ひそかに赤を重ねている。

2014年1月24日金曜日

慣習と振舞い

モノレールに乗った。無人運転の車両のライトが平たい線路を照らしていて、今日のことは忘れない、と思った。

年齢と経験の話をしていた。仕事に関しては、馬車馬のように働いた時期がだいぶ長いので、たとえば芸術を生業としていたり、会社づとめをしたことのない自分より若い人に「会社員なんて」「芸術のことなんかわからないでしょ」「私たちとは違うでしょ」みたいな物言いをされても、別に全然平気である。権謀術数うずまく資本主義の中で働いてきたことは無意味じゃないのだ。余談だが、2010年に、ままごと『スイングバイ』を観たあと、あるアナーキーな人と話していて「会社員」という存在を全否定され、そのときは大きく傷ついたものだけれど、自分の中に積み上げた時間や経験は、どんな形のものでも自分を支えると思えるくらいには年を取った。今思えば『スイングバイ』は、私が、いわば能動的に「社畜の観点」で演劇を語れるという武器に気づいたターニングポイントだった。

愛情に基づくセックスをきちんと、何度も、おこなうことが大切なのだ。どんなに心がつながったと思っていても、身体が離れていればもう他人である。それが基本的に私の、他者との境界線の考え方で、肌をあわせているときでもその境界は融解しているのではなく、ただ浮き彫りになっているだけだと思う。でも、このことは、私の舞台芸術に相対する姿勢、つまり今目の前にいる人を大切に観るということと、パフォーマーと観客たる私の定義の仕方に少なからず通じている。それに、他者を心から信頼して身体をあずけたことのあるかどうかは、文章にも振舞いにも(ツイートひとつにだって)表れるものだ。

暇だったのでオムライスを作った。一般に、男性の心をつかむ料理は和食と言われているが、それより何よりオムライスではないかと思う。単に自分が好きだということかもしれない。特に人のために作ったことはないし、そもそも誰かのために料理がうまくなりたいというよりは、自分で自分を許せるかどうかというレベルの線引きのために上達したいので、これはつまり文章と同じたぐいの欲望である。

2014年1月22日水曜日

間のわるさについて

昨日はまじめに書き物をしようと思って喫茶店に行った。電車を降りて、駅からすぐのところにある。でも何だか言葉が焦点を結ばず、つまらないことばかり並べてしまって参った。昨日の日記もあんまりおもしろく書けなくて、でも具体的にどう直せばましになるのかもちょっとわからないくらい、手元がおぼつかない。メモのような断片だけはたくさん書けたので、落ち着いたころに組み立てたい。

その喫茶店は分煙が厳密になされているわけではないので(つまり自動ドアとかで仕切られているわけではない)ときどき、ヘビーなスモーカーと隣り合わせてしまう。昨日も、私は隣の紳士のテーブルに目を走らせ、すばやく銘柄をチェックした。なんとPeaceであったので、まあそれなら許すしかない、と思った。しかも年季の入った感じのショートピース。これがもし、マイルドセブンとかを吸っているサラリーマンだったら余計気が滅入るところだった。

においを感じるということは、においのもとの分子が鼻腔の奥に張りついているということで、その知識は昔読んだ『動物のお医者さん』か『おたんこナース』のどっちかで手に入れたものだったなあ、とか、くだらないことを考えているうちに煙草のけむりで頭が痛くなってきたし、おなかも痛い気がしてきたし、ここではないどこかへ、という気がたまらなくしてきたので店を出た。駅ビルをふらふらしているうちに、雨が降ってきたようだった。濡れねずみとまではいかなくても、髪が湿って丸まったりした。折りたたみ傘を持って来るかどうか玄関で一瞬迷ったのに、と、臍を噛んだ。「臍」って何だろう、というのは今思った。

スーパーマーケットに寄らなければ、と思って野菜と肉をいくらか買った。一週間に一度か二度、こうして買い物に出て、冷蔵庫の中身が尽きるまで適当に料理し続ける。レジ袋にぽいぽい放り込んでいると、冷凍うどんのパックの端らしき鋭利な部分がレジ袋を裂いて穴をあけてしまった。歩き出したところ、中身がこぼれたのでそれが分かった。一瞬何が起きたのかわからず、変な方向に飛び出したネギを見て異常事態に気づき、同時に、外はまだ雨だということを思い出して、がっかりした。店の中で破れたので、新しい袋をすぐにもらえたのが救いと言えば救いだった。

こんな日はせめて特別な気分になりたいわ、と思って、炭酸がきらいなのに三ツ矢サイダーを買ったのだ。しかし前述のトラブルによりスーパーの店内で落としていたため、自宅で盛大に吹きこぼれたのは言うまでもない。

旅にはスコーンを持って

5時台かな、と、カーテンの隙間からの光を見て思ったが、時計を見ると6時を過ぎていた。起きてしまった時間の間隔をはかると、きっちり二時間くらいずつになっていた。黙って、周りの音に聞き入っているとなかなか再度眠りに入るのが難しいようだったが、何とか、身体を横たえてじっとしていることには成功した。日の光がもっと入る部屋に住みたい。今の家はどうにも暗くて、明かりもテレビも、私の時間を狂わせる。

Kちゃんと過ごした週末はとても楽しかった。一日に同じカフェに二度行った。「言葉は照明である」と、演劇作家のO氏が言っていて(そういえば彼の最近書いた小説の登場人物ふたりも「O氏」というのだった)「イルミネーションとしての言葉」という言い方もしていたけれど、明るく照らして境界を明らかにしていくことが、今の言葉には求められているのだと思った。光と(闇と)物語について考えた二日間だった。Kちゃんが最後にくれた浅草のおだんごは、色がきれいでつやつやして可愛くて、とてもおいしかった。箱に描いてあった鳥の絵は、伊勢物語のみやこどりだろうと思った。

ふと思い出して、年末に友人から送られてきたメッセージに書いてあったスペイン語の意味を読解したら、思ってもいなかった意味だったのでおどろいた。せいぜい、慣用句的な年末の挨拶だと思って読み飛ばしていたのだが、そういえばスペイン語は一度たりともかじったことがないので、これからは少しくらい考えて読むべきだな、と思った。

2014年1月18日土曜日

早朝の鳩

家のそばでは鳩が鳴く。朝からやたらと不穏な声で。不穏というのはちいさい頃の記憶のせいで、なじみのない家の和室に毎週泊まり、朝四時くらいに目がさめたときに、聞こえるのが鳩の声だったから。隣には母と生まれたばかりの妹がいたけれど、鳩の声は今でも好きでない。

母のことを考えていたら、母がレーズンパンを持って訪ねてきた。棚の上を指でこすり、埃を確かめているので私は「ママが姑じゃなくて、実の母でよかったわ」と思った。思っただけでなく、実際にも言った。

優しさは行きずりのものがいちばんよくて、つまり、いつだって何でも無いふうにして差し出せるものだけが本物なのだと思う。好かれたいとかつなぎとめたいと思って行うことはただの罠なので、そんなものには掛からないようにしたいし、自分でもいっさいやりたくない。

2014年1月16日木曜日

指先

文章を読んでいて、体温が上がって思わずいきそうになるくらい、ぐっとくることはあって、それは何も名文であるからとかいうわけでなく、むしろちょっと意味わかんないんだけど、びっくりするほど、いきなり私に寄り添って響く瞬間がやってくるように書かれているものに出会うと、そうなる。図書館、部屋のソファ、喫茶店、電車の中、どこでも来るときは来るのだが、比較的、稀ではある。 いきそう、というのは文字通り性的な事柄と思ってもらってまあ差し支えないが、今のところその感覚に同意してくれそうな友人は、MN嬢しかいないと思われる。

裸足の人の、足の指の長さをつい見てしまう。舞台俳優などもそうで、足の人差し指が長いのが男らしくて私は好きだな、と思う。私は親指が一番長いので、自分とは違う遺伝子を求めているのかもしれない。足の人差し指が長い男は、私とは絶対的に異なる生き物だという気がする。

2014年1月14日火曜日

粉と卵と砂糖とミルク

レジの横のバウムクーヘンに気づいたときには、もう会計を済ませてしまっていた。そう思うとバウムクーヘンがほしくて居ても立ってもいられなくなり、スーパーを出たあとにバウムクーヘンが買えるところは果たしてどこか、真剣に考え、数百メートル離れたコンビニの存在に賭けた。急ぎ足でコンビニに入り、うろうろと菓子売り場を探して、ちいさいバウムクーヘンの袋詰めを見つけたときのあの安堵感は何だったのだろう。でも今度から「好きなたべものは何ですか?」と聞かれたときに「アルフォートです」ではなくて、「バウムクーヘンです」と言うことに決めた。

「お前はもともと気持ちの浮き沈みが激しいからなあ」と、この前、上司は苦笑まじりに言ったのだった。いやな苦笑ではなくて、ちゃんと私を、長い間見てくれている人の苦笑であった。自分だけが知っている自分なんてほとんどなくて、だいたいのことは見透かされていると思ったほうがいい。私は表情に出やすいほうだし、読まれていないなんて思っているのは自分だけだった、という経験も多い。だけど、わかってもらってうれしい、というわけにもいかないのが根性曲がりなところである。

普通にたべているはずなのだが、体重計に乗ったらまた少し落ちていた。こんな数字は、中学生の頃以来ではないだろうか。昨日の成人式では、振り袖の子をひとりも見かけなかったけれど(近所しか歩かなかったからかも)私は二十歳のころが一番顔も丸くて、健康的な体つきだった。そこから少し細くなって、去年また少しやせて、そのやせ方も年のせいかはわからないけれども、鏡にうつる二の腕、背中などは、やはり三十路の馴染みかたをしてきているように思う。

2014年1月12日日曜日

深く熱く

「多くの人は、そこまで愛が深くないものだよ」と言われたとき「そんなの知ってるわ」と、何のタイムラグも無く思った。そのタイムラグの無さは、すなわち私の絶望と乾いたあきらめを表しているようだ、と考える余裕さえあった。今さら悲しく思ったりしない。人が私より薄情なのは当たり前だ。それより問題なのは、私がそこに重ねておこなっている論理展開のほうで、人は私より薄情なので、私も、ある点においては他人に対して薄情になってもいいのではないかしら、と考えるところである。もちろん、いつだって人が私より薄情だなんてことがあるわけない。あまりにも、傲慢だ。

でも、見くびりあうこと無しに、どうやって愛し合えばいいのだろうとも思う。

私のほかにもそれを(その人を)愛しているひとは多くいる、と考える気持ちは嫉妬や所有欲をいたずらに喚起するもとになる。それを避けるためかは知らないが「だけど、それを(その人を)いちばん愛しているのは私」という着地の仕方がやめられない。 あながちそれが間違っていないように思われるケースもあるし、その気持ちに見合うだけのものを奥底に持っていることくらいは、いつだって許されていいはずだ。

2014年1月10日金曜日

船底の果実

運命の順番について、ひと頃よく考えていた。なぜ人生のうちのあんなにも早くあの人に出会ってしまったのだろう、とか、やはり今この人と一緒にいるのは正しいのだ、とか。でも、いつだって今そばにいる人のことを大切にするしかできないのだし、自分が本当に困ったときには、絶対に必要な人に会えるという経験則も手に入れつつあるので、そういうことを考えるのにはもう疲れてしまった。「これくらい生きてるとね、人生の繰り返しが見えてくるから」というような話を最近したけれども、繰り返しが見えるということはあきらめと熟れの両方を示していて、今はその扱い方を習得しようとしている最中である。ちなみにその時の会話の中で「よくも悪くも」という言葉をやけに使ったのを覚えているが、「よくも悪くも」なんて言うときは絶対「悪くも」のほうに比重が置かれているのであり、しかも私は中途半端に年を取ったふうな錯覚を起こしているものだから、その「悪くも」の部分について、改め方もわからなければ、改める気が(今のところ)ない、というのが本音だ。しかし、ばか正直なことが分かっている部分において、わざわざ、より、ばか正直に振る舞う必要はない、という言葉は密かに胸の奥に刻まれている。

いいところばかり抜き出して楽しめるような恋は一度もしたことがない。そもそも、恋を楽しいと思ったことはあまりない。そんなことを考えながら指を見る。母に似ている。先端のささくれだちの様子や赤みのある色などは、祖母にも似ているように思われる。こういうことが素直に感じられるようになったことがとても嬉しいし、死んだ人がこうして指先に居てくれるなら、吹っ切れて、自分の道を進んでゆけそうな気持ちがとてもしている。

「水は低きに流れる。人は易きに流れる」というのは、子供のころから母に教え込まれてきた言葉で、何か元の言葉があるのかどうかは、物知らずの私は知らない。でも、この言葉のおかげで、安易な性善説に流れず生きてこられたことには感謝する。人はすぐ怠けて学ばなくなるし、心は腐敗する。律する心を持てているかどうかは、他人という鏡に映してみなければ分からないこともあるので難しい。

茅場町のアスファルトの上で転んだ。人に見られたことなどは特に気にならず、それより寒かったので痛みのほうが強く、悲しくなった。黒いストッキングが破れ、血が流れて止まらなくなった。生理でもあったので「ちょっとこれは、血が失われすぎるのではないか」と危惧しながら、コンビニで絆創膏とティッシュを買って対応した。転んだのは何かの兆しかもしれない、と、我が身を振り返りながら慎重に歩いた。痛みのため、ゆっくり歩かざるを得なかったというのもある。転んだとき、足もとに注意していなかったのは確かで、かと言ってまわりの風景をちゃんと見ていたわけでもなく、道と方角を盛大に間違えていたことにはコンビニを出てから気づいた。

久しぶりに会った上司は優しかった。彼はいつも「今すぐ安曇野に隠居したい」と言うので、私は「そうも言ってられないでしょう」と笑って返すのが、お決まりのやり取りである。「人事部が衝撃受けてたぞ」と言われたので、ちょっと悲しくなって「そんなに、みんなの期待に応えられないです」とだけ言った。上司は「あんまりため息つかないほうがいいんじゃないか」と言い残して職場に帰っていった。

今朝、私は水のたまった船底に隠れて乗っていた。船はどこかの島に向かっていた。私は船に決まった席を持っておらず、二階や三階を行き来しているうちに、子猫を助けたりした。子猫はどこかに帰りたがって鳴き、私と一緒にいた男を引っかいていたが、私はその子をうまく抱いたので傷つけられることはなかった。そのあと私は船の中で、桃やぶどうやオレンジ、苺など、くだものをたくさんむいて箱に並べていったのだが、その場にいた従姉の子どもたちには見向きもされなかった、という夢の話。

2014年1月6日月曜日

プライベート・スカイラインⅣ

実家に帰りたい、と思って夜中にさめざめ泣いた次の日、腫れた目で実家に帰った。郵便受けを見ると、同人雑誌が届いていた。去年の11月に逝去した大伯父が、投稿を続けていた哲学系の批評同人誌であった。いつも大伯父から私宛に送ってもらっていたのだが、今回は大伯父の娘であるところの母の従姉が、送ってくれたらしかった。大伯父の名で、テオドール・W・アドルノに関する短い文章が載っていた。

「私はね、父の書いてるものも読んでるものも全然わからないから」と、母の従姉はいつも言っていた。それは、私には過剰なほどの反応に見えた。「わからない」という言葉は「知りたくない」という拒絶にも思えて、その遠ざけ方が私はいつも少し悲しかった。どんなことだってわからないはずがないのだ。わかろうとさえすれば、そこからどれだけのことが始まっただろう。彼が死んだ今になってますます、子供たちからそんなふうに思われて、彼の心の一部分は、さぞかし孤独なものだっただろうという思いが募る。でも、「父と娘」という関係性は一言では言えないものが絶対にあるから、他人である私に簡単にはとやかくは言えない。私くらい、世代も血筋の上でも離れた距離であってこそ、大伯父も私に会うのを心待ちにしてくれたのかもしれない。それでも、彼の喜ぶ顔は、逆説的に「私にはわからないから」という拒み方が人を大きく傷つけるということを私に教えた。

雑誌に同封されていた手紙には、こう書かれていた。

「父が投稿を続けておりました雑誌が、暮れに送られてまいりまして、その一冊をもらっていただけたらなあと思いお送りするものです。内容は、相変わらず私にはちんぷんかんぷんですが、納骨の日に兄弟で「まさかもう投稿していたりしないでしょうね」などと話しておりましたのに、「いつの間に…」の一冊であります。」

手紙を読んで涙が出た。彼女は知らないのだ。この原稿を、もうペンが持てなくなっていた大伯父のかわりに、私が聞き取って代書したということ。発行人のもとに、代書の旨を書いた手紙を同封して郵送したこと。原稿の複写を欲しがっていた大伯父にコピーを渡せなかったのを、今も悔やんでいること。

私は、彼の終の住処となった老人ホームの隣駅に三年暮らした。そこから越す一週間前に彼が亡くなったのは「もうここに来なくてもいいんだよ」という彼のメッセージであるような気がしていて、今になるとあれが私の娘時代の、本当の終わりだったのだと思う。

2014年1月3日金曜日

軌道共鳴

女が自由に生きているように見えるとき、男は大体いい顔をしないということは経験的に知っている。血がつながっていても、いなくてもだ。心配したりあからさまに不機嫌になったり、素振りはいろいろだが、理由は分かっている。彼らは彼らを縛る条件と懸命に戦っており、そこから逸脱しようとする女がうらやましい。でも、縛られている条件なら私だって負けない。これまでもこれからも。だけど私は「やると決めたらもう絶対やる」し、「決めたらすぐ」だし、それについて、他人の判断を待っていられるほど若くない。誰かの判断を知りたいと思ったときはそれまで待つが、それも含めて、私の判断として背負って生きる所存だ。

家にやってきた妹の前で大泣きした。サンプルの松井周が今日、Twitterで「『プレイ』という言葉を今年は推したい。演じさせられようと積極的に演じようとエンジョイできればOK。強制はNGという意味。」と言っていて、やっぱり今年はこの人に付いてゆこうと決めた。松井周に付いてゆきたい、と思えるほどの経験を積んだ大人になった。それが今はすごく嬉しい。マゾヒスティックであることが、この世を生き抜く強さに変わることもある。

軌道共鳴という言葉を覚えて、好きになった。Wikipediaによると「天体力学において、公転運動を行なう二つの天体が互いに規則的・周期的に重力を及ぼし合う結果、両者の公転周期が簡単な整数比になる現象 」ということだが、よくわからないので今度、太陽くんに教えてもらいたい。太陽くんというのは私の古い友達で、雪さん花さんというお姉さんの下に生まれ、月ちゃんになりそこねたという男の子である。大学で宇宙について勉強していたので、きっと詳しいに違いない。太陽くんが教えてくれた数学の世界のいろんな話は、いつか誰かに話したい。