2014年3月30日日曜日

インサイド・アウト

幼馴染は言った。「あなたは、とにかく頼って甘えてもらわないとだめな人なんだから」。それは私の現状に対する強烈な指摘であり、私は居たたまれなくなって苦笑した。「だめ」と言われた私の日常はくすんで、何かの烙印を押されたようだった。コーヒーショップに遅れて現れたもうひとりの同級生は、座って幼馴染としゃべる私の姿をじっと見ていて、夜中に「姿勢が良くて素敵だった」というメールをくれた。

私の辛辣さは、攻撃のためではなく、その人の力になるためにある。それに際しては自分の立ち位置を守ったり逃げたりすることが恐ろしく下手になることもあるが、これはもう、むき出しのままで生きるしかないのだ。愛されている人は傲慢である。でも、愛する人の心には気付かないでいてもいい。長年染みついた防衛本能に知らぬ間にあざむかれたり、隠されたり、何かしらの陵辱で返されることがあっても、それも許したい。許したい、というだけで、許せるかはわからない。

2014年3月28日金曜日

バックサイド・フロント

最近、目を覚ますと2:48である。そもそも3時すら回っていないということに大変な絶望を覚える。 2×4=8。横になっている私にとっては無限の恐ろしさだ。3時を過ぎれば、夜も峠をすぎたとせめて言うことができる時間であり、早朝の範疇に含めることができるのに。

朝のうちはお料理も何もかもやめて、本でも読みなさいとわが主治医が言った。たしかに、エネルギーの差し向け方を調整ができないと、困るところまで来ている。制御できなさは日中にも及び、ついに携帯電話を落として背面のガラスを割った。

しかし起き上がるとしゃっくりが止まらなくなった。起きてから、誰からもメールが来ていなかったのでまた少し近所の生け垣のお花のことを考えていた。しゃっくりがいつどうしてかはわからないうちに止まっていた。

2014年3月25日火曜日

アップサイド・ダウン

50時間ぶりに家の外に出たら、ずいぶん花が咲いていた。昨日と今日で花びらが開いたようだ。目当てのお花を見に行くよりは、お花を探して歩きたい。 眺めていると、数分だけ気持ちが明るくなった。やはり閉じこもっているのがいけない。だが、出ることができないときは、出ることができない。思い立ってパン屋まで歩いた。しかし、パン屋は定休日だった。

どうしようもないので、何が一番悲しいのか考えることにして、三日前のとある事件がやっぱり引っかかっているのだと思い至った。あそこから、私の妙な木の芽時が始まって収集がつかなくなっている、気がする。調子のいいはずの時期に、まるでホルモンバランスを崩したような不安定ぶりである。それを認めて、目の周りが落ちくぼむほどにさめざめ泣いて、最後のほうは泣くためだけに泣いて咽んだ。ここを生き抜くしかない、と思ってベッドから出て食事を作った。でもそれとこれとは話が別、と何度もつぶやいて、いろんな後悔が去来するのを感じていたけれど、もう涙は出なかった。

母は、悲しいときはこっそり人の靴を叩きつけたり玄関に投げつけるといいわよ、と物騒なことを言った。そんなことやってたの、と聞いたら可愛らしくうなずいた。そして、挫折や苦労を経た男の優しさは目に見えないから面倒だけれど、まっすぐ育った男というのも考えものよ、と言った。

私の持っている地球儀ではまだソビエト連邦が幅を利かせていて、もう何年前のものかもわからないのに色があせる様子もない。写真はマーガレット、パンジー、沈丁花、椿のつぼみ、木瓜、牡丹のつぼみ、ソビエト。







2014年3月24日月曜日

未熟者には毒

思っているより深刻なのかもしれないし、思っているほど心配することではないのかもしれないが、明らかに、想定した時間よりもねむった時間が少なくて、時計を見てももう驚きもしない。この一週間、どんどん状態が悪化していく。願望と欲望の混濁した夢を見て、疲れ果てて起きてもまだ20分しか経っておらず、昼間でも夜でもそれは変わらない。横になっていられないので、深夜2時過ぎに家の中をうろつき、どうしようもないので少しだけまたベッドに戻っては、春の朝の暗いうちから気休めに家事をするはめになる。家の中は電波圏外なので、人に電話しないですむのがせめてもの救いだが、それは巻き込まれるかもしれない他人にとっての救いであって、私にとっては牢獄のようなものだ。朝、まだ暗いことはわかるが、外が見えないので明るくなっていく様子がわからない。

私には出すぎた言葉だった。言いすぎた。それでも口にした言葉は戻らない。表してしまったものは永遠にそれを表し続ける。座っているだけで、身体が傾いでいるような後悔である。 「書くことは誰かをつぶすことと心得よ。活字を書くということはそれ以外のものを切り捨てるという意味だ」というのはOY氏の教えである。これまで、OY氏に会うよりもずっと前からその意味は知っているつもりでいた。何度か身につまされもした。でも、言葉は産むものだから、産んだそばからその痛みを忘れてしまう。忘れるからまた産める。誰かの思いを傷つけたいわけではなかったのに、とこういうときは強く思うけれど、私にだって傷つけられたくない思いがあるのだ、ということにはさっき気付いた。でもその表し方がまだ私にはうまくできない。どうしてもできない。いつだって、傷つけることが目的ではないがただでは返したくないし、手を尽くして逃げようとすれば、それはすなわち敗北だ。

午後2時の戦慄

軽トラに乗せてもらったのだが、そこに財布を忘れてしまった。黒い折りたたみの、私のではない財布だが、私が持っていたのでそのときは私の財布だったのだろう。私を降ろした軽トラは土手を走り去ってしまったが、途方に暮れていると、折り返して下側の道を戻ってきた。私は土手を駆け降りて、軽トラを運転していた老人に再びドアを開けてもらった。座席を探しても財布はなくて、困って「ないみたいです、すみませんでした」と言うと、老人は睨め付けるような目で「そこにあるよ」と、ダッシュボードを指し示した。「え」と私は言って、黒い財布を見つけた。彼は、私がこれを探していることを知っていて、わざと教えてくれなかったのだ。それに気付いたとき、老人は車の扉をふさぐように立っていて、私は外に出られなくなっていた。老人は扉を閉め、私をさらって走り出した。見知らぬ車に運ばれることがこんなに恐ろしいなんて思わなかった。身体がふるえて何もできなかった。しばらく行くとゲートが見えてきて、収容所に私は収監された。駐車場には私の友達がいて、彼もとらわれてもう戻れないようだった。声をあげて、目が覚めた。日はまだ南を回ってまもない時間で、じっとり汗をかいていたのに、熱はまだ下がっていなかった。

どうも後をつけられている感覚はあった。あるいは、私が入る部屋、眠るふとんに、人外の気持ちの悪い、きらいな存在がいることも気付いていた。理不尽で不気味なその空間から抜け出して、恋仲である男性と落ち合って歩き始めたところ、横断歩道でやけに笑顔の華やかな知らない女性が私に話しかけてきた。男性は明るい表情で、ひさしぶり、と彼女にあいさつをし、私から3センチ離れたので、彼女が彼の元恋人であることが私にはすぐわかった。女も、私と仲良くなろうとするために、にこにこと私を見定めながらクッキーをくれた。くだらない、と思った私は、彼の今の恋人たる雰囲気を出そうと思い「ありがとう」と高貴な女王のように言った。それを受けて女はますます笑顔になったので早くここから去りたいと私は思った。男はすでに勝手に歩いていってしまっていて、そのことにも腹が立った。女は「きれいね」と言って私の頬に右手を触れた。冷たくて不快だったので走って逃げた。左頬の感覚が戻らない。走りながら確かめると、女の右手だけが取れて、私の左頬をつかんだままなのだ。背筋が凍って、先を歩く恋人を呼び止めるために「ねえ」と声をかけたが、彼が私のほうを振り向いてくれたかは定かでない。

ここから先は夢ではなく本当にあったことなのだが、かつて恋人の、ふたまたの恋人に励ましを受けたことがある。たぶん最初は私がふたまたのほうで、あまりに尽くしたので本命に昇格したのだと思う。彼女の存在を私はずっと知っていたがそれはまた別の機会に書くとして、私がしばらく恋人をほったらかして芝居を作っていたことがあったのだ。ずいぶん、ほったらかした。別れてもいいと思っていたが、公演の日に恋人は、ふたまたのほうの女(このとき彼と彼女との関係は切れていたのだが、事情は割愛)を連れて現れた。公演終了後に、女は私を見つけ「がんばってよ!」と優しく私の肩をたたいて帰っていった。そのときも、まったく紹介を受けたり、彼女が名乗ったりしたわけでもないのに、私は彼女が彼の昔からの恋人であることがわかった。彼女の手のひらの温かみは、私がせっかく身を引いたのにあなた何やってるの、と私を諭すようで、嬉しいのと悔しいのと驚いたので、後でひとりで泣いた。顔なんて朧気になって久しいけれど、今も彼女を忘れられない。昔は、同じ男を愛した相手だからだと思っていたけれど、今となっては、愛し抜くことができなかったからこそだと、思ってしまう。

2014年3月22日土曜日

紙吹雪小奏鳴曲

ついには朝8時まで熟睡する夢を見て、ほっとしたのもつかの間、実際の時計は2:48で、およそ一、二時間おきに目を覚ますリズムになっているので、結局は四回ほど起きてしまったところでどうにもならなくなってベッドから出る。しかたないので、今は洗濯機を回している。お料理は、作りすぎて今は余っているので新たに調理するのはためらわれるし、風邪を引いたので食欲がない。こんなときは窓の外を見てはしゃぎたい。空の色がくもっていたって何だってかまわない。朝の光やだんだん傾いて行く午後の日差し、少しずつ部屋が青暗くなって、でも蛍光灯をつけるのは寂しくて迷っているような時間を、ぼうっと眺めていられることの幸せが、今ならよくわかる。

元気だった?と聞かれて、どう見えますか?と聞き返したところ、笑顔がますます内向的だね、どこかに閉じ込められているの?と彼は言った。

雪がやんで、音が大きくなるのがあの芝居の素晴らしいところだ、と何日も経って考える。ロシア文学に精通していなくてもドストエフスキーを読むことはできるし、それは肺のしくみを詳細に理解していなくても酸素を取り込める、ということに似てはいると思うが、取り込んだ酸素について書くときには、やはり肺の組織について書かなければならないだろうか。本当に?

2014年3月18日火曜日

ゆめを見る

朝のことは覚えていない。そういえば、ベッドから降りるときはまだ薬が残っていて足がふらつく。それでも、横になってねむっているよりましなので起きる。メールの返事を書いたり、携帯電話のメッセージの返事を書いたり、朝ごはんを作ってたべたりする。そのことは覚えているのだが、あとになって痕跡を見返すと、自分でない者がやったことのように思える。おかしな内容を書いているわけではない。ただ、脱いだ服を少し離れたソファから眺めているような心地がする。かつて確実に私の一部で、今も少しぬくもりがあるのに、すでに私の一部でない。

今日はインスタントラーメンをたべ、ヨガをして、午前中なのに昼寝をしてから三日漬けおいた鶏ハムを茹で、グラタンを温めなおし、お風呂に二回入り、寝ようとしてねむれず、メールをいくつか書き、バターと粉と砂糖でクッキーを焼いて、もう一度お風呂に入った。 これからマニキュアを塗り直して、クッキーを袋につめてからねむる。窓は全部閉まっているのに、どこかから冷たいすきま風が入ってきているようだ。

散らしてカノン

何の気なしに、ラナンキュラスの花束をもらいたい。一緒にお花屋さんに行って、好きなお花を買ってもらうのも素敵だ。それがいちばんの望みと言ってもいい。

少し嘘を含めてしまった。本当に求めているのは、お花でもあるけど、私の作ったごはんをおいしいと言ってくれるか、そうでなければ、あなたが何か私のために作ってくれて、それを一緒にたべることである。客観的に見ると、どれも恐ろしいことばかりだ。恐ろしいので秘密にしておこう。

「花は枯れはじめる前に捨てなさい」というのは母の教えである。「男は痛みに弱くて病気に鈍感」とも言っていた。「だから優しくしなさい」と続くのがいかにも私の母らしい。

2014年3月16日日曜日

ガーベラに愛されて

「あなたは結婚を四度すべし」と彼女は説いた。何度もして、一度の結婚を軽くするのがよいのでは、とそれこそ些か軽率に、彼女は言った。確かに、二度くらいは結婚する人生ではないか、と薄々思っていた。その考えに風穴をあけられたようで何となくまだ信じられない。

 ちゃんとひとりにしてほしい。ひとりじゃないときに、すぐ手を抜いてしまうのをしたくない。でも、結局仕事でも何でも、人と一緒にいる限りはよくもわるくも遠慮してしまって、本当に追いつめられた力が発揮されることはない。それはまわりにとってはどうか知らないが、私にとってはちっともよくない。

2014年3月15日土曜日

こめかみの傷

靴をはき、立ち上がるときにドアノブに頭をしたたかに打ちつけた。目から星が出る、とはよく言ったもので、そのままうずくまってひとりで騒ぎまくり、髪をかき乱して痛さに耽った。痛いことよりも、そこにあるとわかっているドアノブに頭を打つような、自分の空間認識の甘さへの苛立ちと悲しみが渦巻いた。だいたい私は、机の下に落としたものを拾って立ち上がるときに机の天板に頭を打ったり、観音開きの食器棚にものをしまって閉めるときに扉で頭を打ったり、冷蔵庫と冷凍庫の扉を間違えて勢いよく開けて頭を打ったりする。車の駐車も下手だし、さっきも手の甲をみずから洗濯機に叩き付けてあざを作ったし、自分で口の中を噛むので口内炎は治るそばから出来てゆく。

そういえば、よくけがもするのだった。先ほども、キッチンの洗いかごの中の包丁を取ろうとして人差し指をさくっと切った。ばんそうこうはあれからまだ買っていなかったので(※こちらの日記参照)今度こそもうない、と思ったが、リュックサックの外ポケットにもう一枚入っていた気がしたので見てみたら、あったので助かった。

個人商店とは思えないほど遅くまでやっている近所の魚屋で、鯵の刺身を買った。そのままたべるのも気乗りがしなかったので、寿司を握ってみようと思いながら帰宅したところ、先ほどの人差し指のけがをして握る練習はできなかった。白米を血で汚すわけにはいかないからである。あきらめきれなかったのでとりあえず米に適量の酢を混ぜた。そしてスプーンを駆使して酢飯をこね、鯵の寿司をつくった。寿司というより、丸くした酢飯に鯵を乗せた料理だった。こんなに愚かしい状態で寿司を握る心情を表した演劇がこの世にあるだろうか。でもそういうものに説得力を持たせてくれるのがきっと演出家という人々なのだろう、お願いします、もう私はだめです、と思いながら、夕方から漬けこんでおいたポークジンジャーを半分焼いて、その丸くした酢飯に鯵を乗せた料理をたべた。

2014年3月14日金曜日

サボテンの消失

あまりに私が落ち込んでいたので、母が古い指輪を持ってきた。返さないつもりで借りてはめた。この年齢になると、古い指輪も違和感なく肌になじむ。母は私を、自分の祖母に似ているという。理由を尋ねると、怪我を処置してくれるとき「痛い」と言っても無視してやめないところとか、どくだみ茶を飲んだりしているところ、と言われた。ちなみに母には表立って言ってはいないが、稀に煙草を吸うことがあるのも曾祖母(=母の祖母)と私の共通点である。隔世で、会ったこともない人に強く似て生まれることはきっとあって、でもそのことを知っている人はもうこの世に誰もいないのだ。

近所の家が取り壊しをしている。その家の玄関には、びっくりするくらい背の高くて太いサボテンがあって、クリスマスのころなどは手作りのフェルトオーナメントが下げられ、非常に可愛らしかったのだが、彼もとうとう倒されてしまった。初めは、中心くらいの高さでぼっきり折られ、そのまま痛々しい姿を数日さらされたあと、根本から抜かれた。遺体はしばらく崩れかけの玄関の前に横たえられていた。昨日、サボテンを見るために家の前を通ったら、そこはすでにほぼ更地と化していて、サボテンの肉片がわずかに、門だった場所の手前に散らばっているだけだった。この土地に引っ越してきたときの道行きの、最初の目印であったサボテンがしんでしまって、今はとても悲しい。

2014年3月13日木曜日

縫子修行

朝の静寂の中、カレーづくりをおこなった。タマネギを念入りに炒め、具は牛肉を用い、トマトを湯むきしてつぶし、にんじんは丁寧にすりおろして溶かした。なんと、スパイスと蜂蜜でコクと深みを出す時間の余裕まであった。つくることに一生懸命で、特にたべようとは思っていなかったので、まだ味は見ていない。

昨日は、行こうと思ったお店が定休日だったことと、買おうと思ったファンデーションが売り切れていたので、出かけた意味があまりなかった。かわりに、存在だけは知っていた近所のヴィンテージショップを覗き、黒のベロアワンピースを見た瞬間に気に入って、試着もせずに購入した。着られなくても手元にあるだけでいい、と思うくらい美しいワンピースだったし、隣にあったブラウスよりもだいぶ安かったからだ。家に帰って着てみると、肩幅が少し合わないように思われたので肩部分を縫い直した。また着てみると、今度は袖の長さのバランスが悪かったので丈を詰めた。古着を買ったのは人生で二度目だったが、サイズを自分で直したのは初めてだ。ワンピースは黒く光っていて、これを着た私はもう、ただの魔女である。

2014年3月12日水曜日

箱庭療法

早朝に覚醒してしまい、力を持て余すので、ついにお弁当づくりに手を出した。自分でつくり、お昼が来るのを待ち、たべる。お弁当のおかずを「つくる」というよりは箱に「つめる」という作業にやりがいを感じている。続けてみてわかったことは、プチトマトは日本のお弁当文化にあわせて品種改良されてきたに違いないということだった。あざやかな赤をあれくらいの小ささで代替する他の方法は、今の私では半分に切ったピンクのかまぼこしか思いつかない。これからは、ゆかりごはん、焼き鮭、白ごま、パプリカなどの使用にもぜひ精通してきれいな色のお弁当をつくりたい。

だらしない身体の男は嫌い、と告げた。男に限った話ではなく、身体のだらしなさは二の腕のかたちに表れる。ここの空気の流れが重要で、いい男もいい女もともに肩口をすっと抜ける風を感じさせるものだ(しかし、抜けるわりには湿り気を帯びているのが不思議である)。身体と心は連動していることが多い。生活は心に引きずられがちなので難しい。なので、鋭さを潜ませた身体と高潔な心で、だらしない生活をしているのが一番好ましい。

2014年3月10日月曜日

キッチンの女王

オムレツの練習をするために冷蔵庫から出した卵を、扉を閉めた拍子に床にほうってしまった。ぺちゃ、という間抜けな音がした。手の中にはひとつ卵が残っていたので、だめにしてしまったほうの卵を片付けてから丁寧に割って泡立て、バターで焼いた。やはり卵がひとつでは厚みが不十分だったが、焼き色は今までで最高だった。

一日中手先はおぼつかず、包丁で左手の薬指の端を切った。にんじんの色と見間違えるより先に、まないたに付いたのが血だと気づいて、しまったと思った。絆創膏が戸棚にない気がしたので、一昨日使っていたカバンの内ポケットから、しなびたのを見つけ出して貼った。私は使ったものを定位置に戻さないかわり、どこに何があったかは一瞥して忘れないのである。

続けてトマトを湯剥きし、つぶして種を掻き出した。本当なら包丁で切ってスプーンを使うのがうつくしいが、特に構わなかった。手はトマトでぐちゃぐちゃになり、例によって味見がめんどうなので味付けに難儀したが、トマトソースの出来はなかなかだった。いつだって、うまいものは自分の手を汚して手に入れるのだ。

2014年3月9日日曜日

まないたの上

つめを切ろうと思って、次の瞬間には切り始めた。つめきりの場所は私のいる場所から見えていたからである。正確に言うと、つめきりが見えたので、つめを切ろうと思ったのだった。ぱちんぱちんという音が小気味よかったので、調子に乗ってすこし深爪した。

私はだいたい毎日料理をするので、自分の身体を自分でつくっている認識がある。人は自分のたべた物で細胞をつくるので、そう思うと、誰かに食事をつくってもらうのは思っている以上に身体の深いところに作用する。料理をしない人はお店でたべる。外食はお金を払うので、食事に対する自律性が保たれる。あなたにはお金と引換えにたべものを調理してもらっているけれど、私の身体は私のものです、という意志が介在する。対価を払わず誰かの食事に身体を許すのは、(細胞が生まれ変わるスピードの)ゆるやかな支配への承諾と見なす。そう思うと、相手が私の持っているスプーンにくちを開けたりするのも、甘美なことだ。

2014年3月8日土曜日

パーティは終わりだ

待合室には老婆が二人いた。彼女たちはご近所の仲間同士らしく、ぺちゃくちゃとおしゃべりしていた。今上天皇が生まれたときに日本中で歌われた奉祝歌と提灯行列の思い出を語っていたので、聞き耳を立てた。その奉祝歌は北原白秋が作詞をしたもので、私は、亡くなった祖母が最期の病床で(なぜか)歌ってみせてくれたので、知っていた。本当に、あの世代の人々にはなじんだ歌だったのだ、という事実があらためて立ち上がってきてひそかに感動した。老婆たちはそのあとも、共通の知り合いのうわさ話や家庭事情などをあれこれ話し合っていた。しかし「彼はどうしたかねえ」と一人が言うと「あら、あの人は死んじゃったよぉ」などともう片方がのんびり返答するのには面くらった。
「え、いつ」「三年くらい前かねえ」「じゃ、あの人は?」「今は施設に入ってるってよ」「やだねえ、どんどん友達が減っていくのが悲しいよ」「あの人は息子が早くに死んじゃってずっと独りだったからねえ」「何で息子死んだの?」「がんか何かじゃないかねえ」
そこまで聞いて、私は先に待合室を出て靴を履いてしまったので、あとはどうなったか分からない。

あのとき誰かに埋めてほしかったものを、今、別の誰かがどれだけ捧げてくれようとも、だめなものはだめで空白は永遠に埋まらないのだと思う。穴のあいたバケツに水をそそぐような行為だと、わかっていても。

今言うべきではなかったことの断片を口走ってしまったのだが、助産師はその出産を促した。言葉の未熟児を産んでしまったので、腹にいるべつの子はちゃんと大きくなってから産むか、このまま子宮の中で細胞に戻って血になってほしい。

2014年3月6日木曜日

暮らしのドミノ

ねむるか、ピザを頼むかしか思いつかなかったので、昨日郵便受けに入っていたチラシの電話番号にかけてピザの宅配を頼んでみた。電話でピザを頼んだのは5年ぶりほどになる。最近はひとりでラーメンもたべたし、銭湯にも行ったし、行動力がついてなかなか広がりのある暮らしをしているのではないかと思う。私は寿司屋や居酒屋で注文するのがなかなかできなくて、いつも隣の人に耳打ちして「かんぱちを下さい」などと言ってもらっているので、たべたいものを人に伝えるだけで、一大決心が必要なのだ。ピザは、それから45分ほどしてからやってきた。1000円引きのクーポンを渡してお兄さんに代金を支払った。ピザ代というよりは、圧倒的に、原付の燃料代なのだろうな、と思った。

私は根拠のない即決をすることがたまにあって、それは前述の居酒屋でのしめの注文で「焼うどんと焼きそばどっちにしよう?」と聞かれたときに、どちらも同じくらい好きでどちらでもいいのだけど「焼うどん」と即答する、くらいの判断なのだけれど、そのことが日常に小さな決壊をもたらすことを狙っているので、そうするのである。論理立てるのでなく、好みによるのでもなく、ただ「決める」瞬間に何かが綻ぶ気がするのがうれしいのだ。服も家電も即決に次ぐ即決だし、本当は借りる部屋さえそれでもいいと思っている。

女がひとりでピザを頼んで食べる演劇とかありそうだな、と、トマトピザを咀嚼しながら考えた。食事時でもないのに、いったい私は何をたべているのだろう、と思った。でも、何らかの孤独や悲しみの描写に宅配ピザを使うなんていうのは古今東西しぬほどいろんな人が考えてきただろうし、あるいは陳腐すぎて考えもしないくらいの話で、そういう陳腐さにささやかな抵抗をするために私は思いつきでピザを頼んだり、この日記を書いたりしている。冗談ではない。私のくだらない、5年に一度程度の行動力など、底抜けに食いやぶる演劇が観たい。そういう、リアリティよりも説得力のある言葉と身体があるということを、私は知ってしまっているのだから。 

ひざに抱く

犬の頭を不意に撫でると、ときどきびっくりしたように目を閉じ、そのあと安心してまた息を始める。人の手が毛を、肌をすべるのがここちよいのだろう。目を閉じているので私の表情はわからないはずだが、私も安らかな気持ちと、あまりにも安らかなので不安になる気持ちの狭間で、少しだけ笑っている。このまま眠ってもいいのに、と思うのだが、どうも途中で起き上がってどこかへ行ってしまうのが寂しい。まれに寝息をたてることもあって、そういうときはいっそう優しい気持ちをこめて撫で続ける。強く抱きしめてしまって、起こさないようにするのがとても難しい。

2014年3月5日水曜日

裏街道五十三次

一泊する勇気はまだ出なかった。三年かそこら前に、修学旅行と銘打ったひとり旅があり、そのときの経験を塗り替えるだけの自信がまだ持てなかった。あれ以上のものを得るためでなければ、京都で夜は明かせない。あのときと私はもうずいぶん違っていて、好きだった人のことも今はそんなに好きじゃなくなってしまって、というか会わなくなってしまってどこに住んでるのかも何となくしか知らない。知らない町で日が暮れていくのが不安、と昨日は思ったけれど、京都のことは別に知らないわけじゃなくて、でも行きずりの、それでいて永遠の憧れのような気持ちの結晶が喉元を刺すのだ。行ったことのないところに行きたくて、京都タワーの下の浴場に行った。どんな場所でも、服を脱ぐ前と後では町との距離が少し変わる。道中は、往復ともに死んだように眠った。どうかしてる、と思うような眠気だった。死んでいる間に、西へ東への移動が完了した。

私のこのごろの夢は自家製ケチャップを作ることである。私は実をつけないお花がとても好きなのだが、なぜか今はトマトを育てたい、と強く思っている。

2014年3月3日月曜日

午前5時の停滞

明け方、携帯電話を触っていたら壁とベッドの隙間に落としてしまった。床に携帯電話が叩きつけられた音がして、面倒なことになった、と思った。手を差し入れてみたが、到底届かなかったうえに、どこに落ちているかもわからない状態だった。つりそうになるまで、ちからの限り手を伸ばしてみたがそれでも掴めなかった。仕方ないのでごそごそ起き上がりマットレスを動かしたところ、落ちている場所は確認できたが、絶対に自分のちからでは拾えない場所だということがわかっただけだった。すぐ拾えるところには、いつから落ちていたのかもわからないホッカイロの死骸があって、そのだらしない光景に絶望した。ホッカイロの死骸はこの冬に触ったもののうちで、もっとも虚しい冷たさだった。それから二秒考えて、柄の長いクイックルワイパー(床用)を洗面所から持ってきた。いつもは冷蔵庫の横にあるのだが、昨日冷蔵庫の横から洗面所まですいすい掃除してそのまま洗面台の横に放置したのだ。寝室の床に這いつくばり、クイックルワイパーの柄をベッドの下に差し入れ、携帯電話を引っ掛けてたぐり寄せた。うまくいって「よし」と思ったけれど、所詮クイックルワイパーでベッドの下を探るみにくい姿をさらしていることがその喜びを押しとどめた。何より時刻は午前五時であり、そんな時間にこんなことをするはめになった自分にうんざりしていた。クイックルワイパーはそのままベッドの下に放置した。私の部屋が散らかっているのは、ものを定位置に戻さないせいだ、と人に指摘されたことは今思い出した。

そんな一日の始まりで、朝から夕方まで雨は強くなる一方で、原宿で演劇も観たことだし、恋をしながら長く生きることについてたくさん考えた。この人はきっと女からこういうことを言われてきたに違いない、と思うようなことは、自分はその人のことが好きだと言っているに等しいので悔しい。ずいぶん愛してしまっていることを確認するより、それを忘れるためのセックスがこの世にあるといい。そのときはぜひ、私の想像力より私の身体を愛してほしい。

めがねのふちが黒くてくっきりした男には注意しなければならない。黒いふちは彼が世界から隔てられていることを装う証だが、その枷に負けて、中途半端なフェティシズムに拘泥する人はつまらないし、それを言葉にもできない人はもっといやだ。だいたい、黒いめがねのふちを受け止められるかどうかは、彼の輪郭がすでに物語っているものだし、黒縁に対して分不相応な人のことは、私は居酒屋に置き去りにして21時半くらいに帰る。

2014年3月2日日曜日

国道沿いは雨

ある映像作品を見ながら、気付かないうちに眠っていた。目が覚めたとき、作品はたぶん終わりに近づいていて、予想どおり、それほど時間が経たないうちに終わった。大半を見逃してしまったのだが、心地よく眠れたことがうれしくて、この時間に感謝しながら席を立った。息をしながらまるでコンクリートの壁に溶けてしまったみたいに意識をなくしていて、こんなに気持ちよく目が覚めたことも最近はなかった。早い時間にベッドに入っているのに口内炎がずっと治らないのは、本当には眠っていないからなのかもしれない。

何だって、泣けるうちはどうにか出来るのだ。そのうちわっと泣いてしまうんじゃない、と言われたことを思い出しながら電車に乗っていたけれど、今は泣けない。