2015年12月29日火曜日

しずかな気持ち

夢。病気の検診で病院に行ったのに、子どもがいますね、と医者は言った。私の腫瘍はどうなっているのか、あんなに大きい腫瘍があるのに子どもなんて産めるのか、つい最近も痛んでいたのに、とまず思った。特に「困った」とは思わなかった。10か月後に産まれてしまうから、いろいろ急がなければなあ、それにしても最近生理来たばっかりなのにどうしてかなあ、とは考えた。エコーの写真を見せてください、と医者に頼んで、プリントしたものをもらった。母や男や、いろんな人の顔を思い浮かべてから、誰にも言わずに一晩考えようと思って、しずかな気持ちで歩き出した。夢。

2015年12月23日水曜日

こわいもの

片手ですくうように抱けるほどの仔犬を見て、殺してしまったらどうしようと思う。あまりに可愛く小さいのが恐ろしい。もちろん、全然、ぜったい殺したくない。大切に大切に育てたい。でも、ああかわいい、と口にした途端、踏みつぶしたり蹴ったりしてしまいそうだ、という気持ちがすぐ後を追いかける波のようにやってくる。怖い、怖い、と思いながら抱く。くろくとがったうぶげ、しろくてやわらかい腹、その下にあるほそい骨、1分間に200回のみゃくはく、ぜんぶをゆだねるように甘えて跳びはねる、こいぬ。ごはんをあげようとすると、よろこびのあまり立ちあがってバランスをくずし、背中からのけぞってころぶ、こいぬ。

一緒にいても人は孤独なものさ、と言う人がいる。それを了解しあった者同士なら、もしかしたら一緒にいて孤独でもましなのかもしれない。これは例のあれなんだ、人は誰と一緒にいても寂しい時があって、今がその時なんだって、お互いわかることができるだろう。孤独なのが人の真理だとして、そういう孤独すら味わってほしくないほど愛していると、今わかったところでどうにもならない。

2015年12月22日火曜日

褥瘡

薬で眠った夜の翌朝は、しゃっくりが出る。頭を振って起き上がり、のど元で鳴るまぬけな音を聞く。口を濯いで顔をあらって、冷凍庫からチョコレートミントバーを取り出す頃には、もう止まっている。

早足で追いかける。どうして並んで歩くことができなくなったのか今もわからない。後ろ姿を追って泣く。幸せにできなくてごめんなさい、と思う。幸せに、なんて傲慢さを押し付けたいくらい、あなたのことを好きだった。私のせいで嫌な思いをしないでほしいと思っていた。私の体のほとんどがあなたを愛しているけど、私の心の、あなたと重ならないほんの少しの部分が、私の半身を腐らせる。大丈夫、ほんの少しのはずだから、と思っていたのだ。腐るのは私だけなんだから、とも。

2015年12月21日月曜日

言葉のセンス

昔は、嫌なことがあると自分で髪を切っていた。うしろがわの髪の束を、ほんの少し。あるいは、前髪をばっさり。痛くはない。寂しいだけ。吐くよりはまし、何も無駄にはならないから。愛する人が思うように愛してくれないのは昔から。

考えの痕跡を知りたいから、人の書いたものは何でも読む。中でも、好きな人の書いたプログラム設計書がいちばん好きだった。好きな人の書く文章を読むのは怖い。好きな人の文章を読みたくないから、プログラム設計書を書く人を好きになった。

恋愛体質と人は言うが、べつに依存しているわけでも中毒なのでもない。自分が決めた相手に、心も身体も全部ひらいて委ねることができるだけだ。逆上がりと同じで、できる人には何という事もないが、できない人には絶対できない。

2015年12月20日日曜日

夜の電話

こんな時間に電話かけてくるのは君だけよ、と言いながら久しぶりの煙草に火をつける。君の言葉に耳を傾け、世界でいちばんドラマティックな愛の告白があるとしたら、きっとこういうのではないかしら、と思う。

君からの電話は二度と取らない。僕のひそかな決意は伝わらない。そう決めた時には、君と話す機会は永遠に失われた後だから。君の人生の中で、僕はいつでも都合よく呼び出せるおまけみたいなものだった。おまけから無視されることがあるなんて、軽く見ていた男が自分を救ってくれなくなることがあるなんて、君はびっくりしたかもしれないね。まあ、君ももう僕を忘れているとは思うけど、君のことを執念深く覚えてる女がいるから、彼女には気をつけたほうがいいな。

本当に、重要な時は絶対に電話を取るからね。私を信じて、掛けてきて。

どんなに君が途方に暮れても、君と話すことはもうないよ。そのことはとても残念なことだし、大きな損失かもしれない。でも僕はもう何とも思ってないし、何も感じることがない。

2015年12月3日木曜日

メフィストフェレス

夜には悪魔がやってくる。うとうとして、ほんのわずかの合間にも。悪魔は、横断歩道の向こう、立ちすくんで声の出ない私を見捨てる。悪魔は私に隠しごとをして、ほかの女を家に泊める。悪魔は私の顔を見て、肌が黄色いから可愛くないと言う。思わず大きな声を上げて目を覚まし、こんなことがあった、とわあわあ泣くと、男は、それはぼくじゃないよ悪魔だよ、と言いながら私の背中をさすってくれて、そうか、そうか、悪魔なんだ、顔は似ているけれどこの人じゃないんだ、と思って今度こそ安心できたか、に、見えたけれど悪魔はきっとまた現れる。私の押し殺したコンプレックスと、嫉妬、衝動のぜんぶを引きずり出し、私を痛めつけるために。

2015年11月11日水曜日

家移り

いつも押し出されるようにして引っ越す。水が満ちてきてあふれるように、そこにいられなくなる繰り返しだ。心から好きな場所を選んで住み着くことが、これから先あるのだろうかとさえ思う。

今の家に越してきた頃のことを思い出す。あの頃からずっと私は眠れない生活で、朝になってやっとうつらうつらしていると、凄まじい工事の音が聴こえてきていたのを覚えている。マンションの廊下には張り紙がしてあって、階下の部屋で床の張替えをしているのを私は知っていた。でもこのマンションは新築で、どうして床の張替えなんかが生じるのかぜんぜんわからなかった。ドリルで穴を開けまわるような轟音が一日中響き、私を蝕んだ。家から逃げて、いろんな場所に避難した。体は重く、心も塞いでいてとても外に出たくなんかなかったのだけど、ドリル音に気が狂ってきたので、枕元に服を用意して、朝起きたらとにかく逃げることだけをがんばった。3か月の間に、階下の部屋に住む人は二度もそんな工事をした。気が狂っているのは私だけはなかったのだ。

狂人は他にもいて、昼間はずっと女の叫び声が聴こえていた。女は長く叫ぶ。何かに抵抗するとか、意思表示をしている感じはぜんぜんなくて、ただ長く長く、金切り声を上げて叫ぶ。それは同居人も聴いたので間違いないと思うが、同居人が休日にちらっと聴いただけなのに比べて、私は毎日毎日朝から叫び声とドリル音を聴いていたので、神経がすっかり参ってしまったのだった。

あの頃は、日の射さないこの部屋でとても暮らすことなどできないと思った。長い長い廊下を経て、マンションの外に出ないとその日の天気もわからないほど、奥まった部屋なのだ。毎日泣いていた。追いつめられて、川や線路を見るたびに飛び込みたいと言うので、同伴者は私を止めるのに苦労していた。 そういう二年間であった。

2015年11月9日月曜日

玄関

夏が来る前に死んだ大型犬が、玄関で私を待っていた。しっぽを振って、笑っているようだった。名前を呼び、撫でて抱きしめても大型犬は消えなかった。大型犬は変わらず、優しい子だった。小型犬もそばにいてくれた。二匹で私を励ましたり、慰めたり、近況を聞いてくれているのだった。目が覚めてから嬉しくて、でも目が覚めたことは悲しくて、ソファで少し呼吸を整えた。ほとんど眠れなかったので頭は朦朧としていた。

次に眠ると、嘘をつかれたり隠し事をされたり、その嘘を他人から教えられたりする夢を見た。


2015年11月1日日曜日

もう死んだものたちのこと

薬を飲むと、幻覚を見たり変な言葉を話したりしてしまって、隣にねむる人を困惑させたりひどく不安にさせてしまう。彼が私より遅く起きていたりせずに、薬の効きはじめた私を覚醒させたりしないで(つまり話しかけたりしないで)どこか遠いソファとかでねむってくれさえすればいいのだ。では君より先に寝ているのはどうか、と訊ねる人があるかもしれないが、神経質な時の私は、他人のすこやかな寝息も耳障りに感じるのでいやだ。

今朝は、6月に死んでしまった大型犬に夢の中で会えた。階段の下、はるか遠くに犬はいて、目を赤く光らせていた。もう少し降りると崖だ、あぶない、と思って私は犬を助けるために階段を駆け下りた。骨組みだけの、下の景色が透けるおそろしい階段だったが、犬のためなら何も怖くなかった。ぎりぎりのところで私は犬をつかまえたが、そのとたんに犬は手の中でくだものになってしまった。

夢には祖母もいた。このところ、もう死んだ人のことばかり頭に浮かぶ。私の夢の祖母は、いつも無言で強い警告を発するように不穏な存在感を放つ。目を覚ましてから思い返しても、しみじみ、あれは人ではない、と思って畏れを抱く。実際には、お願い事があると大好きなチョコレートを断って願掛けしたり、アイスクリームに目がなかったり、バッグにいつも森永ハイソフトキャラメルを入れていたり、庭のすずめにお米をまいたり、来客にケーキを欠かさない祖母だったというのに。

電車の中で、死んだ大伯父の、節くれだった指のことを思い出していた。彼は祖母の兄で、2年前に亡くなった。兄妹というのは、手の形がよく似ているもので、大伯父の手をにぎりしめながらいつも私は、祖母みたい、と喜んでいたのだった。どうして、大伯父のことを一度も抱きしめないまま死なれてしまったのか、思い出すたびに今も寂しい。

2015年10月16日金曜日

隣の犬

深夜に、隣の部屋で犬が鳴く。私は犬が好きなので、犬が鳴くのは嫌ではないけれど、どうして夜中に鳴くことになるのか、心配だな、とは思う。

やはり今日も君の夢を見た。君は犬を連れていた。わたしは自転車を引いて、二人で狭い路地の坂をのぼっていた。ところがのぼりきるところで、君は犬を手放して降りて行こうとする。犬はこちらに寄って来る。わたしは坂をくだる君を連れ戻しに行く。

目がつぶれるほど泣いている最中に、来週乗る予定の飛行機について電話をもらい、鼻をぐすぐす言わせながら、承知しました、かしこまりました、と言い続けたが、電話を切った時には内容を忘れてしまっていた。

向こう一年は、誰とも楽しい気持ちで会いたくない、と思う夜である。

2015年9月8日火曜日

ある日(危なさについて)

座禅は終わったけれど、ラジオ体操は8月31日までやるのだった。気がかりだったけれど、さすがに起きられなかった。6時ごろ目をさました時には雨の音がしていて、まあ、雨の吹き込まないところで体操はやるかもしれないけど、ちょっと行かれないな、と思って最後の最後で怠けてしまった。8時過ぎ、やっと起きだして雨の中自転車をこぎ、最後の地蔵湯。
Fが先に戻り、私は商店街でみやげものを見てからアートセンターに戻った。すると中から、フォトスタジオの三姉妹の声がする! あわててアートセンター入口に自転車を乗り捨て(その後、館長がしまってくださる)、駆けこむ。三姉妹が、夏休み最後の今日、水族館に行くことは昨夜聞いていたが、その前に私たちを見送るために立ち寄ってくれたのだった。三姉妹の母からは手ぬぐいを、次女と三女からはお手紙をもらった。忘れられてもいいなんて言ったって、涙が出るほど嬉しい。みんなで記念写真を撮って、今度こそ本当にお別れした。
『演劇クエスト』は「誰にでも人生があって、それがおもしろい」ということを表現したいのではない。ひとの人生から物語を見出して、無理にはぎ合わせたりもしない。誰もが劇的な人生を生きなくてもいいのだし、リアルな人生と、練られたフィクションの価値を比べようなんて思わない。私たちは人々とただ出会うために町を歩いていたのではなく、出会った人たちの目に映る「日常」というフレームを、揺るがすための言葉を探していたのだ。
「城崎の女性たちはアートを必要としている。町おこしや過疎対策のためではない、日々の自分の暮らしをみずみずしく変容させるものを、心から求めている。」と、私はこの城崎日記の中でかつて書いた。その気持ちは変わらないし、忙しさに心が渇いて寂しげな女性たちはどの町にもいる。しかし忘れることなかれ。芸術とは、いつでもあなたの生活をすくって転覆させる可能性をもつ、危険なものなのだ。ただ楽しい時間をもたらすのではなく、身を滅ぼす場所にあなたを招き入れることだってある。杉田久女が夫との不和をかえりみず俳句に打ち込み、最期は狂って死んだこと、金子みすゞが創作を禁じられ、子と引き離された果てに服毒自殺したこと、瀬戸内晴美が子を捨てて同志と決めた男のもとに逃げ、文学にその身を捧げたことなどは、本当にあなたに関係のないことだろうか? ひとりの時間を持って芸術に耽溺することの真の怖さ、そうしなくては生きられない人間の業の深さを、覗きこむ勇気があなたにあるか?
芸術は、現実逃避のためのしろものではない。かぎりなく、現実と地続きにあるものだ。その恐ろしさ、そして何にも代えがたい安心感。私たちはそういう本を書くために城崎に来て、とどまり、そして去ったのである。

2015年9月7日月曜日

ある日(バス、たこ焼き)

とにかく早起きして、駅前のバス停を目指す。ガイドのおばさんからきっぷ、バスのパンフレットなどをもらって、夏の土日しか運行していない、周遊バスに乗る。まず到着したのは水族館だが、朝が早すぎたので海を見ながら開園を20分ほど待つ。先日のHO氏のレクチャーによれば、高度経済成長を遂げているうちは、人は動物園をこのむが、ひとたび経済が落ち着いて、停滞を始めると今度は水族館にあつまるようになると言う。体重300kgのトドがプールにダイブするショー、アシカやイルカがジャンプしたり水上を華麗に舞うショーなどを見る。今度、横浜で作品をつくる時には八景島シーパラダイスも入れようと誓う。

周遊バスで、昼前に竹野の海のそばまで辿りつく。心残りだった場所をあらかた探索してまわり、町中にある記念館のご主人に母屋を案内していただいたりする。漁村の静けさは、農村の静けさとは種類が異なる。漁村がにぎやかなのは、沖から船が帰ってきたり、競りにくる業者が出入りするためで、つまり移動が生じるがゆえのにぎやかさである。だから漁村が静かな時は、海も波ひとつ立たず、しんとしている。農村だと、風がいつも稲を揺らしたりするので、人がいなくても何となく目に音を感じる。

竹野海水浴場から香住への道で、平家の落人が流れついた場所で、今も人が住む小さな集落を見る。平氏が滅びたのは1185年。始めのうちは、落ち延びて隠れ住んでいたのだからここから出られなかったのも、わかる。でももう830年も経っているのに、と思う。なぜ人は根を張った場所から動かなくなるのだろう。この周遊バスの走る道路が開通したのは、ここ数十年とのことだった。でも。いろんな疑問が頭をめぐる。人が、居場所から移動するのはかんたんではないのだ。そのことに疑問を抱く、私のような人間があつまって暮らすために、都市というものはできたのかもしれない。

バスで鉄橋のある町まで行き、電車に乗り換えて城崎まで帰った。帰った、という言葉がこの町に対して自然と胸にきざしたのは、いつだっただろう。こんなにもすぐ、人は居場所に根を張ろうとしてしまう。温泉のあとになじみの酒屋にゆき、ビールを買って飲む。Fと滞在制作を振りかえって話す。日記には書けないほど悩んだことも困ったこともあったし、未だにわだかまりもあるところにはある、と、いつわらざる気持ちをこぼしかけたところで、車に乗ったグルーニカさんの夫が通りかかった。そう、この町にはこうして、すれちがって声をかけてくれる友人がたくさん出来たのだった。もう会えないかと思っていた山頂のお寺のお坊さんも、車で通りかかり、窓をあけて話しかけてくださった。今はこのことだけで、手を携えて作品をつくる気持ちをじゅうぶん持つことができる。あとは移動しながら、走りながら、考えるのだ。アートセンターまでの帰り道に古美術屋に寄り、少女Aに再び会い、お父さんにこの町にまつわる資料のコピーをいただいた。Fをこの店に連れてくることができてよかった。

Fと私の送別会を、町の方がしてくださることになった。フォトスタジオの三姉妹が、母と台車を押して現れた。三女と一緒に台車に乗せられていたのは、たこやき器と、その材料であった。私は、たこやきをつくったことがない。それどころかお祭りで買ったものしか食べたことがないので、これが「家庭用たこやき器」か! と、しみじみ見入った。三姉妹の母はてきぱきと粉と水、紅しょうがなどを混ぜて下地をつくり、中に入れるたこやソーセージを手際よく小皿に並べていった。教えてもらいながら、はじめて私もたこやきを焼いた。鉄板に、丸のかたちのくぼみがいくつも並んだたこやき器に、盛大に溢れさせながら生地を流しこむ。ふつふつと固まってきたら、竹串でひょいひょいと生地を等分し、端を折りこむように丸めてひっくり返していく。この動作は、私の体の中に蓄積のないものであり、きわめてぎこちないものになってしまった。

関西の女たちは、たこやきをくるくる焼きながら、面と向かって言い合うには少し苦しい愚痴や、話しづらいことを打ち明けあうのだと言う。三姉妹の母と、少女たちの遊ぶ声を聞きながら、子を持つことについて話をした。私はやはり、子を産みたい気持ちを抑えがたく持っている。そのことが、城崎に来てよくわかった。三姉妹の母は、たこやきをひっくり返す手を止めず、しかし静かに話し始めた。「自分のおなかから産まれた子でも、当たり前に他人で」「こないだ産んだと思ったのに、ホントにあっという間に大きくなっちゃって」「高校卒業したら、この町からもきっと出ていく時が来るでしょう」「いちばん上の子がもう9歳で……。そうなるとね、半分過ぎちゃったんだよね、18歳まで」それを聞いて私ははっとして、エントランスホールで笑い声をあげている長女の姿を、見やった。母と子の間を結び、やがてすうっと消えてゆく糸が、見えたような気がした。

子どもたちは、Fの大きな体にまとわりつくようにして、遊んでもらっていた。エントランスホールでいつも以上に楽しそうにはしゃぐ子どもたちの声が、食堂にまで響いていた。必要以上に子どもを興奮させたり図に乗らせることを好まない男であるが、たぶんFも、今宵かぎりは、と思って遊ばせていたのだと思う。隙を見てFのiPhoneを動画モードにして、次女に「彼に向けてなにか言って」と頼んでみると、 しばらくはにかんで「ええー」と笑っていたが、最後にひとことだけ「きのさき、きてね」とメッセージを残してくれた。(Fはあとでそれを見つけて「泣ける」と言っていた)

パーティが終わり、われわれ大人たちが連れ立って鴻の湯に向かう頃、三姉妹の長女と次女は一足さきに、竜巻のごとく、家に帰ってしまった。三姉妹の母と、まだ小さい三女を家まで送りながら、明日はもう午前中に発つので会えないかもしれませんね、とあいさつを交わした。フォトスタジオに着くと、玄関先に次女がほんの少し姿を見せて手を振ってくれたが、長女は奥にもう引っ込んでしまっていた。

子どもたちよ、私たちのことを、忘れてもよいのだ。やがて心も体も成長し、はるか彼方へ飛びさるきみたちのことは、母や父やアートセンタースタッフや町の人、私やFが覚えている。それが大人の役目である。9歳や7歳の夏に出会った風変わりな大人のことなんて、覚えていなくていい。2015年の8月、盆踊りの夜に初めて会ってから今日まで、私はとても楽しかった。毎日日記をつけていた。今、城崎の地で育ちつつある芸術の芽は、いつかきみの胸の中にも種を飛ばすかもしれないし、それがきみの人生を左右する大きな花になりうるかもしれない。そんな日が来て困ったらいつでも頼りにしてねって伝えたいけど、たとえそんな日が来ないまま会えなくなっても、私はあなたのことを覚えておくと約束するよ。

2015年9月2日水曜日

ある日(出石、食卓)

館長の車で、出石にある永楽館という芝居小屋を見に行く。関西最古の芝居小屋とのこと。小屋の中のあまりのすばらしさに、城崎に来てからいちばんというほど顔がにやけてしまい、ついには頬が痛くなるほど、夢中になって見て回った。ひとりの芝居好きの人間が歴史を変えてきた例をまたも目撃できた嬉しさでいっぱいになる。しびれるほどの劇場の魔法。

コウノトリをまだ見ていない、というFの一言で、コウノトリの郷公園にも連れていっていただく。羽をちょっと切られて飼われているコウノトリ(羽が伸びたら飛んでいけるとのこと)に餌をやる時刻、空からゆうゆうと、野生のコウノトリが舞い降りてきた。聞きしにまさる、グライダーのような姿だった。白く、赤く、黒く、大きく、美しい。公園の入口にあった記念碑には、何かの折にここを訪れた皇族の方の和歌が刻まれていた。いろんなことを平等に讃えたり願ったりする、品行方正な歌だった。

城崎の町に戻り、お魚屋さんの奥さんにコーヒーショップで会ってから、Fと文学館に行った。私は二度目だが、Fは温泉ばかり入っていたので未だに文学館を訪れたことがなかった。さまざまな展示がある中で、城崎を訪れた文人たちの俳句や和歌、小説の抜粋などを見る。
しほらしよ山わけ衣春雨に 雫も花も匂ふたもとは  吉田兼好
浜坂の遠き砂丘の中にして 侘しき我を見出でつるかな  有島武郎
日没を円山川に見てもなほ 夜明けめきたり城の崎くれば  与謝野晶子
先ほどの皇族の人の歌に比べると、私欲や美意識が優先されているのが良い。

文学館を出て、お蕎麦屋さんの奥さんのところへ行く。こちらも取材。娘さんふたりも同席。3歳の少女の話は、脈絡も結論もないのがたいへんおもしろい。方言のにじむ語尾が愛らしい。

雨足がだんだん強まる。夕食はアンナさん&グルーニカさん姉妹にお呼ばれ。グルーニカさんの旦那さまであるD氏、1歳の娘さんも一緒に食卓をかこむ。旅人を食卓に招き、明るくもてなしてこの町の物語を語ってくれる姉妹の温かさは、今思い出しても身に余るしあわせである。

2015年9月1日火曜日

ある日(座禅、レクチャー)

夏休み座禅の会、最後の朝である。三日前から始めて今日が最後だし、座禅は寺でおこなうし、これを本当の三日坊主と言う。座禅ではいつも何をしているかというと、まずみんなで般若心経の読経。そこから5〜10分ほど座禅をして心を落ち着けて、ご住職の子ども向けのお話。そしてしりとりや、リレーでお話をつくる遊び、九九の暗唱などをして朝8時に終わり。
 
フォトスタジオの次女が小さなリュックをしょってこちらに近づいてきて「お風呂の用意もってきた」とこっそり言う。いつも座禅を終えて朝風呂に向かうFと私をうらやましく思っていたらしく、「明日はいっしょに行く」と昨日言っていたのだった。というわけで、長女と次女を連れて鴻の湯。女の子をふたり、ほんの一瞬、神さまから預かっているような不思議な心持ち。

アートセンターで一休みしてから、ランチに出かける。をり鶴で、上海鮮丼という贅沢をこころみる。錦糸卵、糸のように細切りの大葉が乗った甘海老など、見目よい素晴らしいお食事をいただいた。Fが昼寝に帰ったので、私はひとりで駅向こうのコンビニまで振込の用にゆき、スーパーで買い物したのち、さっと一の湯に寄る。アートセンターに戻り、冷蔵庫に肉などの生ものをしまってから、近所の古美術屋へ。

古美術屋は、座禅会で知り合った少女Aの家である。少女Aは数日前、店で扱っているアクセサリーの中からおすすめの品物について話してくれた。「ぜひ来てください」と控えめに締めくくられた彼女の話がずっと気になっていて、訪れたいと思っていたのだ。店先に彼女の祖母がいらして、私が名乗るとすぐ少女Aを呼んできてくれた。店には、茶道具や掛け軸のほかに、トルコの伝統的な編み方でつくられた飾り紐のアクセサリーがたくさん並べてある。その中から、少女Aのお気に入りのものを教えてもらっていると、彼女の父、すなわち店主が現れた。なんと店主は横浜で仕事をしていたことがおありで、私たちの作品づくりの活動にも、とても興味を持ってくださった。話しながらトルコのアクセサリーをいろいろ選ばせてもらい、花のかたちのピアスをひとつ買った。少女Aはとてもおとなしく、静かな子だけれど、私がその場でピアスをつけて「どう?」と見せると、嬉しそうににこにこしてくれた。でも彼女自身は、こわいからピアスはしたくない、とのこと。

夜は、アートセンターでFによる現代演劇のレクチャー。2時間足らずでは話しきれないことも多くあるが、ある切り口を定め、覚悟をもって語られたレクチャーと思った。フォトスタジオの三姉妹たちも、両親と一緒に来ていた。9歳の長女は、ああ見えてFが人前で話すのをかなり楽しみにしており、昼間からずっと「ちゃんと話せるのかなあ、大丈夫かなあ」と言っていたらしかった。レクチャーが始まる前についとFのもとに寄ってきて「むずかしい顔してむずかしいこと言わないでよね」と言っているのが聞こえた。その横で次女は無邪気に「おうち帰ったら、ぽんぽこ見るの」と笑っていた。今宵は夏休み最後の金曜日。子どもたちのお楽しみであるジブリ映画の放映が、夜9時からあるのだった。

レクチャーを終えての長女の感想は「むずかしくない顔してむずかしいこと言ってた……」というものだった。冷戦構造の終わりだの、ロストジェネレーションだの、彼女にはまだわからないことも多いだろう。しかし重要なのは、自分といつも遊んでくれるFが、大人向けに語ったレクチャーを、1時間以上も、とりあえずは聴いたという事実のほうだ。

子どもたちがテレビを見に帰ったあと、レクチャーを聴きに来てくれた町の方々と、アートセンター食堂で飲む。なじんだ顔ぶれが多くいて、私もめずらしく、力を込めて演劇について話したりしてしまった。ひとりの僧が、このようなことを言った。
「アートセンターが町にできる時、私は全面的に賛成した。しかし、アーティストなら誰でも歓迎という意味ではない。たとえば壁に人糞を塗ったものを『これはアートだ』と言う人が来るのは困る」
人糞は極端な例であるものの、地域と芸術の不安な関係をぐっと突いた言葉であると、感じた。美しいものだけが芸術ではない。だけど、奇抜で汚くて混沌としたものだけが芸術でもない。たえまない対話と、理解をうながす翻訳的な交流がなければ、芸術は人の心に根を張れない。先日のレクチャーの中で、HO氏が残した言葉がある。
「現代芸術は、わからなくても、いいんです」
それは、どうせ考えてもわからないからわからなくていいという意味ではない。わかろうとし続ける、作り手と鑑賞者の、相互の思いがあるという前提において、芸術とはわからなくてもいいものでいられるのだ。

2015年8月30日日曜日

ある日(砂丘)

砂丘へ行くと決めていた。準備をして列車に乗り込んだ。斜め前の席では、さぞかし鉄道が好きなんだろうな、という風貌の男が時刻表を読んでいた。彼は早めに弁当を食べてコンディションを整え、くつろいでいた。そして眺めのいい鉄橋がある駅で停車のわずかな時間にホームに降り、一眼レフのシャッターを切っていた。私も真似して、ホームに片足だけ降りてみて、携帯電話で写真を撮った。

鳥取に着いて、そこらじゅうにあふれる、ちびっこ名探偵の人気漫画ポスターを横目にバスに乗った。バスには夏休みの子どもたちがまだ多く乗っていて、ひとりの翁がにこにこと彼らに話しかけていた。「何歳?」と子どもから訊かれた翁は「二十歳だよ」と答えたりして、子どもを混乱に陥れていた。ごくごく小さな子には、二十歳も八十歳も、自分の想像をはるかに超える年齢という点では同じである。

砂丘の入口に「砂に落書きをしないでください」などという注意書きがあって、そのひとつに「砂を持ち帰らないでください」というものがあった。ショベルカーなんかでお持ち帰りされたら困るし、砂丘にとって砂は大切なものだから(というか、不可欠)持ち出しの禁止はなんら不当ではないな、と考えていたところに、初老の男が家族連れでやってきて、その表記に怒り始めた。「なんだよこれは、砂くらいご自由にお持ち帰りくださいって書けよ、気分わりいなあ、なんで砂取っちゃいけねえんだよ」と家族の前で延々と言っている。所有する権利を否定されただけなのにここまで怒るなんて、強欲だ。みずからの所有物やなわばりが侵されることに過剰な拒否反応を示す人間こそが田舎者である。

巨大な砂丘は、馬のたてがみが流れるさまに似ている。馬が伏せ、顔を地にうずめたその背中に、登ってみた。サンダルではなく、日を浴びた砂の温度にも耐えるスニーカーを履いてきて正解だった。みんな家族や友だち、恋人といて、日傘をさしながらひとり黙々と砂山をのぼっているのは私だけだった。私の前を歩いていた中学生の少女が振り返ってカメラを構え、あとから来る両親、妹、弟の写真を撮った。「撮るよー、こっち向いてー」と言う少女の言葉に、家族は立ち止まって肩を寄せあった。ついそれを見てしまって、ああ、私はひとりでこんなところまで来てしまって、二度と家族といっしょにあんなふうに写真に収まることは、できないのかもしれないと思った。

城崎に来てから、猪苗代湖のことをよく思い出す。子どものころ、よく行った湖である。私は海と川にほとんど行かずに育った。原風景として心の中にある水辺、それはいつでも湖だ。だから、大きな海を、流れる川を見ると、なんて遠いところに来てしまったんだろうと思って帰りたくなる。どこに帰ったらいいのかわからないのに、ただ帰りたいとだけ思うのだ。馬のたてがみのような巨大な砂山のてっぺんにたどりつき、荒ぶる群青の日本海をはるか下にのぞみながら、いったいどうしたらいいのか途方に暮れた。日を遮るものが何一つない砂丘の上で、北国の湖のことをひたすら考えていた。ずいぶん長くそうしていた。

帰りの山陰本線の中で、日がどんどん暮れていくのを味わった。知らない町で、夜を迎えるのはとても寂しい。飛び去るように過ぎてゆく景色を眺めながら、この町に隠れ住んだら、きっと誰にも見つからずに別人になってしまうのではないかと怖くなった。もう私には何の重しもなくて、砂丘の砂みたいに、ただ風に吹かれて風紋をつくるような生き方しかないのかもしれないと思いつめたところで、列車は城崎温泉駅に到着した。

ある日(こども園)

5歳の少女と交わした約束は重い。その一心で、7時に中学校昇降口でおこなわれるラジオ体操に行った。少女と目が合って、手を振りあった。ラジオ体操第二を、見よう見まねで初めてやった。体をほぐす画期的な動きがいくつか含まれていて、蒙が啓かれる思いだった。そのあと、寺での子ども座禅会にも付いていった。Fはすでに子どもたちと顔見知りで、何だか人気があった。

アートセンターは、大きな貸し館案件が入っていて騒がしかった。今日明日と使用されるらしい。ここが、大会議館と呼ばれていたころから毎年行われている泊まりがけの集まりとのこと。駐車場を整理している人々の中に、見知った若旦那を何人もみつける。旅館組合で、宿泊と運営の対応にあたっているそうだ。荷物だけ置いて、滞在初日に私を駅からアートセンターまで送ってくださった旅館のご主人、H氏を訪ねてお話を訊きにいく。昔の町並みのこと、H氏が城崎に戻ってきた1995年という時代のこと、城崎独特の "世代" の感覚についてなど。

すっかりH氏の旅館に長居してしまい、急いで座禅会をしている寺のそばの、こども園に向かう。座禅会のごほうび会として、そこで子どもたちがピザづくりをしているので混ざる。園長である寺の副住職は、機械に強く、行動力がある。ピザを焼くための石釜は、園庭の隅に副住職がレンガを積んでつくったものである、というのは、町の人から聞いてすでに知っていた。Fは一週間くらいもう座禅に通っていたからいいけど、私は今朝、たった一回しか行っていないのにお邪魔していいのかな、と思った。しかし、次の瞬間にはこども園のぞうぐみの部屋の床に座り、子どもたちと生地をこねて具を選んでは乗せていた。この町では、ためらうよりも先に、人々が受け入れてくれるのだ。園長へのごあいさつは、ごうごうと燃える石釜の前でおこなった。「アートセンターに滞在しているものです。よろしくお願いします。あの、これ、私のピザです」「どうもどうも。ピザ、ここに乗せちゃってください」「はい」という感じで、園長にピザを焼いてもらった。

フォトスタジオの長女が、盆に乗せて焼けたピザを次々にぞうぐみまで運んでゆく。子どもたちの母や父もいて、私に缶ビールを分けてくれた。こども園で、幼児向けサイズの低い木の椅子に腰かけてビールを飲んだ。ご住職もあらわれ、旦那衆、お嫁さんたちが男女のグループにわかれておしゃべりしている中で、私は子どもたちと大いに遊んだ。手をつないで走ったり、でんぐり返しを手伝ったり、絵本を読んであげたりなど。男の子は、楽しくなると熱くなって図に乗り、制御不能になるなあと思った。人見知りの女の子が、私に抱っこされるのを嫌がらなかったのがいちばん嬉しかった。フォトスタジオの三姉妹と、明日もラジオ体操で会う約束をして、帰った。

2015年8月28日金曜日

ある日(台風)

今日もFは律儀にラジオ体操と座禅に行った。フォトスタジオの次女がとうとう、私は来ないのかとFに10回も訊ねたというので、明日は行かねばなるまいと決意する。

台風の来そうな気配。昼前にFとフォトスタジオに行く。先客がいらした。旅館の若女将と、その娘さん(5)。子どもたちが2階で遊んでいるすきに、店舗併設のカフェスペースで紅茶とチーズケーキをいただきながら若女将と少しお話しする。

城崎の女性たちはアートを必要としている。町おこしや過疎対策のためではない、日々の自分の暮らしをみずみずしく変容させるものを、心から求めている。芸術にはそれができると私は知っている。だけど、さまざまな要因が彼女たちを芸術から遠ざけている。私は城崎にいて、今それがいちばん苦しい。

Fは町中まで用があってどうしても行くと言う。私も同行する予定を立てていたが、あまりに雨風が強いのであきらめてカフェで待つことにした。子どもたちは強風の中しゃぼん玉をつくっていた。Fが帰ってくるまで、子どもたちとタブレットで動画撮影をして遊んだ。別れ際、「明日ラジオ体操来る?」と次女に訊かれて「うん、行くよ」と言わないわけにはいかなかった。この世に生まれてまだ5年しか経っていない、つぶらかなあの瞳を裏切ることは、誰だってできない。

ある日(レクチャー、花火)

フォトスタジオの三姉妹と指切りをしたために、Fは毎朝ラジオ体操を第一、第二までこなしたのち、極楽寺の子供座禅に参加してアートセンターに戻ってくる。次女(7)が、私は来ないのかと、毎朝Fに訊ねているらしい。

駅前のカフェにはすっかり通いつめている。代々城崎で暮らす、この店の姉妹に助けていただくことは大変多い。児童書のクレヨン王国シリーズに登場するレストラン「サザンクロス」のアンナとグルーニカ姉妹を思い出す。長々とお茶をしてから柳湯に行き、すっかり体の力が抜けた感じで自転車に乗ってアートセンターに帰る。

アートセンターで、早めの夕食の準備をしていると、芸術監督HO氏が登場した。私がHO氏を始めて知ったのは、子供の頃にやっていた土曜夜のニュース番組「ブロードキャスター」のコメンテーターとしてである。カタカナの名前が子供心に不思議だったし、男だろうけど女の人にも見える気がしたし、劇作家っていう職業も謎だし、HO氏はとにかく子供の私にとって印象深い人物だった。そのHO氏が今、私の真横で、アートセンターの面々と打合せもかねて食事をしていた。特に急いで箸を口に運んでいるわけでもないのに、いつのまにか食べ物が消え、皿が空になっていくのが不思議だった。速すぎて逆に止まって見える、みたいなことかもしれないと思った。

『光速・日本近代演劇史』講義は、最前列にすわって、聞き漏らすことなく学んだ。HO氏の話す速度は光のように、早く、狂いがなく、質疑応答の時間に至るまでタイムマネジメントは完璧だった。

今夜は、毎晩打ち上がっていた花火の最後の日。灯籠流しもおこなわれる。講義が終わったのが20:40頃だったので、すぐに自転車でアートセンターを飛び出した。浴衣の人々を追い越して、大谿川をめざす。一の湯に自転車を置いて、川下のほうまで歩いてゆく途中でアンナ・グルーニカ姉妹の姿を見つけた。川のない町にしか暮らしたことのない私は、灯籠流しが珍しい。ほとんどはもう川下の網にかかって回収されようとしているところだったけれど、もっと時間があったら、ゆっくり立ち止まって、水面をすべるたくさんの灯籠のひとつひとつを眺めたかった。やわらかい灯籠のあかりは、晩夏のさみしさをかき立てるようでもあり、なぐさめてくれるようでもある。

姉妹と別れ、Fとふたりで川下からさらに踏切を越えたところにある屋外のバーに向かった。ここからは、花火がよく見えるのだ。HO氏も何人かの人と一緒にバーに現れた。たこ焼き、ビール、野性的などぶろくなどで皆で2時間ほども話した。HO氏の言葉はこれまでも書物、雑誌などで見聞きしているが、彼が理論立てて、「どうして芸術が社会に必要なのか」とか「芸術はどのように意義深いのか」というように 「芸術のちから」を語る時が、私はいちばん感動する。

2015年8月26日水曜日

ある日(写真)

朝、フォトスタジオの奥さんからメールをもらう。店舗に併設のカフェが、本日は営業しているとのことなので伺う。ここの長女(9)はFに懐いている。私が先にカフェに着くと、Fは来ないのかと、まっさきに訊ねてきた。城崎の子供たちはまったく人見知りをしない。お話をつくって遊ぶのが好きな長女は、物を書いて暮らしているらしい大人の男を、珍しく思いながら慕っている。その様子がかわいくて、つい応援するような気持ちで見てしまう。その長女が、子供のころ生まれる前の記憶を持っていた、というような話を聞きながら、自家製梅ジュースをいただく。日替わりおやつは、グレープフルーツのくりぬきゼリーで、長女と次女が揃って「お母さんのゼリーすごいよ。ほんとのグレープフルーツみたいだよ。見る?見てみる?」 と嬉しそうに教えてくれるので、一切れ注文した。ゼリーをすくって食べているところに、遅れてFが来たので、子供たちはいっそうはしゃいだ。

13時半の列車に乗って一時帰京。東京にいる間に演劇を4本観る。2日後の22時過ぎに城崎温泉駅に到着。Fは私のいない間、山の上の寺のバーベキューにお呼ばれしたり、老舗旅館を見学したり、京都に演劇を観に行ったり、古い城跡に登ったりしていて、執筆は全然しなかった(やや誇張あり) 。

2015年8月23日日曜日

ある日(一番札、野球)

Fと朝から桃島地区に行く。田の水を流しに来た翁と話し込む。道路幅拡張の話、水害対策の話など。また会えるだろうか。田に張り巡らされた電気柵の近くまで、初めて行く。子供がこのあたりを歩いたら危険ではないだろうか。不安に思ってしまうのは、私がいかに農業を知らないかという証にも思える。(調べたら、よほど心臓が弱くないかぎり、びりっとして驚くくらいで、死にはしないとのこと)

ランチは寿司屋。高校野球の準決勝。第一試合は7対0の大差で終わった。私とFが寿司を食べていると第二試合が始まって、1回裏であっという間に点がたくさん入った。ご主人も、観光客も、私たちもみんなテレビを観ていた。高校野球が人の感動を誘うのは、若さのためだけではないと思う。一度負けたら終わり。その一回の勝負が人を引きつけ、酔わせる。若い選手であるというだけで眩しいのに、彼らのこの戦いが一度きりだなんて! でも、私が感動を分析するのは、そういう感動の消費から逃れるためでもある。

思いたって、前から並びたいと思っていた、外湯の「一番札」に並んだ。7つの外湯のうち、7時に開くものが4つ、13時が1つ、15時が2つある。そのうち15時に開く柳湯の、一番乗りの客をめざしたのである。お盆のあいだは、2時間も前から並んでいる人がいたりして、手が出なかった。今日なら如何、ということで14時10分にひとりで駅前のカフェを出て、向かってみた。Fはまだカフェに残って執筆していた。一番札という目標ができると、柳湯方面に向かって歩く人間のすべてが柳湯をめざしているように見える。小走りにたどりつくと、まだ誰もいなかった。入口の引き戸の前に陣取る。時折、足湯に浸かりにくる親子連れやカップルがいるけれども、彼らは家族や恋人を置いてまで一番札に並ぶことはないので警戒に値しない。問題は、ひとりでふらふら現れる、見巧者ならぬ湯巧者である。できれば、Fが来るまで待って、ふたりで男湯と女湯の札を制覇したい。私のひそかな野望もむなしく、頭に手ぬぐいをまき、アロハシャツを着たパンクな男が自転車で現れた。こなれた手ぬぐいのまき方。観光客の衣装とも言うべき浴衣ではなく、通気性のよいアロハシャツ。そして単独行動に便利な自転車。完全なる、温泉街の猛者の姿だった。Fも柳湯をめざしてカフェを出たと連絡をよこしてきたが、すでに猛者が男湯に並ぼうとしていた。しかし……! 男は看板の営業時間を確かめると「なんだ、15時からか。あと10分もあるじゃねえか」と捨て台詞を吐き、「じゃあ一の湯行くか」と自転車で走り去ったのである。湯へのこだわりがなく、一刻も早く浸かれることを重視するタイプの猛者であったため助かった。ほどなくしてFが柳湯に到着し、無事に男湯一番乗りの座を手中におさめた。Fが並んで数十秒後には次の客が来たので、危ないところだった。手にした一番札は、木で出来た絵馬のような形をしていて、こんなにも嬉しいものかと思った。

Fは、おなかがすいて観劇に集中できないという状態を恐れるたちである。朝、ミートソースを煮込んでおいたので、夕方アートセンターに戻ってからスパゲティを茹でて食べた。ほどなくして「God Bless Baseball」のショーイング。東京、神戸、城崎から集まった観客たちが、浮遊する言語とポーズ、アイデンティティに翻弄されていた。本番を観た8歳の少年が終演後に「おもしろかった。満足しました!」と出演者のN嬢に直接伝えてきたという話を、あとで鴻の湯の脱衣所でN嬢から聞いた。そんなふうに彼女と外湯で会えるのも、今夜限りだった。

人の大勢いた打ち上げは深夜まで続き、さらに客人が皆帰って夜が更けたあとは、観光人俳優Y氏から寄せられた「日本語における『きれい』『美しい』の違い」というテーマを大いに議論したりして過ごした。

2015年8月19日水曜日

ある日(テロ、バッタ)

タイのバンコクで爆発が起きたとのニュース。重体の邦人は31歳。1983年生まれ。そういう共通項がないと近しく感じられないのか。決してそうではない、でも、と悩みながら不安定な気持ちのままとにかくアートセンターを出る。大学を卒業したあと会社づとめをして、今はそれをやめて城崎で活動している私と、会社員を続けてバンコクに駐在していた彼の、辿った道すじのことを考える。可能性としては何も違わない。人ごとでない。じゃあ人ごとだったら考えなくていいのか、そうじゃない、でも。

昨日、自転車のかごに止まっていたバッタが、朝までそのままだったので仰天した。この自転車は昨夜、Fが海沿いの居酒屋で深酒し、ともに呑んだ僧侶に車で送っていただいた際に(僧侶はノンアルコール)後部座席に積みこんで運ばれてきたにもかかわらず、である。さすがに、今日も町内を連れ回すのはかわいそうに思い、枝に移してアートセンター前のしげみに放した。

をり鶴というお寿司屋さんでランチの心づもりが休日だったので、喫茶スコーピオのカレーに。私はアートセンターに戻り、食堂で仕事。

大ホールでの稽古を終えた『God Bless Baseball』の座組が食堂にやってきたので、某媒体のインタビューをそのまま始める。城崎に来てから文字起こし4本目。口調を残し、人柄が立ちのぼるように構成すべし、などなどのFの指導もだんだん肌に染みこんできている。

夜、心配になって見に行くと、枝に乗せたバッタはそのまま葉っぱの間でじっとしていた。ものぐさなのか何なのかはわからないが、臆病なバッタが自転車で知らない場所に来て冒険する、ピクサーの映画でも出来そうである。

2015年8月18日火曜日

ある日(かき氷、テレビ)

スパゲティ用のトマトソースをつくっていると、O氏が現れて稽古前の食事の用意を始めた。アートセンターのキッチンはコンロもシンクもたくさんあって、家庭科室のようである。少し離れた場所でフライパンを返しているO氏と、茄子の炒め方の話などをする。私は「油を吸うので、やっぱり最初に茄子だけ炒めて面倒でもお皿に取り出すのがいいと思いますよ」とお伝えした。

温泉街の中にある蕎麦屋さんに、かき氷を食べにいく。誘ってくださったのはFと親しい若旦那。ソフトクリームの土台に氷の山をかぶせ、水飴シロップとコンデンスミルクをかけて、あずきを乗せたもの。冷たくて甘くてすばらしい。京都から若旦那を訪ねていらした客人も合流し、しばらく話す。生霊と死霊の話をしていたら、急に豪雨がアスファルトを叩く音が聞こえはじめてびっくりした。蕎麦屋をおいとまして、Fとすぐそばの喫茶店で雨やどり。靴を濡らしたくないので、何とか傘をさして自転車で移動する。

お盆を過ぎて、外湯も通常の人の入りになってきた。ピーク時は湯船でかしましく騒いでいた若い娘のグループなども、今はお母さんに抱かれて温泉に初挑戦するみどりごを見守り、 「あつない? だいじょぶ?」と優しく気づかう余裕を見せている。

Fの自転車のかごに、バッタが止まった。何時間も、自転車を置いて風呂に入って戻ってきても、そのままだった。Fはバッタを付けたまま城崎を走り回った。少し離れた地区まで来た時に、かごに向かって「おうちから遠いところに連れてきちゃってごめんね」と謝っているのが聞こえた。動植物に対して、彼はときどき謎の慈悲を見せる。

海沿いの小料理屋、海猫に行く。昼間かき氷を食べた若旦那、Fと三人。あとでアートセンター職員のY氏も合流。焼き鳥を食べながら話す。調子に乗ってトンカツも揚げてもらう。私が日記で、女性の体は年齢を重ねるごとに個性があらわれる、と書いたのを、男性諸氏は新鮮に読んだようだった。「年配の女性の体を見る機会はそんなにないし」とFの弁。確かにそうだ。「しむらけんのコントの、あのおっぱい垂れさがったイメージ」と若旦那か誰かが言って、私はしむらけんを見ることを禁じられて育ったのでよくわからなかったけれども、まあステレオタイプな造形が何かしらあるということはわかった。しかし、テレビで老いた男の体は放映しないなあとも思った。まんがでもコントでも、老いた男性器(※おっぱいとの記号的対比で、ここでは男性器を用いる)の絵は見かけない。男たちは、女が老いるのは笑えるけれど、自分たちの体が老いるのは見ないふりをしたいのかもしれない。

ちょうどテレビではしむらけんのコント番組をやっていて、しむらけんが床屋でシャンプーしてもらっている時に理容師のおっぱいが彼の顔に当たるエッチな場面を映していた。小料理屋には、父親らしき男と息子らしき小学生が来ていて、じっとそれを見ていた。父親が「こんなことあるわけないわなあ」と笑うと、息子は恥じらいと女体への興味の混じった顔でうつむき「うん」と言った。コントは、しむらけんが目を開けると、おっぱいの持ち主は太ったおじさんだということがわかるところで終わった。

ある日(エントランス、盆踊り)

朝食の仕度をしにキッチンに行くと、エントランスの方から少女の声がした。何度かこの町で会い、一緒に遊んだこともあるあの子だとすぐにわかって、声をかけに行った。「一緒にあそびたい」と、少女はおっとりと、意志の強さを感じさせる落ち着きをもって言った。「待ってね、今ごはん食べてるから」と言うと少女は食堂に来て、私が朝食をとっている間、自分のはめているおもちゃの指輪や髪かざり、かばんのなかに持っているペンダントなどを見せてくれた。ペンダントのひとつに、彼女の誕生日が刻まれており、それは私の誕生日と一日違いだった。「お姉ちゃんとお誕生日が近いね。もうすぐお誕生日だね」と言うと、まだカレンダーをよく知らない彼女は「どうして?」と問い返してくる。とっさに「だって5歳になってずいぶん経ったでしょう」などと答えてしまう。「もうすぐ6歳だね」と言ってあげると「お姉ちゃんは?」と訊かれて、まあ、嘘を言っても仕方ないから「32歳になるよ」と教えた。少女は、32歳の女というものがよくイメージできないらしく、怪訝な顔をしていたが、すぐに「今日は朝プリキュアやってなかったの。野球だった」と別の話を繰り出してきた。

その時、N嬢が食堂にやってきた。少女は、私とN嬢と3人でおせんべ焼けたかなをしよう、と提案した。それでエントランスのソファに座って、手のひらを差し出しあっておせんべ焼けたかなを5周くらいした。続いてかごめかごめをしたが、ひとりが真ん中で鬼をすると手をつないでまわるのはふたりなので円周が小さくなり、目がまわった。それから、グーチョキパーで何つくろうの歌とか、アルプス一万尺とか、お寺のおしょうさんがかぼちゃの種をまきましたとか、だるまさんが転んだとか、たくさんの遊びをして午前中を過ごした。

お昼は、ちょっとだけ手をかけて料理をしようと思った結果、オムライス。

夕方、近所のフォトスタジオのI夫妻に誘っていただいて盆踊りへ。浴衣の帯がいい感じに締められたので、気分よく歩く。にぎやかな神社に行ったら、ぜひお盆の魂をお送りしたい気持ちがして、城崎音頭にあわせて1時間ほど櫓のまわりをぐるぐる踊った。

戻ってから、食堂で晩酌。打合せを終えたO氏、O嬢も合流して、地酒をいくつか呑みくらべる。あてはオクラ、油揚げ、塩昆布、かつおぶし、梅肉をポン酢であえて冷や奴にのせたもの、ラタトゥイユ、豚肉のみょうが巻き味噌風味など。Fは昨夜の飲み過ぎを反省したそぶりで、なんとその場にいた人々の中でいちばん早く、23時過ぎに部屋に戻って就寝した。反省というよりは、山登りによる足の痛みが残っていたとか、そんな理由ではないかと思う。

2015年8月17日月曜日

ある日(パーティ)

朝はまず山の中腹にある寺をめざして、石段を上る。降りる時に数えたら477段あった。お寺では、ご住職にお会いすることができ、寺の謂れをおそわったり、観音様を見せていただいた。ご本尊は、30年に一度御開帳とのこと。次は3年後に開いて、そこから3年飾ったのち、また30年しまう。

Fとりっきーは、更なる山道に分け入っていった。私は別の場所を歩くことにしてしばらく付近を探索した。のち、アートセンターの前から桑の木のある場所をめざして歩いてみたが、道が険しく遠いので断念した。峠を上る600メートルと、平地の600メートルはまったく意味が違うことをすでに学んでいる。

りっきーを駅で見送る。Fは連日の山登りリサーチでかなり疲労した様子を見せ、やや不機嫌。でも、自分でどうしてもそのルートを辿りたいと言ったのだし、寝れば治るのだし、どうせ人が何を言ったってやりたいようにやるのだから、無視。疲れて打合せができなくなったり、スケジュールがぐずぐずすることは避けたいので、そのむね告げる。

O氏の発案で、一品ずつの持ち寄り飲み会をすることになり、アートセンター食堂に皆が集まる。鶏肉と付け合わせのポテトサラダをつくった。O氏のゴーヤチャンプルー、N氏のアドボ(フィリピンの酢の効いた煮物)、N嬢の厚揚げとクリームチーズ、さやいんげんの和えものなど、大変おいしかった。Fは、私に教えてもらいながら(何を教えることがあろうかという気もするが)枝豆をゆでた。韓国から来ているY氏はインスタント麺を調理してくれて、これもビールにあう素晴らしい食べものだった。I女史が通訳をしてくれるので、日韓のメンバーで食事は大いに盛りあがった。そういう、終戦の日だった。

2015年8月15日土曜日

ある日(河原、はしご)

目が覚めて、動き出しが少し重たくなっている。小さな町に長く滞在して仕事をする時は、誰でもこうなる時期がくると、先月小豆島で話した作家が言っていた。いつものように基礎体温を測って記録する。低いのが続いていてなかなか上がらない。待つしかない。

明け方の雨がやんで、晴れ間がのぞいたのでアートセンターを出る。鴻の湯の駐車場に落ちていた赤い下着はなくなっていた。さすがに誰かが片付けたのだろう。駅向こうのパン屋をめざし、日傘をさして歩く。パン屋でウインナーパンとチョココロネを買って、すぐそばにあった階段から川の堤防によじのぼる。私の心の中にあるいちばん大きな川は東京の隅田川で、もちろん背景は永代橋、箱崎のIBM本社、スカイツリーなんかだ。こんなふうに山や田んぼや沢ガニや鷺のいるところではない。でも、川のほとりでパンを食べると安心するのは変わらない。川沿いの道が続くかぎり歩いていって、道の尽きるところまで行ってから引き返してもと来たように帰る。帰り道も、細い路地をたくさん入ってみたので、何倍も時間がかかった。

夜は柳湯へ。七つの外湯のうち、いちばん小さいのだが木の香りが豊かで、私はいちばん気に入っている。しかし今夜も、若い娘があまりにも多く入っていて、もうこの時間には来たくないと思うほど閉口した。いや、開口して小言のひとつでも言おうかと思うほどだった。柳湯はお湯が熱めなのだが、娘たちが「熱い熱い」と湯の中で暴れるので、かき回されてゆっくりつかっているこちらにも熱い波が来る。不本意だ。洗い場と脱衣所にあふれる娘たちの四肢を見て、何だか密集したシメジみたいだなと思う。

中華料理屋から焼き鳥屋、流しの唄うたいのやってくるバーを回って夜は更けた。こんな人生を送ることになるとは思ってもいなかった、と城崎に来てから何度も考えている。

2015年8月13日木曜日

ある日(雨)

「取り返しがつかない」という気持ちになる夢をよく見る。信頼している人に裏切られたり、無視されたり、ぼろぞうきんのようになって目を覚ます。夢でよかった、と最近は考えない。何でこんな夢見たんだろうと、ただ精力を失って茫然とする。

朝から雨が強かったが、スーパーマーケットを二軒まわる。2日分くらいは、これで食べられるだろう。N嬢が昨日つくっていてうらやましくなったので、焼きそばの麺と野菜を買って帰り、お昼はそれですませた。

テキストを頭の中でまとめながら、アートセンターのキッチンにあるまな板を、片っぱしから漂白、消毒した。私は水回りの掃除が趣味なので、楽しんでおこなった。大きなキッチンなので、やり残しが少しある。近いうちにまたやるつもり。

夜は、稽古を終えて食堂で執筆中だったO氏と、つるむらさきの調理方法などについてちょっと話した。そのあと、Fとりっきーを呼んで食事をした。カレーと、つるむらさきの胡麻あえ。食後に作戦会議をしている間に、O氏がシンクの調理器具や食器を洗ってくださったことには、あとで気づいた。

ある日(プールサイド)

抱えている仕事に悩みながら朝、キッチンに降りるとN嬢が焼きそばをつくっていた。隣で私もパンケーキを焼いて、食事にした。パンケーキを焼くのは今日が初めてだったので、かたちも焼き方も何もかも失敗してしまった。急いで食べて、駅前に向かった。

Mが帰京。帰りついたのちも、メールでアドバイスなどを送ってくれる。一見休むように見えることも、必要な時間なのだということがMの言葉だとよくわかる。そろそろ、何がいつの出来事だったか分からなくなってきていて、休んで整頓しないと難しいと感じる。原稿を仕上げ、編集部に送る。キッチンで夕食をつくっている時にオーケーの電話をもらい、小躍り。城崎屈指の名家であるホテルのプールサイドバーにお呼ばれして、アートセンターを出ようとしたところでずぶ濡れのりっきーと遭遇。雨が降り出しているようだった。プールサイドでは、フローズンカクテルを飲んだ。その夜にいただいたお風呂は大変広く、優雅なつくりだった。

2015年8月12日水曜日

ある日(海水浴、花火)

朝のしたくをしていて、洗顔用のせっけんをなくしたことに気づいた。すぐに昨日の柳湯に置き忘れたのだとわかったが、取りに行こうとは思わなかった。高価なせっけんではあって、もったいないのだけど、もらったものだし、その相手のことを思い出すとまああのせっけんはどこか遠い地で誰かの手に渡っていく方が、いいかな、いいよな、という気になったからである。私のせっけんよ、どこかで誰かの肌をうつくしく磨いてあげてほしい。

アートセンターからいちばん近い外湯、鴻の湯の駐車場にもう3日も同じ赤い下着(男もの)が落ちていて、見るたび気になる。私がはじめてそれに気づいたのが3日前というだけで、実際はもっと前からあるのかもしれない。

隣町の駅に行って、30分ほどかけて海岸まで歩いた。海水浴場はにぎわっていて、海にはすいかのかけらとか、浮き輪をつけた子どもとかがたくさん浮かんでいた。男たちは、半島の先端の灯台をめざして山をのぼっていった。 私は途中までついていったけれど、これは無理だ、とすぐ判断してひとりで先に降りた。それで、別の突堤とか岩場とかを歩き回った。思いついて観光案内所で電動自転車を借り、ひと山越えた海水浴場や、奇岩を見に行ったりした。山を降りた男たちを迎えに行くと、彼らはぐったりして汗に濡れたシャツを乾かしていた。バス、電車を乗り継いで帰れる方法と時間を調べるのは、いつも私がやる。

城崎では毎晩花火があがる。10分ほどの小さなものだが、平日は毎晩。今日は浴衣を着て、それを見に行った。町ゆく人々のように、浴衣を着て歩いてみることで発見もあった。まず、あまりにも涼しいので、冬が心配である。何を羽織るのか、何を履くのか、など。そういう気持ちを知れたことはよかったし、浴衣とはいえ、和服を着るのは楽しくて良かった。

リサーチメンバーのひとり、りっきーはその昔保育士をしていて、今日も同じ場所に居合わせた5歳の少女と上手に遊んであげていた。少女はりっきーの似顔絵を描いたりして、ごきげんだった。別れぎわ、母親の自転車に乗せられた少女はうしろを振り返って「りっきー、どこから来たのー?」と問いながら遠ざかっていった。彼女は、城崎の町には住む人よりも旅をする人の方が多いことを5歳にしてすでに知っているのだった。りっきーは手をふって、自分の住む町の名を叫んだが、自転車はすでに遠くなっていて、それが彼女に聴こえたかはわからない。

2015年8月11日火曜日

ある日(スーパー、キッチン)

頭は起きているのに体が動かない時間が続いていて、そうこうしているうちに、アートセンターの消防訓練のサイレンが鳴る時間になってしまい、大音量におびえながら時間が過ぎるのを待った。そこから気を取り直すまでにまた1時間くらいかかったけれど、窓の外の日差しが昨日までよりやわらかい気がしたので、麦わら帽子は置いて出かけた。しめつけるものを、半日以上頭の上に乗せていると頭痛がしてしまう。ネックレスも、数時間していると肩がこって頭痛のもとになるので、なかなかできない。ぶらさがる大きなピアスなども。

鴻の湯で、やもりが地面を這うはえを食べる瞬間を見た。食べるかな、と思って、やもりがはえに近づいていくところから見ていたのである。捕食のあと、やもりはするすると物陰に引っ込んでしまったので、私もその場を離れた。

スーパーで、同じくアートセンターに滞在中のO氏にたまたまお会いする。ここでは、地元産の野菜やたまご、肉などをかごにいっぱい買っても、東京よりよほど安いのだった。

夕方から夜にかけて仕事をし、休みがてら夜の風呂にゆく。ちょうど花火があがる時間で、川にかかる橋には浴衣姿のひとびとがずらりと腰かけて、空を見上げていた。ひときわ大きな花火が、その日最後の花火だと、誰もがわかって拍手を送るのは不思議なことである。しかし、そのあとの湯が混んだ。 柳湯というごく小さな、しかし檜の香りたかい、私の気に入りの湯に行ったのだけれど、あとからあとから若い娘がおおぜい押し寄せてきて、芋洗いのようになってしまった。芋であればまだよくて、若い娘の体がひとところに、服を着ない状態で密集しているのはおそろしいものがある。おびただしい数の裸体が放つ無防備で図太い空気に、気持ち悪くさえなった。娘たち、というより、哺乳類の群れ、という言葉が浮かんだ。人それぞれに、本当に形のちがう乳房を眺めていたからかもしれない。若い体というのは、束になると当てられる。波長の短い、エネルギーの強い光線でも発しているのかもしれない。

夜、キッチンで食事をこしらえている時に、最近私が書いた文章の中の、横浜駅の描写の話などをした。それで遠い横浜のことを思いながら、スーパーで昼間買ってきた肉と野菜を炒めて食べた。


横浜駅には足りないものがたくさんあって、不満をあげればきりがないのであんまり行かない。中でもカフェはぜんぜん足りない。別に普通の、炭水化物やたんぱく質のような栄養素を取りたい場合のたべもの屋には事欠かないが、道を歩けばコーヒーチェーンばっかりで、本がたくさん並べてあって落ち着いた雰囲気があるとか、焼き菓子がとてもおいしいとか、テーブル同士がじゅうぶんな距離を取っていてリラックスできるとか、日当りがよくて外を見ているだけで楽しいとか、そういうカフェがないのである。そのくせ、安っぽい居酒屋チェーンとかラブホテルだけはひそやかに、しっかりと、あるのだ。人間のごく普通の欲望のラインを、過不足なく満たすだけの町。よぶんな洒落っ気や、空間のあそびがあまり存在しない町。
『人魚が星見た・第一話』

2015年8月10日月曜日

ある日(温泉岩)

外に出た瞬間に、日傘を忘れたことに気づいた。少し考えたが、取りには帰らず鴻の湯に向かう。若いお嬢さんたちのグループに行き合い、にぎやかな朝風呂となる。20代までは、体を見れば年までもほぼわかる。それは自分が来た道だからでもあるが、おおよそ35歳くらいからは個人差がはげしくなって、男も女も、体を見ただけでは年がわからなくなる。若い40代か、不摂生な30代かなどは、日々の過ごし方によって表れ方がことなる。

ロープウェーのたもとで、アイスを食べてF、Mを待つ。玄米キャラメル味。この広場には「温泉岩」(わたし命名)という岩があって、それは城崎温泉の原泉を柵でかこったものなのだけど、いつも、つい吸い寄せられるように見てしまう。大きな岩から80度のお湯が吹き出している、ゆたかな岩である。冬はさぞかし湯気でもうもうになるだろうな、とまだ見ぬ城崎の冬のことを考えながらアイスを食べていると、 Mが来た。アイスのよもぎ味を買って食べはじめる。草餅をまるめてアイスにしたらこういう味にちがいない、という楽しさ。もうしばらくしてFが来たので、3人でロープウェーに乗る。乗り場までは石段がだいぶあって、それを見たひとりの老人が、降りてきた乗客に「上には何がありましたか?」と先取りして訊ねていた。聴かれた人は「まあ、町と川くらいですかね」と身もふたもないことを言い、老人は石段をのぼる意欲を失ってしまったが、家族に取りなされて結局乗り場までやってきた。

ロープウェーで山をのぼっているあいだじゅう、下にひろがる森を見て、木の種類などを数えていた。ぱちくりした目の生きものと目があって、「あ」っと思った。鹿の剥製かな? 何でこんな山の中に鹿の剥製が飾ってあるのだろう? と血迷ってから、いやいや本物の鹿だろうよ、と思い直すまで0.1秒ほどで、鹿はぴょんと走ってもう消えていた。びっくりすると、本物ではないのでは、とすぐ思い込んでしまうくせが自分にはあるのかもしれない。たとえば私が山育ちで、日常的にけものに注意を払う生活をしてきていたら、そんな考え方にはならないのではないか。まったく、私は都会で愚鈍な暮らしに慣れきっているんだ、とやたら自分を責める気持ちがわいたが、ロープウェーの終点について山の景色を見たらすぐ元気になって広場を歩き回って満喫した。確かに、町と川しか見えるものはないけれど、見え方が重要なのだ。何だってそうだ。

山を降り、列車で隣の駅の玄武洞へ。円山川のほとりで電話をすると、渡し船が迎えにきてくれた。船頭である壮年の女性の導きにより、数分でわれわれは対岸のミュージアムについた。先に食事をすることにして、レジで食券を買おうとしたところ、三角巾を頭にまいて現れたのは先ほどの船頭女史で、「あれっ、船もお食事もなさるんですね」と言うと彼女は「そうですね、呼ばれたら船もこぎますし、われわれみんなオールマイティにやらさせていただいております」と言った。真の仕事人は、みずからの仕事をやたらと語らない。

城崎温泉界隈に帰り、駅前のさとの湯につかる。体力がここで尽き、アートセンターに戻って休む。ふたたび部屋を出られた時は19時半を回っており、あたりの道はすっかり暗くなっていた。温泉岩の前を通りかかると、もうロープウェーもアイスクリーム屋も終わっていて、暗い公園の中でお湯だけがこんこんと湧きつづけていた。当たり前だけど、誰も見ていなくても温泉岩からお湯は湧いている。寂しい夜、むなしい夜、どこかに思いを馳せたい夜に思い出すものが私にはいくつかある。人のいない世界で80度のお湯を吹き出しつづける温泉岩も、その中に加えたいと思う。

2015年8月9日日曜日

ある日(湿地、いくつかの外湯)

川のほとりの喫茶店で、トーストを食べる朝。ゆでたまごも、トーストも久しぶりだった。コーヒー付きのセットなので、コーヒーに決まっているのかと思ったら、カフェオレや紅茶も選べるのだった。

自転車屋さんで、自転車をお借りする。2時間400円。円山川にかかる城崎大橋を渡って、かつてコウノトリがやってきたという湿地をめざす。川の幅が広いうえに、水面と橋の距離が近いので恐ろしい。子どものころから深い水のイメージが怖くて、船に乗ったり橋を渡ったりすると、川や湖(海はほとんど行ったことがない)に沈んで死んでいる自分の姿が見えて怯えていた。たぶん私の前世の体は、十和田湖か猪苗代湖など、北のほうの湖の底で朽ちているのだと思う。橋を渡りはじめて半分ぐらいで、怖くてたまらず引き返したいと思ったけれど、こんな川の真ん中では行くも帰るもどちらも怖い、と思ってがんばって走り抜けた。

湿地には、小さなたてものがあって、中には望遠カメラ、資料集などがたくさんあった。スタッフの女性が、朝からあそこに止まっているんですよ、と指さしたはるか先に、コウノトリのつがいがいた。このまま国道沿いを行けば見られると教えていただき、自転車をこいで向かった。コウノトリたちは電柱のてっぺんにいて、暑いだろうに、じっと田んぼを眺めていた。彼らがいつまでそうしていたのか、結局わからなかった。

海を見たり、公苑の方まで外遊して町中に戻り、地蔵湯に入った。20代前半の若いお客さんが多くて、脱衣所も浴室も、水をはじくような活気がどことなくある。いけないと思いながら、つい人の体を見てしまう。若い娘さんたちの体の差異は、ただ生まれた時の個性の範疇だ。 ここから時間が堆積していって、傷や痕も増えたりして、ひとりひとりの人生のにじむ体つきになっていくのだろう。

休息を挟み、日没の間際に極楽寺を訪ねた。しずかな枯山水の庭である。寺の門のところで、おそるおそる中を覗きこんでいる欧米人カップルがいた。たしかに、枯山水の庭園は入るのをためらう気持ちにさせるから、いたしかたない。背後からすり抜けようとすると、男性のほうに思いきりぶつかってしまった。彼らは結局、寺には入らなかった。

日が暮れて、極楽寺のすぐそばの、まんだら湯という湯に入る。ちょうど人々は宿で食事を取っている時間なのか、湯は人もまばらだった。私は四角い内風呂と、露天の桶風呂をすばやく堪能した。欧米人の女性がひとり、目についた。脱衣所を出たところに、欧米人の男性が待っていて、女湯にいたパートナーらしき例の女性を待っていた。それで、彼らがさっき、極楽寺を覗いていたカップルであったことに初めて気がついた。服を脱いでしまうと、人の顔がいかに意味のなくなることか。

F、M両氏と食事をとり、三たび、湯をめざした。 柳湯というところである。Fは、今日4度目の湯であると言った。あなたのようなお湯乞食も日に4度となるとお湯貴族に昇格です、と告げると彼は喜んだ。

2015年8月8日土曜日

ある日(京都、城崎)

城崎に行くために、まず京都に行った。おみやげものを駅で見ていたが、夜中に食べたくなりそうないいお菓子がなく、おなかにたまりそうなものは若鮎くらいだった。結局、改札の中のセブンイレブンでメロンパンを買って、特急に乗った。結構混雑していて、自由席はぎっしり埋まっていた。眠かったけれど、知らない人の隣で寝るのが嫌なので起きていた。でも、知らない人が隣で寝ているのもものすごく嫌なので、どちらかを選ぶしかないと、つまらないことを考えていたら、いつの間にかうたた寝していた。和田山を過ぎるとどっと車内はすいて、二人掛けの座席に寝そべって眠ることもできそうだったけれど、そういうことはしなかった。特急列車は、途中で、前の列車が鹿と衝突したためにしばらく停まった。時を同じくして、滞在予定のアートセンターから「城崎町内で小熊の目撃情報がありましたので、お気をつけください」というメールを受けとった。

豊岡で特急を降り、もう二駅、鈍行を乗り継いだ。それはボタンを自分で押して扉をあけるタイプの車両で、不慣れな私はうまく降りられなかったらどうしようと思いつめて、動悸がした。乗る時は、先に乗った人のあとにすばやく付いて乗り込んだので、問題なかったのである。城崎温泉駅で、降りるのが私だけだったらどうしよう、とひそかに悩んでいたところ、車内アナウンスで丁寧に、扉の開け方を説明してくれたので少し安心した。列車が駅につく2分も3分も前から、帽子をかぶり、リュックを背負い、トランクを引きずって準備をととのえた。列車が停車して、アナウンスのとおりに扉の横のランプがついたので「開」ボタンを押して、慎重さと優雅さをぎりぎりあわせもつしぐさで、ホームに降りた。

見覚えのある男性が改札の中をのぞきこんでいる。1秒ほど考えて、アートセンターの近くにある温泉旅館の主人H氏であると思い出した。先月、懇親会でお目にかかったのだ。思いがけない再会にうれしくなり、こんばんは、と声をかけ、あらためて名乗ると向こうも私を思い出してくれたようだった。私は、人の顔を覚えられないことも多いのだが、ふしぎによく記憶できる場合もあって、それはどういう違いなんだろうと思う。H氏は、駅に今宵の宿泊客を迎えに来たとのことだったが、手違いで空振ってしまったと言った。どうやってアートセンターまでいらっしゃいますか、よかったらうちの車にお乗せしますよ、とおっしゃっていただき、思いもかけないことに喜びが温泉のようにわきあがる心地がした。ちょうど、湯上がりのF、M両氏が自転車で登場したので、私は一度アートセンターまで荷物を置きに行き、のちほど町で再会することにする。

H氏のご親切はそればかりでない。旅館の電動自転車を私に貸してくださったのである。城崎の町の人の、尋常ならざるもてなしと、協力を惜しまない心意気はとてつもない。先月おとずれた時にそれを感じて、あまりにも町全体で協力しあい、もてなしの心を持って交歓する様子が理想的で、にわかには信じがたいほどおどろいた。今夜は、H氏のご厚意に対し、あおぎみるようにして甘えた。

自転車を借りたおかげで、今夜はあきらめかけていた温泉にも入ることができ、F、M両氏ともふたたび合流することも容易だった。3人で食事を終えて店を出ると、時間は22時半をまわっていた。城崎の外湯の営業時間は23時までである。Fは「がんばればもう一度温泉行けるなあ」と言ったので、私は、そんなお湯乞食みたいなのはやめなさい、ゆっくり滞在するのだから明日にしなさい、と言った。

2015年7月14日火曜日

小型犬の探索

昼寝していた小型犬を散歩に誘うと、張りきって走り出した。リードをぴんと張って、ぐいぐい私をひっぱっていく。小型犬は元来のんびり屋で、散歩の時も急がない。ところが今日は、強い意志で先へ先へ進んでいった。とても、珍しいことである。家を出て駅の方へまっすぐ、裏通りを、ためらわず。途中、ちょっと曲がり角で迷ったけれど、駅の方角を選びとってまた獅子奮迅の勢いで小型犬は、進んだ。それで、どこに行こうとしているのかが、私にはわかった。

小型犬は、駅前のエクセルシオールに行きたかったのだった。そこはかつて私の両親が、大型犬と小型犬を連れてテラス席でお茶を飲むため、よく通った場所だった。

テラス席の前にたたずみ、じっと何か考えている様子の小型犬が、心底不憫に思われた。こんなに小さくて可愛い何にも知らない生きものが、悲しんで心を痛めていることをこそ、不憫というのだと思った。テラス席には何匹か、中型犬などの犬がいた。小型犬は普段なら、ほかの犬に大声で吠えたりするのに、今日は黙ったまま、ずっと大型犬のことを探していた。あまりにうろうろ歩き回るので、「ほら、帰るよ」と何度もなだめた。小型犬はあきらめずに、何度もエクセルシオールまで戻ろうとするので、ついには抱きあげて歩いた。

母に、「あれからエクセルシオール、連れていってない?」と訊ねたら、「行ってない、悲しくて」と言った。きっと小型犬は、あ、まだあのカフェを探していない! と思いついて、私を引きずって一緒に走っていったのだ。小型犬は、走り疲れて眠っていた。床の、同じ場所に寝そべって、大好きだった大型犬を失ってしまったこの子の中で、まだ喪失感が続いていることに私も泣いた。

2015年7月3日金曜日

夏は抹茶

「おかえり」と言われることがなくなってずいぶん経つ。両親の家に行くと「いらっしゃい」と言われる。そんな両親の家には、近所に住む子どもがときどき遊びにくるらしい。去年、夏に母が抹茶の水ようかんをあげたところ、少年Kはたいへんにそれを気に入って、今年もそれとなく、母に「水ようかん、ある……?」と訊ねたようなのだ。その水ようかんは、確か去年わたしが手みやげに持っていったもので、つまり、たまたま実家にあったものなので、母は「ごめんなさい、今はないの」とKに謝ったそうである。

その話を聞いて一念発起した私は、電車に乗ってデパートに向かった。次に少年Kが遊びにくるまでに、何としても抹茶の水ようかんを手に入れなければならぬ。雨の中、デパートの地下の、洋菓子和菓子店があまたひしめく中を歩きまわり、これぞ、という水ようかんを得て母のもとへ向かった。そして、無事に抹茶水ようかんを少年Kに渡せた、という知らせを母から受けたのが昨日のことである。5歳の少年が、和菓子をほおばってうれしそうにしている絵を思い浮かべると、私もうれしい。

2015年6月27日土曜日

大型犬の死

昨日、実家に向かっていた時のこと。大型犬が、食べたものを全部吐いてぐったりしている、という連絡を父から受けた。三週間前に摘出した腫瘍は良性で、高齢ではあったけれど、ずいぶん元気になったように見えていた。何があったかわからないまま、走って家に向かった。大型犬は、床に伏してかすかに息をしていた。目をときどき瞬かせ、顔も少し動かしたりする。私が顔をよせると、私のことがわかって、鼻をくんくん言わせた。小型犬をもう一匹いっしょに飼っていて、その子は私が家に来たことを喜んでくれたけど、それどころではないので、しばらく抱っこしてからケージの中に戻した。

落ち着いたら、獣医に連れていこうと思っていた。本当は、今すぐ行かないともうだめなのではないか、と思った。でもこんな状態では動かせないし、飼い主である両親の意志を尊重しなければならなかった。1時間前まで、元気にごはんも食べ、家の外に出たりもしていたという。何でこんな急に、と母は言いながら、病院に連れていく前に、家族の夕食のしたくをしていた。

犬のくちびる、舌は真っ白で、重度の貧血を起こしていることが見てとれた。口元も、頭も、足の先も冷たい。脈が取れない。血圧が急激に、下がっていた。なでながら、声をかけることしかできなかった。大型犬は、台所の母の様子を気にしながら、立ち上がろうとしていたけれど、足に力が入らないみたいだった。

様子が急変した。呼吸が時々止まっては、不規則に吹き返された。それで、台所にいる母を呼んだ。小型犬をケージから出して抱き、いっしょに付き添った。名前を呼んでも、もうだめだった。瞳孔がひらいていた。もう呼吸はしていなかった。生きていたものが呼吸しなくなって、あんなふうにして息絶える瞬間をはじめて見た。何でこんな急に、ごはんの用意なんかしていないで側にいてあげればよかった、と言って母は泣いた。

12年間、家族をつなぎとめてくれた大型犬のため、その夜は妹も弟も早く帰宅した。私も実家に泊まり、大型犬のそばの床に寝た。小型犬は、自分を育ててくれた大好きな大型犬が死んでしまったことがわからないようで、しかし、動物の勘だろうか、横になった大型犬のしかばねはかつての大型犬ではないとして、近寄らなかった。翌朝になってから、少しにおいをかいだりしていた。

夕方、大型犬を、葬儀屋(というのだろうか?)が引き取りに来てくれた。家にいた家族はいっしょに付いていったが、私は小型犬をひとりにできないと思い、家に残った。大型犬をおさめた白木の箱が、車に乗せられて運ばれてゆくのを、抱っこして小型犬に見送らせた。家の中に戻ると、小型犬は急に鳴いて、大型犬を探し始めた。さっきまで、大型犬のしかばねが寝ていた場所をかぎまわって、私が呼び止めるのも聞かないで家中を走りまわった。どうしても、外に出たいと玄関で私に訴える。リードをつけてやり、外に出ると、一目散に門の外まで走り出た。しかしすぐに立ち止まった。門の中に戻ると言う。行きたいようにさせてやると、家の車をとめてある車庫から庭の方へ抜けてすみずみまで大型犬を探している。でも、もうどこにもいない。

もう一度門の外に出た。いつもなら元気に散歩に出るのに、今日は数歩歩いて立ち止まってしまう。大型犬のにおいを感じ取れずに、途方に暮れているのだろうか。しばらく茫然と外にいて、小型犬は家に戻ると言った。ふたたび家に戻ると、もう小型犬は鳴いたりせず、静かに、かつて大型犬とふたりでよく眠っていた玄関の冷たいタイルに横たわって、じっとしていた。 



2015年6月14日日曜日

不満

寂しさよりもっと濁った何かがつかえて眠れない。人のいる喫茶店で文章が書けない。自分ひとりだけで自分ひとりの人生を生きることができない。もう誰とも夜中に電話でつながることができないし、横で眠る人の息の根をとめることも許されない。

2015年6月4日木曜日

東洋医学

鍼灸院に行った。文章を書きたいという欲望にめぐりあっていなければ、私は漢方医か鍼灸師になりたい人生かもしれなかったと思うくらい、東洋医学には憧憬をよせている。院長は私の顔色を見て、首から肩から順に診断してゆき、肌の上から子宮に触れて「わ、硬い、これはよくないな」とひとり言を言った。「鬱だった時の体の疲れが取れてないんだよ。でも大丈夫、治してあげるから」と言ってくれて、私は涙ぐんだ。院長は忙しくカーテンで仕切られた患者たちの間を行き来して、触れた瞬間に判断をくだし、適切な処理をほかの鍼灸師たちに命じていく。

「先生、こんなに体の事わかるなら人の心もわかるでしょう」と、カーテンの向こうで女が言うのが聞こえた。「わかりすぎてねえ、嘘つきたくなっちゃうくらいよ」と院長は答えた。「言いたいことをね、いつも100秒くらい我慢するの。わかりすぎちゃうから。で、100秒我慢してるとトロいって言われるんだよなあ」と、おおどかに笑う彼を、私は信頼した。院長は私の首に長年巣くう、悪魔、いや大閻魔のような血のかたまりを瞬時に探り当て、鍼を突き刺し、脳天まで響くような施術をおこなった。すばらしい手際だった。その日は一日体が熱くてねむくてたまらず、翌日は鈍重な頭痛にさいなまれたが、昼過ぎからふと頭痛が去って、体が軽くなった。ここには、しばらく通うことにする。

2015年5月30日土曜日

頭痛の種

最近二十歳の彼女ができたんやけど、顔がね、完全にきみの若い時みたいでさ、なんか複雑やわー、なんて言うので、あっそっか私もきみも、若い時があったと振り返れるくらいに今は遠くまで来てしまったんだって、地下のライブハウスで思った。かつてそこにいたかでさえ、もう定かではない古都の情景だけがわたしたちを結んでいる。かろうじて。もしかして、ほとんど残像だけで。

昨夜は排卵頭痛がひどくてひどくて眠れなかった。きみはあいつに会いに行く日にはいつも不機嫌だよ、と指摘して私の不甲斐なさをこんこんと叱ったあげく先に眠ってしまった人の横で途方に暮れ、天井を見上げながら首筋を押さえて、頭の重さで何とか頭痛を緩和しようと夜明けまで奮闘した。

ベランダからエメラルド

私が5歳のころ、母がマンションのベランダからエメラルドの指輪を落としたことがある。母はまだ弟を産む前で、指は細くかよわく、すべすべしていたのだった。スクエアカットに、テーパーカットダイヤを放射状に配置したシンプルな指輪で、子供ながらに私は母のその指輪が好きだった。「あっ」と、布団を干していた母が言ったのを、遊んでいた私は聴いた。母は、今の私より少ししか年上ではなかった。すぐに彼女が電話機を取るのを、私は見ていた。母が「もしもし、お姉ちゃま、助けて」というような電話をしてから30分後、伯母が車に乗ってやってきた。なぜ伯母が呼ばれたのか未だにわからないが、たぶん、小さなものを探す才能が伯母にはあったのだろうと思う。伯母はベランダの下の、草の生えた地面をかぎ回るようにして指輪を探し、とうとうそれを見つけた。私は今もエメラルドが好きだし、いつか、母がベランダから落としたあの指輪を譲り受けたい。

2015年5月18日月曜日

状差しの地層

恋人にあてる手紙にもいろいろある。相手が自分にどんなに素晴らしく見えているかをのぼせたように書き連ねているものや、気を引きたいあまりに自虐的な自意識を並べて言い訳に終始してしまっているもの、自分が今何に関心があるかだけを書いているものなど。

めざとい母は「あなた顔が細くなっちゃって、どうしたの、食べてないの」と言った。熱っぽい顔で咳き込んであまり喋らない私に、遠縁の叔母は「うちの息子のお嫁さんがね、もともと細いんだけど、つわりで更に痩せちゃって、入院になっちゃって」と話しながら、私が今にも妊娠を打ち明けるのを待っているようだった。

2015年5月15日金曜日

内省と孤独

控えめに言って私は、愛する人をいとおしむ才能に恵まれているのだから、わざわざ、不感症の人間に対抗することなどひとつもないのだ。とはいえ、不感症には不感症なりの研究テーマがあるだろうから私は私で、男たちのための女として自己を錬磨しよう。いつかかなたへ飛び去る日のために。

2015年5月11日月曜日

地図をつくる

架空の町をタクシーで走った。私は犬を三匹連れて帰るところで、紐を三本握りしめ、犬たちとバックシートに座っていた。運転手はトンネルを抜けたところで道がわからなくなったと言い、その間にもメーターは1秒に300円ずつ上がって、信じられないような金額をつけた。私が「交番に行って降ろして」と言うと、運転手は「交番なんてわからない。行ったことのないところには行けない」と泣きべそをかき始めた。私はグーグルマップを取り出して、それは異様に精巧な架空の町の地図だったのだけれども、画面をいくら指さしてもはげでちびの運転手は泣くばかりだった。犬たちはずっといい子にしていた。起きてから、頭の中の地図を少し書き写した。

2015年5月10日日曜日

坂道は百合の匂い

わかっていないと言うのでわかっていると言うとそれがわかっていないということなんだと言いじゃあわからないと言うとわかれよとか何とか言う人が、そんなものただの嫉妬だと言い捨てるし、その人自身は果たしてわかっているのかどうかと言うとそこについては言及しないずるさを見せるので、ひどい私はあなたにひどいことをしたい。

別れたくない、とすがって泣いたことがある。もうあなたみたいな人には出会えない、と本気で思ったのでそのように言った。その時男は私を傷つけるため、そして恐らくは自分を守るため、いいやお前は絶対すぐに別の人間を好きになる、すぐに他の男が現れる、俺にはわかってる、と冷静にいたぶるように言った。そんなことない、と私は一生懸命になおも泣いたが、涙が乾いて10年が経ち、私はあの時の男と同じ年齢を迎えている。

マンションの入口で、夜のうちからごみを出そうとする住人とはちあわせた。女は洗い髪で、シャンプーの香りをさせていた。私はこの世でいちばん、匂いという匂いの中で女のシャンプーの匂いを嫌っていて、どんなに親しくてもシャンプーの香りをさせている女は許せないどころかそもそも親しくなることはないからそんなこと心配しなくてもいい、というほどなので、ひどい嫌悪を催した。エレベータに乗ると生ゴミとシャンプーの混ざった湿った空気が充満していて、今すぐ階段に変えたかったけど身体がもう箱の中に入ってしまっていたので仕方なかった。吐き気と窒息のどっちを取るかで文字通り死にそうになったし、もし私が今妊娠していたら間違いなく、ここで嘔吐していた。

2015年5月9日土曜日

DEAD OR ALIVE

行方が知れず連絡もよこさない男だが、それでも私のことを本当に好きなのだと、占い師が言う。気付くと動悸がして、床に座り込んでから2時間ほども経っている。生きた体は、一時的に目をくらませるだけだ。執着でも愛でも狂気でもなく言うけれど、この目で耳で、信じさせてもらえるなら心も体も生死は問わない。

浅い眠りから覚めて、指先をこわばらせるところまではいつもやる。そこから枕の端に手をかけて、渾身の力で絞り上げる。 明け方に首をしめることくらい、いつだってできる。

2015年5月7日木曜日

卵の不調

40過ぎからだんだん閉経していきます、という文章を読んで、それでは私の生理がなくなるのももうすぐだなあと思ったりする。生殖生殖とか騒いでいられるのもあと10年かそこらで、もしかしたらもっと短いかもしれず、生理がなくなってからどれくらい生きられるのかは分からないけれど、場合によっては初潮から閉経までより長いだろう。そのレベルで見ればいったい何を悩んでいるのかとも思う。生理がしばらく来ていないのだ。低温期が異様に長かったので、生きる力が身体にないのだろう。2時間も3時間も部屋の真ん中で泣き、体力を消耗したところで眠ることもできない。

大型犬をお風呂に入れた。シャワーでびしょびしょに濡らして行くと、ふわふわの犬はぺったりして小さくみすぼらしくなった。愛しい生き物が、濡れて小さくみすぼらしくなっているのはかわいい。観念したようにおとなしくしていて、ときどき私に鼻面を寄せてくる。水が目に入らないように、上手に上を向いている。眠いのにごめんね、でもきれいになると気持ちいいよ、と話しかけながら、押し黙っている犬を洗った。

2015年5月4日月曜日

あいつがヒロイン

目をかけられることには慣れている。私も知らない私の能力を、さとく見つける男がたまにいて、声をかけては自分の領内に引き入れる。半信半疑についていく私も、やがてやりがいなんぞを見出してしまい、おろおろしながらも出来ることを出来るだけ時には出来る以上にやって、自分の何がよかったのか結局わからないまま搾取に遭い、求めるのは愛、となった頃にまぬけにも、男の中には本当の、別の、ヒロインがいたことを知る。いくつになっても繰り返す。男はいつも私のことを引き止めようとするけれど、それは私がなまじ頭、都合、聞き分けのよい女であるためで、追いかけられるより先にそこで待ち続けている安心感をあなたに与えられるからである。私よりも年下の、少し冷たくて、表情のあまりない女を、男たちは好む。頭、都合、聞き分けなどが多少よくても何にもならない。ミューズ、ファム・ファタル、勝手な名前をつけて男どもがすがるその女に、私は何にも勝らない。ミューズだのファム・ファタルだのは気まぐれなので、自分を好いた男には目もくれず、どうでもいいわ、と言いたげに去ってそれきり姿を現さない。現れなくてもそこにはいるので、男のことは忘れても、喋ったこともないミューズだのファム・ファタルだののことは、今もたまに考える。

2015年5月1日金曜日

女の子のお母さん

うなされる夢をいくつも見て、目覚めてから、これでは生きた心地がしない、と思った。いや、それよりは起きた心地がしない? っていうか、眠った気がしない? 何ていうか、とにかく目をきつくつむって歯をくいしばるような夢ばかり見ていた。実際そうしていたらしかった。

生来かんしゃく持ちで、きれやすいたちなのである。浴室に男が入り込んでおり、ちょっかいをかけてくるので、私の穏やかな入浴がいちじるしく妨げられた。そのことに立腹した私が、たがが外れたように怒鳴りまくって壁もこぶしで殴りまくったら、男は泣いて風呂場から出て行った。よかった。

あるいは足が痛くなって、実家の近くの裏道を這って進むはめになり、七転八倒しながら、両腕を使って移動したりもした。足は不随意に動き、はきものは脱げ、下着もずれて、もうどこに進んでいるのかも(とりあえず実家の方向ではあったけれど)わからずにただただつらかった。目が覚めてからも右足がじんじんと痛んでいて、夜になるまでそれは続いた。
 
同居人が、身よりのない5歳くらいの女の子を連れて帰ってきたので、一緒に住むことになった。静かな女の子で、ひとりで絵を描いたり、積み木で遊んだりしていた。私がひとりで眠っていると、女の子は積み木遊びをやめて私の部屋を覗きに来て「お母さん」と言った。それで私はその子の名前を呼んだのだったかさだかでないが、おふとんを持ち上げて女の子を招き入れ、一緒に眠った。血がつながっていなくても、「お母さん」と呼ばれたら、この子は私が守るしかない、という気持ちがした。そのあと、どうしてだかちょっとバターなんかが必要になり、不安になりながらも女の子におつかいに行ってもらった。しかし、女の子はいくら待っても帰ってこなかった。私は不安にさいなまれ、さっきの「お母さん」という言葉を思い出しながら、ああ私の娘、いったいどこに、と青ざめていた。不意に玄関が開いて、あっ、と思ったのも束の間、そこにいたのは同居人とその友だちで、私が怒って「何であなたなのよ」と泣くので同居人は戸惑っていたようだったけれど、そんなこと私にはどうでもよかった。

2015年4月24日金曜日

君の名はせとか

出かけている男に何となく、ケーキを買ってきて、と頼んだことがあって、男はその時、せとかのタルトをおみやげに帰ってきたのだった。せとかという涼やかな名前を持つ果物は、柑橘類の新しい品種らしかった。でも食べてみてあまりおいしくなかったので、タルトひとつ食べ終わるのに少し難儀した。せとかは、オレンジにも伊予柑にも少し届かない青い硬さがあって、カスタードクリームとはあまり合わなかった。冷蔵庫にしまって翌日までかかってふたつ全部たべた。私は本当はラズベリーとかブルーベリーのタルトが好きで、あの時欲しかったのはそういうケーキで、柑橘類はお菓子にはあんまりふさわしくないと思っているしそんなに好きじゃない、ということを、あの人にはついぞ言えないままだった。今日、八百屋の店先にせとかを見かけたのでそのことを思い出した。私はあの人のことが本当に好きだったし、憧れていた。あの人が私の好きなものをきちんと知って、いつも望みを叶えてくれていたらどんなに幸せだっただろう。これはおいしくなかった、ごめんなさい私せとかは好きじゃないみたい、とあの時ちゃんと言えたらどんなに良かっただろうと思うと今でも涙が出る。

恋というものについて「恋とは桃色などではなく黒なのであり、私は自分の欲望のあまりに黒さに押しつぶされそうになった」などと宣った男がいて、私はそれを聴いた時にひどく嫉妬したし、安っぽく言えば、もう立っていられない、とまで思った。何かを(できれば地に膝ついて私にかしこまった男の顔を)踏みつけたいとも思った。どれだけ愛されても懐かれても欲情されても、不十分である。必要とされてもなお足りない。恋という名の淵に落ち、黒い欲望につぶされてずたずたに傷ついてくれるまで、私はあなたを信用できない。ただそういう恋がしたい。

どうしてあんな男と一緒に過ごしていたのだ、と問う人がいて、いつもそれにうまく答えることができない。私が彼と一緒にいたのは、私が彼に恋していたからということに尽きる。その恋は無色透明で、かたちは涙の粒である。透明だから、誰にも見えなくて証明もできない。わずかに、透過した光がまわりの景色をゆがめるくらいである。

2015年4月21日火曜日

順番

すぐには眠れないので、横になってから、愛する人々が順番に死んでいくことを考えてしまう。母の身体が冷たくなって焼かれること、大型犬が気配を残したままで永遠に姿を消してしまうこと、弟が不幸な事故に見舞われること、そうした人々が死んだあとの世界で私だけ年を取っていくということ。かつていた人々の面影のある世界で、自分が生きている限りもう会えないのだ、と思い詰めてから、それならやはり死後の世界で再会できなければ人間に救いはない、とまで考える。考えてひとしきり泣く。自分が死ぬことを怖いとは、思えない。いつか死ぬとあまり思っていないのだろう。

2015年4月20日月曜日

つつじの死

咲き頃を迎えた道路脇のつつじは物量としてすさまじいものがあり、赤紫の派手な色も相まって、もうこれは狂騒、これが狂騒というのだわ、と独りごちながら歩いた。子供のころは多分に漏れず、花の蜜を吸って遊んだ。うてなから飛び出る虫の触角のような雌蘂を、気持ち悪いとも思わなかった。子供のころのこと、特に小学生だったころのことは思い出しているひまもあまりないし、そうしたいとも思わない。むっと香るつつじの蜜に、たいして美しくもない思い出がよみがえりそうになったので記憶をその場ではたき落とした。つつじは枯れたあとに散らばる花がらも汚くて嫌いである。

他人とけんかをするのは好かないが、けんかになることの方が私の人生では稀で、ずっと対等ではない関係のもと、私が相手を怒らせる、あるいは私が傷付けられる(と思い込むことも含めて)ことの方が多かった。けんかにもならない、もはや諦めが先に立つほどに大きな差異がある人とばかり、関わりを持ってしまう。

思うことを適切な言葉にできないせいで、他人や自分の生き方を無自覚に縛っているという人は本当にいる。たくさんいる。Twitterアカウントを開設している数十億の人のうち、あなたが気に入ってフォローしている人を除いたすべての人がそうだと言ってもいいくらいだ。私は言葉にして発することに希望を見出す人間である。巧拙を問うているのではなく、できるか、できないか。私はまだ、(自分にはある)能力がない、こと(人)への対応をどうするか迷っている。それは私が、言葉を駆使して生きようと思う決意とは何ら関係のないことではあるけれども。

2015年4月15日水曜日

元気がないと思ったんだ

浅い眠りに苦しむぐらいなら、薬を飲んで幻覚を見たほうがましなのだ、ということがなかなか伝わらず、薬をやめろとか飲むなとばかり言われてしまう。昨夜はチロルチョコが歩いてポケットに入るという幻覚を見て騒いでしまった、らしかった。携帯電話にはメッセージ履歴もたくさん残っていて、どうしてあんな状態であんなにたくさんの言葉を打つことができたのか、はなはだ疑問である。わけのわからないことを喋るが喋ったことは覚えていないし、そんな時にひとりで行動させると家の中でも何をするかわからなくて危ない。そう思うとたちの悪い酔っぱらいに近いのかもしれない。かくて今夜も、眠れない私の理性と薬に頼りたい気持ちのせめぎあいが始まる。単に薬をやめろと言う人は、私のこのせめぎあいのつらさを理解しようとしない。

お酒を飲めればしあわせ、というタイプの人が世の中にいる。そうした人々は、お酒で浮き世の憂いを束の間忘れ、また生きる気力をみなぎらすことができるらしい。私はお酒が飲めない。趣味である観劇をすれば思いわずらうことが増えてしまい、好きな読書をすれば没入しすぎて生活が疎かになり、ストレス解消に最適なスポーツは不得意で、その上お酒もたいして飲めないとなると、私はセックスにその効き目を託すほかない人生なのであった。

私のやりたいことが誰かをがっかりさせ、苛立たせ、私のやりたい気持ちを消沈させて暗く貶める。そこから自由になることは、その誰かを傷付けることでもあるけれど、ではどういう自由を選択したらいいのか、というようなことを、きっと書いていくことになるのだろう、と、さっき髪を乾かしながら思った。

2015年4月13日月曜日

誤嚥

何か食べるたび、喉が灼けるようになってときどき吐く。好きだったチョコレートが食べられない。電車の隣の席で男が読む漫画本の、紙のにおいが耐えられなくて途中下車して休んだりする。

そのうち話すわね、という言葉はもちろん、今は何も話したくない、という意味である。
 
人のメモ書きとか、ごく私的な手帳、秘密めかされて書かれた日記を見たりするのは嫌だが、見つけたら開くのをやめられないのがなおさら嫌だ。これまでは、私の知らないあの人を知るのが嫌なのだと思っていたけれど、あの人の目が見ていたものを見るのが、本当は怖い。

2015年4月8日水曜日

夕闇

とある中学生から、わたし遠距離恋愛をしているんだ、という話を聴いたけれども、それはたぶん身体を伴っていない話なので、私には恋愛とは呼べないと思った。身体がつながるから心がもつれるし、しがらみも生まれる。身体がなかったら、何をよすがに恋をしていいかわからない。

眠りが浅くて浅くて、とにかく目が覚めてしまう。薬を飲んでもいいのだが、幻覚を見るのではないかと怖くなるし、翌朝まで口の中が苦いし、明け方の行動の記憶はなくなるし、気力がない時にはちょっと避けたい。夕方、太陽が傾いたくらいの時間にセックスしてそのまま泥のように眠る感じがきっといちばん休まるのだけど、今はそのきもちよさを想像するだけだ。

2015年3月25日水曜日

極彩色の深海魚

睡眠導入剤を飲んだら幻覚を見てしまい、しかし薬が効きかけの朦朧とした中での幻覚だったのでよく覚えていない。触角のたくさんある魚が見えたように思う。色とりどりに重なって大量に浮遊していて、すごくこわかった。ずっと飲んでいたのに、こんなことは初めてだった。こわいこわい、と回らない舌で叫んで、助けを求めた。そのあとの自分の行為は健忘した。最近は眠ることが回復につながらないので参る。

2015年3月21日土曜日

運搬

言われてもいないことにまた怒ってしまい、暴力的な衝動をおさえながら、家までの坂道を歩いた。計画性のない大量の買い物をした私は、スーパーの袋を4つも下げて疲労困憊だった。午前中に生理が来ていて、しかも今月はすぐに出血が活性化して腹痛も強い回で、というのは「来たな」と思ってから本格的な出血に至るまで丸一日を要する回などもあるので、今月はこっちか……と思って辟易(いずれにしても生理には辟易である)していた。たとえるならば、甲殻類が脱皮をした直後の非常にやわらかくてまっしろい感じの状態の身体だった。やわやわよわよわな感じ。持っている4つの袋のうち、ひとつだけねぎの束が飛び出たものがあって、全体のバランスをひどく崩していた。袋はいずれも野菜、肉、金物や履物などの日用品でいっぱいで、持ちきれないものはリュックにも詰めてあり、だめ押しのように家の近くで水のペットボトル(2リットル)を2本も買った。しかし何とか持てないことはなかった。飛び出たねぎの束のあまりの不格好さと所帯じみた感じを噛みしめ、でもねぎの旨味はゆたかな生活に必要なものだから、と自分で自分を鼓舞した。家についてから荷物を台所の床に投げ出すように置き、ねぎの長い青い部分を即座に切り落として気分を晴らしたが、ねぎには可哀想なことをした。

2015年3月15日日曜日

祖父母の夢

法事か何かのにぎやかな席で、ずいぶん向こうに祖父を見つけた。祖父が出て来る夢を見るのは二度目だ。間をあけずに彼が私の夢を訪ねてくるのは何の理由があるのだろうと思う。祖父は私と目があうと、にこやかな顔になったけれども、席が離れていたので会話することはできなかった。祖父の隣には祖母がいて、しかし祖母は私に一瞥もくれず、冷たい顔をしていた。祖父が見守っていてくれることは何となくわかる。そして祖母からの強い警告も、もちろん感じ取っている。

2015年3月13日金曜日

残骸

どうしても、実家の、私の部屋だった場所を抜本的に片付けなければならなかったので、しばらく実家に通った。あまり片付けるものもないかと思っていたが、いざ行ってみると結構捨てるものはあるのだった。子どものころにもらった手紙や年賀状を丁寧にしまっていた箱があったので、中身をだいぶ整理した。その箱から、父が30年近く前に単身赴任していた頃に母と私と妹宛に送ってきたものが発見された。子どもだった私に向けては、ひらがなだけの短い手紙が入っていて、それはそれで愛情に満ちた涙ぐましいものだったのだが、つい私は、父が母に宛てた方の便箋を読んでしまった。おかげでずいぶん、片付けの作業が中断された。他にも、私がかつて考えかけて放棄した、小説の草稿とも呼べないような設定とプロットの書かれた原稿用紙もたくさん見つかった。自分で考えたお話のことはだいたい覚えているつもりだったが、まったく記憶にないものもいくつかあって、自分で自分のことが信用ならないとつくづく思った。この10年間に、自分がいかに古くなった(新しくなった?)か実感して、ほとんどひと思いに捨てた。

2015年3月12日木曜日

煙草の害について

とうとう煙草を買ってしまった。大学のころ、ふかし方から肺の中へ吸い込んでいくやり方を教えてくれた先輩のおかげで、今でも目眩のしないように吸うことができる。だからといって無理はしない。中途半端に3ミリグラムのものを吸う。最初に始めた時は8ミリグラムで、そこから長らく6ミリグラムと決めていたのだけれど、昨日たまたま入ったコンビニで、新製品を見かけたので買った。硬派マールボロの大衆マイルドセブン化が進んでいる、と思って、もうマイルドセブンじゃなくてメビウスっていうんだった、と思った。私が知っていた銘柄で、販売終了になって見かけなくなったものもずいぶん多い。煙草を辞めた日のことは、思い出したくもないほどよく覚えている。だからこれはほんの気まぐれにすぎず、案の定すぐに喉が痛くなった。夜はぜんぜん眠れなくて、久しぶりに睡眠導入剤を飲まないとどうにもならなかった。翌朝起きると喉の奥に薬の苦みが残っていて、ああこの味だわ、と思い出してひどく落ち込んだ。

2015年3月9日月曜日

ふるさと

中学生の時、学校の奉仕活動で特別養護老人ホームへ行った。介護の仕事を手伝えるわけもないので、お掃除とかレクリエーションの時間に何かさせてもらいに行ったのだと思う。クラスの半分くらいの人数で行ったように記憶している。食事の後、入居者の人々とビーチボールを使って遊ぼう、ということになった。それが、幼かった私には傲慢に見えてしまった。当時は祖母がまだ存命で、学問が好きで働き者の祖母のことを思うと、ビーチボールで遊ぶなんていうのはただ敬意を欠いたおこないに思えた。15歳だった私は、引率の数学教師に「おばあさんたちとボールで遊ぶのは子ども扱いしているようで嫌だ」と言った。数学教師は、私が輪から外れたことを別に咎めもしなかったが、遊びの時間が終わってから私に話しかけてくれた。「僕も、今老いた母を介護している」と彼は言った。「うまく言えないけれど、人は年を取ると子どもに戻っていく時間があるんだよね。だから、単に甘く見て子ども扱いしているわけでは、ないんだよ」。数学教師のつたない言葉に、当時の私はやっぱり納得できなかった。でも、今こうして書くことが出来るくらいには、記憶に残った。

木更津に行って、とある託老所を訪ねた。ちょうどお昼が終わったくらいの時間で、そこでは翁や嫗がめいめい、お昼寝をしたりこたつでテレビを見たりしていた。私はこたつに入って、彼らと少し意思疎通をしたり、お菓子の袋をあけてあげたり、彼らが飲むためのお茶を冷ましたりした。言葉を話すのが難しい翁がひとりいたけれど、彼はテレビに岩手の寿司屋が紹介されているのをうれしそうに指差して教えてくれた。彼が岩手の出身であることを、ボランティアの人が説明してくれた。私は彼らの日常を邪魔しないように、だけど心をこめて出来ることをした。15歳から倍以上も年を取って、何人かの死や、人の生き方のバリエーションを多く知って私も、翁や嫗がいつか来る未来の自分の姿の一つであることを理解できるようになったのだな、と考えていた。それから、数学教師のあの言葉をやはり反芻したりもした。おやつが終わると、場所の空気はゆったりと緩んで、少し静かになった。先ほどの翁がひとり、熱心にテレビに見入っていた。ふと、職員の若い女性が、童謡の歌詞を書いたスケッチブックを、私の隣に座っていた嫗のところへ持ってきた。嫗は歌が好きだという。私にも、ぜひ一緒に歌ってください、と職員の女性が声をかけてくれた。スケッチブックをめくると手書きで『ふるさと』の歌詞が書いてある。


兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷

如何にいます父母 恙なしや友がき
雨に風につけても 思いいずる故郷

こころざしをはたして いつの日にか帰らん
山はあおき故郷 水は清き故郷


職員の女性は「よかったね」と言いながら嫗の背中をさすった。「前は歌ってる時に泣いちゃったんだよね」。テレビには、四年前の津波の映像が大映しになっていて、先ほどの翁は食い入るようにそれを見つめていた。映っていた場所は、岩手の陸前高田だった。


さ霧消ゆる 湊江の
舟に白し朝の霜
ただ水鳥の 声はして
いまだ覚めず 岸の家

鳥啼きて 木に高く
人は畑に 麦を踏む
げに小春日の のどけしや
かえり咲きの 花も見ゆ

嵐吹きて 雲は満ち
時雨降りて 日は暮れぬ
若し燈火の 漏れ来ずば
それと分かじ 野辺の里


『冬景色』は嫗の好きな歌だという。嫗の声はか細い。側に寄っている私でさえ、聞き取るのがやっとだ。それでも彼女は確かに歌っていた。


かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
きたかぜぴいぷう ふいている

さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
しもやけおててが もうかゆい


秋の夕日に照る山紅葉
濃いも薄いも数ある中に
松をいろどる楓や蔦は
山のふもとの裾模様

渓の流れに散り浮く紅葉
波に揺られて離れて寄って
赤や黄色の色様々に
水の上にも織る錦


歌っているうちに、私の身体が拡張されて、喉から嫗の声が響いているような心持ちがした。嫗に身体を貸したつもりで、春も秋も冬もなくどんどん歌った。歌い終わった頃、ちょうど私たちの帰る時間になった。別れのあいさつのために嫗の手を取ると、彼女が小さな小さな声で「またきてね」と言ってくれたのが、私には聴こえた。

2015年3月1日日曜日

大型犬の看病

かつて大型犬は手術を受けた。もう数年前になる。生理のたびに、大きな身体から赤い血が垂れて、子どもを産めない年齢になってもなかなか閉経もせず(犬の更年期については私も不明な点が多いのだが)心配していたところだった。そこでかかりつけの獣医の英断により、子宮を摘出することになったのである。大型犬とはいえ、25kgしかない身体に手術は不安だった。寂しがりの大型犬が入院など出来るわけもないから、日帰りですぐに家に帰ってきた。毛を刈られた肌は鶏肉のようにざらざらで、かわいそうでおかしかった。麻酔が切れてからが大変で、大型犬はじっとテーブルの下で痛みに耐えており、ものすごく元気のない様子だった。私は不安のあまり、その夜は実家に泊まることにして、タオルケットと薄掛け蒲団を床に敷き、大型犬のそばで寝た。床は硬くて冷たくて、ちっとも眠れなかった。テーブルの下を覗き込むたび、少し荒い息をしている大型犬と目が合うので、優しく声をかけ、朝まで付き添った。その後、大型犬は順調に回復を見せ、今でもおっとり元気に暮らしている。私は大型犬のためなら、いつなんどきも、徹夜で世話をすることもまったく厭わない。

2015年2月27日金曜日

月下独酌

とある酔っぱらいに腹をたて、あまりに嫌気がさしたところ、帰宅してからの料理の際に包丁で深く指を切ってしまい、さらに悲しい気持ちになった。血はいつまでも止まらず、すわ血の海かと思われたが、壊死しない程度に傷口を押さえよとのアドバイスを携帯電話の向こうの友人からもらって何とか事なきを得た。

翌朝はかなり強い雨となった。劇場で演劇をひとつ観てから、神楽坂の出版社が運営するセレクトショップに行き、そこで売られている本をだらだらと物色した。「料理の本」「宇宙を感じる本」「旅の本」のような、さまざまなテーマ別にこぢんまりと本が並べられている中で、私の目を引いたのは、酒飲みにまつわる本をあつめたコーナーだった。私は『最後の酔っぱらい読本』という、吉行淳之介が編んだ、さまざまな作家たちの、酒にまつわる随筆集を手に取ってめくった。



中国語に<酒悲>という言葉がある。酒に悲しみをまぎらそうとし、かえって酒に悲しみを倍加させてしまうという意味にもちいられる。
(中略)
もちろん中国にかぎらず、人のいるところには必ず、葛藤と悲哀はあり、酒のあるところにはまた必ず、忘我とそれに背反する酒の悲しみというものがある。
(中略)
そして酒精のもつ魔性は、この<酒悲>の感情がわかりだすころに、加速度的に膨張する。一宵の宴席に酔いしれ、床の間を便所とまちがえたり、高歌放吟、その酒量の多さをほこったりしているあいだは、まだ無邪気な段階なのであって、まかりまちがえても、翌日、保護所の門をでるころには正常に復している。
(中略)
だが<狂酒>から<酒悲>の段階に移行すると、こんどは自分が無限に小さな存在にかんじられはじめる。つまり酒によって己れみずからを知ってしまうのだ。そして一人でなめるように酒をのみ、茫然と虚空に目をそそいで、なにかひとり言をしたりするようになりだすと、もう軽犯罪法ではいかんともしがたい状態になっているとみてよろしい。「いいお酒ですな」と人に感心されるようなのみかたが、あんがい静かな絶望の表現であったりする。
(「酒と雪と病い」高橋和巳)



最初に目についた章をここまで読んで、かの酔っぱらいを赦そうかという気が少しわいた。まあ、彼のあれが<酒悲>のためかはわからないけど、酒飲みもいろいろ大変だというのは、わからなくもない。私は気性が激しいだけで、そこまで強情ではないのだ。読みすすめると、筆者である高橋和巳は<酒悲>のあまり旅に出て、放浪したあげく病気になってしまい、今は酒が飲めなくてそれが悲しい、という境地に達し、それでその随筆は終わった。悲しいのにさっぱりとしたその文体にひどく同情して、とりあえずその本を買って近くの珈琲屋に行った。まあでも、私がかの酔っぱらいを本当に赦すかどうかは、次に会った時に決めよう、と思い、そこではこの本の続きは読まず、持っていた須賀敦子の随筆集(川上弘美が編者で、装丁もすばらしい。文藝春秋社の本)をしみじみ味わって、それでしばらく酔っぱらいのことは忘れた。

2015年2月25日水曜日

私たちの春

その日はとても春めいた気持ちのよいお天気で、アイサが空を見上げながら「日本のいちばんいい季節はいつなの?」と言った。「私は春と秋が好き」と答えて「日本の春はお花がたくさん咲くから本当にきれいなの、ほら、そこのつぼみも春の花よ」などと話しながら道を歩いた。「秋にも花が多いの?」とアイサが続けて言うので「そんなに花は咲かないけど、私は9月生まれだから秋が好き。それから、秋は紅葉がきれい」と教えた。彼女は「あ、紅葉って知ってる!」とはしゃいだ。そのあと「じゃあこれから春が来て、秋に向けてどんな仕事をしていくの?」と言われたので、日本の劇作家や俳優に話を訊いてインタビュー記事を書くことを継続してやっていこうと思ってる、と言った。そしてこれは自分でも驚いたけれど、その後にふと「今は日本語だけで書いてるけどそのうち英語でも書きたいなって思ってるよ」という言葉が自分の中から出てきたのだった。アイサは「それはいいわ」といって、自分が私の仕事の対象に入るかもしれない未来を、ごく自然に了解してくれたようだった。

2015年2月23日月曜日

黒髪の祖父

祖父が夢に出てきたことは、記憶にない。死ぬ直前よりもずいぶん若い姿で、彼は庭のほうから歩いて来た。その時私がいた場所はもう何年も前に取り壊してしまった祖父母の家で、縁側で祖父をじっと見ていたのだった。部屋の奥には祖母もいて、しかし彼女は、病を患ってベッドに臥せっていた。手を差し入れたベッドの中で触れ合った祖母の指の細さにぎょっとした。彼女はずっと無言だった。急に、廊下のほうで、弟の泣き声がした。私の弟は三歳くらいの姿で、涙を振り飛ばして泣いていた。よく聞くと弟は泣きながら「またみんなでおうちでおひるごはん食べたい」と言っている。弟を抱きしめて、頭をなでてなぐさめて、私も一緒に泣いて目が覚めた。起きてから、弟が三歳だったころの幸せな風景をいくつか思い出して、今自分のいる場所がそこからどれほど遠い場所であるか、考えてみるまでもないと思いながら現実でも少し泣いた。

2015年2月19日木曜日

男の子どもたち

やっぱりいつかきっと、遠くない未来に、たぶん子どもを持つだろう。持ってもいい、とあらゆるものから許される時が来て、そのとおりになるだろう。そんなことを考えていた夜のこと、もう寝ようかという時になって、急に頭をよぎったのは、私の子どもはきっと男の子で、どこか遠い異国の地で戦に倒れ、私よりも先に死ぬ、という予感だった。子どもを失った私は、悲しみに暮れ、また煙草を始めて、それがもとで肺がんになって死ぬだろう、ということまで感じて涙が出た。三十年の昔、私の曾祖母がそのように、フィリピンで戦死した長男を思って死んだように。

実家で何となく時間を過ごしていた。弟が二階から降りてきて、私のために新しいアールグレイの缶を開けてくれた。「まきちゃん、人にお茶淹れてもらうの好きでしょ」と彼はなにげなく言った。人に淹れてもらったお茶は、本当に味が違う。一日に何杯も何杯も、孤独にティーカップを干す私のことを、弟はよく知っているのだ。

2015年2月5日木曜日

シルキーちゃんの涙

ある明け方に私の夢に現れたシルキーちゃんは、魔法にかかって涙を流せなくなってしまったお姫さまだった。シルキーちゃんの呪いの秘密は港町のある場所に隠されていることまでわかったけれど、赤い宝石の結界に阻まれ、謎の解明には至らず目が覚めた。シルキーちゃんの涙のゆくえが今も気にかかる。

誰かの夢に登場できるのは嬉しい。もし人が私の夢を見たら教えてほしいし、いちばんいいのは、こんなふうに日記にして残してくれることである。

2015年2月1日日曜日

愛すべき子ども

私の中の幽霊が成仏した日に、わざわざ遠くの町のドトールまで出かけていって、背広の男と会った。背広の男は私の話を聞いて「どうかよく考えてから決断してほしい。わたしも、娘がきみと同い年で、きみと同じ仕事をしているから事情はよくわかる。父親からしてみればきみの気持ちは止められない。でも、くれぐれもよく考えてほしい」というようなことを、関西弁で言った。私は関西の言葉を話したことがなく、体内にその蓄積がないので、彼の言葉をここで再現することができない。

また男の子を生んで育てる夢を見た。これまでは私が誰の子とも知れない子どもを生む不安な夢ばかりだったが、今朝は初めて父親なる男性が登場して、一緒に育児をしてくれた。子どもは静かな手のかからない子で、父親によくなつき、ごはんを食べさせてもらっていた。それで私は何も困ったりあせったりせずに、その様子を眺めていた。

2015年1月29日木曜日

二人の食卓

帰りが遅くなった夜に、出来心でコンビニのグラタンを買って食べてしまった。おいしくなさに後悔して吐き出したいと思ったが、そんなふうに食べものを粗末にできるようには育てられていないのだった。ただ「虚しい」と思いながら咀嚼しつづけた。食べながら、私は何よりも、人が、私のいる前でコンビニのごはんを食べるのが嫌だったのだ、と初めて思い至ってフォークを噛みながら少し泣いた。おいしいと思うものを一緒においしいと思えるのが幸せ、などと人は言うが、まずいと思うものを一緒にまずいと思えない悲しみのほうが、私には重要なことなのだ。

2015年1月24日土曜日

愛といっても差し支えない2

20代の最後の最後で、とうとう彼女は、恋人と四年の交際を実らせて結婚を決めてしまった。結婚なんてつまらないものだよ、もっと自由な新しい生き方をしたっていいんだよ、とあれだけ忠告したにもかかわらず。

保守的な憧れで結婚するのではないのだからいいのだ、と彼女は言った。ただ来るべきときが来た、と思ったのだと。それを保守的と言うんだってば、と思わないでもなかったけれど、今、目の前、三方向に広がる大きな鏡に映る彼女は、真っ白なウエディングドレスを着て微笑んでいる。ふんわりしたスカートには、ばかみたいに大きなリボンがついていて、ひとりでこんなものを着た自分の姿を眺めていることに、彼女はちょっと興ざめした。夫になる男は、寝坊してドレスの試着にはやってこなかったのだ。

「もうちょっと、飾りのないシンプルなものが好みです」と、彼女は担当の女性に伝えた。そのあと選び直してもらったノーブルなデザインのものを何着か淡々と試着し、好きなものと似合うものは違うのだ、ということに気がついて彼女はドレスショップを後にした。結婚式は、これまでの自分の埋葬と引換えに行われる祝祭なのだ。そう考えた彼女は、帰宅の道すがら、愛する男たちに順番にお別れを言いに行くことに決めた。

男たちの部屋はどれも違っている。ある男の部屋は、出会ったころは整然と片付いていて、散らばっているものと言えば古いコンピュータ雑誌くらいだったのだが、彼女が通うようになってから、衣服とかコンビニ弁当のごみが床に放置されるようになった。彼女はどうも、男の先天的なだらしなさを引き出してしまうようなのだった。彼女がかいがいしくこの部屋を片付けることはもうないので、早く新しい娘が現れることを願ったけれど、彼女がいなくなれば、もとの几帳面な彼に戻るだろうとも思った。

ある男は、彼女が部屋を訪ねると競馬予想に夢中で、先週の負け越し金額を得意げに話してくれた。彼女は彼のそういう陽気なところが好きだったが、彼はあまりにも陽気に昼間から缶ビールをあけたりしていたので、彼女が黙って出て行ったことにも気づかなかった。

ある男は、西の都に娘と息子と妻を持っていた。妻がときどき監視にくるので、彼女は男の部屋には何も置いていなかった。いつ来ても、この部屋には男の妻の気配が満ちていて、彼女はその生活を浸食することをひそかにおもしろがっていた。男が彼女を好きでたまらないことはよくわかったが、会っているとき常にぺらぺらと子どもたちの成長について話し続けるのには閉口した。始めは、罪悪感からくる行為なのだと思っていたけれど、他に話すことがないのだとわかってからは、彼に対する彼女の興味は失せた。男は最近家庭菜園に執心で、餞別に、と言ってプチトマトを包んでくれた。彼女は、実用的な果実よりも、もっと役に立たない美しい花束がほしいと思った。もらったプチトマトはその場で一粒食べて、あとは公園に埋めた。

ある男は売れない小説家で、独りで3LDKの広い部屋に住んでいた。本当は人と住むつもりだったんだけど、と、いつだったか彼は言葉少なに語ってくれた。男は左胸にひよこを飼っていて、彼女が彼の胸に耳を当てると、いつもその声がぴよぴよと聞こえた。彼女が別れを告げると男は寂しそうに笑って、どこへも行くな、というかわりに、どこへでも行ってしまえ、と言った。彼女は彼の、真夏でも毛布をかけて眠るところが好きだった。一緒に眠るときは暑くて閉口したけれど、男たちの部屋を知るということは、彼らの寝室のルールを知ることで、それがうれしかったのだ。

最後の男は稼ぎの少ないミュージシャンで、実家住まいだったために彼女と会うのはいつもラブホテルの一室だった。だから、彼女が彼との生活をイメージできたことはなかった。最後に君を抱きたいと彼が言ったので、彼女は了承して服を脱いだ。さっきドレスの試着をしてきたことを思い出し、今日は家の外で服を脱いでばかりだな、とちらりと思った。男は彼女の従順さに満足して、結婚してもこれやろうよ、と言った。彼女はその得体の知れない意欲にあきれながら、笑ってそれを断った。

すべての男を見納めたあと、彼女は母に電話した。母は「ドレスの試着どうだった」と彼女に尋ねた。うん、再来週もう一度行ってそれで決めるよ、と彼女は答えた。母は「再来週なら私も都合がいいから一緒に行こうかしら」と言った。そのあとで、「とにかく結婚するというのは生活を選ぶということなんだからね」と、何か釘を刺すような口調で続けた。生活を選ぶってどういうことだろうと彼女は思った。生き方、っていうことかな。でもそれもたいそう保守的な言葉だな。だいたい、こんな自分にこれから先ずっと誰かと暮らしていくことができるのだろうか? 誰かなんて言ったって、そんなの夫と決めた男に決まっているのだけど。彼女は電話越しの「幸せになるのよ」という母の言葉に適当な返事をしてから切った。

彼女は一度自分の部屋に戻った。幾度となく鍵を回して帰ってきたこの部屋からも、もうすぐ去らなければならない。彼女と一緒にベランダに出て、マンションの五階から遠い夕日を眺める。幸せになるのよ、とさっき母は言ったけれど、これはこれで今結構私幸せなんじゃないかな、と彼女は思っていた。

もう少ししたら寝坊した男の家に行かなければならない。彼は、今日は家でゆっくりすることにしたらしく、婚約者のウエディングドレスの試着をすっぽかしたくせに、掃除や洗濯なんかして過ごしているらしい。その神経が彼女にはわからない。もちろん彼のことを彼女は好きだったが、その理由は実は未だによくわからないままで、しかしそのために彼女は彼を選んだとも言えるのだった。彼が何者であるかは無関係に、彼女は彼のそばにいたいと思っていた。何もかも、理由はわからない。それが愛なのかもしれないとぼんやり思ったりもする。彼を知るためなら、彼の未知を引き受けることができると思えたので、彼女は結婚することに決めたのだ。でも今日だけは、自分が閉めてきたいくつもの部屋の扉を思って少し泣きたい気分でもあった。

未知のものに惹かれながらも怯えて、涙をこぼしている彼女のこと、可愛いなあと思うけれど、そんな彼女とももうすぐお別れしなくてはならない。もう少しやさしい言葉をたくさん掛けてあげればよかったかな。でも彼女はそんなやさしさに惑わされるような子ではないものね。だから静かに、さようなら。幸せの正体がわからなくたって、幸せになることをどうか恐れずに。今の私に言えるのは、ただそれだけ。

ダイヤのパヴェ

いつもポーチを持っている。従姉のハワイみやげで、ハイビスカスの形のアップリケがついたものだ。中身は指輪と今年の初詣で買った学業お守りで、気分と場面によって、ポーチから様々な指輪を出して付け替える。いつもは右手の薬指にダイヤモンドの指輪だけをはめているが、週に二回はもうひとつ出して、左手にもはめる。雨が降ってほしくない日は、稀代の晴れ女だった祖母の形見のサファイアの指輪を取り出す。そういう時は実際よく晴れる。

ごめん眠っていた、という言い訳を受け取って1時間、銀座で待ちぼうけていた。綺麗な指輪をたくさんはめた私は、デパートの宝飾品売り場を見て時間をつぶすこともできずに、こうして日記を書いている。こんなふうに遅刻されるのは初めてじゃない。そう、もちろん初めてじゃない。黙って我慢しながら、今はくちびるの皮をむいている。

2015年1月23日金曜日

妻には家に居てほしい

多くの1LDK以上のマンションでは今、水仕事をしながらリビングのほうを見られるカウンターキッチンというものが普及していて、こうして漫然とテレビを見て夫を待つ暮らしというものを、洗い物をしながら何となく想像することもある。換気扇の下に置かれている灰皿に吸い殻を一つ足してから、散らばった灰を集めて掃除する。その時のことを思い出しながら、今は降り続ける雨の音を聞いている。

2015年1月22日木曜日

大型犬の歩み

大型犬を宥めすかしながら歩くのは、大変だが幸せな気持ちになる。大型犬はもう若くないので、階段を降りるのが苦手で、私が励ましたり、声をかけて支えてやらないとなかなか降りない。「ほら、がんばって」「もし落ちそうになっても絶対に支えてあげるから大丈夫」「おいで」と、優しい言葉を掛けつづけながら、大型犬の足を触ったりして歩き出すのを待つ。無事に降りられたら、ぎゅっと抱きしめて歩き出す前にひとまず体温を感じあう。大型犬は疲れやすいので、あまりたくさんは散歩しない。気まぐれで立ち止まったり、もの言いたげにこちらを見る時は、しっかり目を見てからだをなでて、わたしのほうから話しかける。返事はいつも、しっぽを見る。

2015年1月16日金曜日

意味はないけど寝てるあいだに首を絞めたい

抱きしめて頭をなでてもらって「ごめんね、僕が悪かった。悪かったよ」と言って謝ってもらえさえすれば、もうずっと穏やかな気持ちで一生を送れると思う。

少し昔のことだが、寝ているあいだについのど笛を噛みちぎろうかという気を起こす時期があって、しかし相手もどうやら夜中にわたしの首を絞めてみようと考えることはあったらしい。それを聞いて、本当にその相手を信用に足ると判断できたことは、大きな収穫だったと今でも思う。

もう5年も前にしんでしまった犬を今も思い出す。 ひとりでいる時は、過去の中でしか生きられなくて苦しい。側に人がいてこそ、未来のことを考えられる。しんでしまった犬は本当に一生懸命生きた犬で、気高く、いつも野生のたくましさを忘れない子だった。食い意地が張っていて、人間のいないあいだに饅頭を一箱ぬすみ食いしたことがあって、しかしあまりの量の多さに食べきれず、食い散らかしたのを残していたのでそれがばれたのだった。悪事のあとの彼女の腹のふくらみおよびその硬さを思い出すと、可愛くて懐かしくて涙がまだ出る。

食べすぎた子は愛おしい。欲望のまま行動した結果のまぬけさが、可愛くてせつない。たくさんの好きな食べものを心ゆくまで口に詰め込むのは、何と無防備でしあわせなことだろう。幼いころ一度だけ食べすぎて嘔吐したことがある。母のつくった食事で、それはどっちかと言えば妹の好物だったんだけど、わたしだってその料理はすごく好きだったので、その時はわたしがとにかくたくさん食べたのだ。気持ち悪くなって後悔するほどおなかいっぱい食べることなんてもうない。でも今はその料理はわたしの大切なレパートリーで、つくるたび、幼い日の嘔吐の思い出がよみがえる。

2015年1月12日月曜日

台湾の猿

その昔、父がまだ独身で若かったころ、彼の家では猿を飼っていた。父の父が台湾から戻ってくる時にもらってきたという、謎の猿である。なぜ台湾に行ったのか、勝手に動物を持ち込んで平気だったのか、今となっては何もわからないが、とにかく猿はその家に来た。雌の猿は、父のことをとても好きだった。ある時、父が結婚することになり、のちに私の母となる女を実家に連れて行った時、猿は母に飛びかかったという。父が抱いて宥めると、猿は父の肩越しに歯を「いー」とむき出しにして、母を威嚇しつづけた。母はそれからずっと、猿に怯えつづけた。母は娘をふたり生んだが、いずれの娘も、猿から大変に嫌われた。猿は母とふたりの娘をひどく脅すので、たいてい檻に入れられていたが、たまに出してもらうとすぐに父の膝に乗り、毛づくろいするように服の生地をなでていた。少し時間が経ってから母が父に似た息子を生んで、猿の住む家に連れていったところ、猿は彼を気に入って自分から膝に乗った。それで、私の弟は今でも「あの猿はかわいいところもあった」などと言う。私たち女からしてみたらかわいいどころではなく、歯をむかれて攻撃された恐ろしい思い出しかない。猿は化け物かと思うほどに長生きして、10年前に死んだ。そんな猿にも名前があったことをこの間久しぶりに思い出し、弟がその名を母に告げたところ「ああ、あの猿にも名前あったんだっけ」と、ぞんざいに言った。夫の愛人を侮蔑する正妻のような言いぐさだったが、猿にしてみれば母のほうがあとから現れて父を盗んだのであるから、先に死んでこんなに言われるのは報われないことである。

2015年1月8日木曜日

女の孤独

女が掃除機をかけるのは、不機嫌な時と決まっている。そういう時の女は家中のほこりがやたらと目につき、しかもそれには紙くずやら糸くずやら髪の毛やらが混ざっており、今すぐそのいまいましいごみどもを排除したくてならない状態であることが多いからだ。なぜほこりが目につくのかといえば、散らかす男、夫、あるいは子ども、それに準ずる存在のものものが女を苛立たせるからで、視界の隅でのんびり遊んでいるそうした人々ののどかさに比べ、私は今だってこんなにほこりまみれの家のことが気になってしょうがないのにお前ときたらまったく楽しそうだなこのやろう、という気持ちになるからなのである。そうしたら、音をたててほこりを吸う掃除機が、自分の憂鬱も吸い込んでくれるようにも感じるし、勢いよくがちゃがちゃとホースを走り回らせたくもなる。つい意地悪な心を起こして、ほこりをまき散らかす元凶たる男、夫、あるいは子ども、それに準ずる存在のものものを吸い取ったりしたくもなるというものだ。

2015年1月7日水曜日

息子たちの夢

今朝わたしが夢で生んだ子は従姉の子によく似ていて、そのことを母に告げると「ああそう」と嬉しそうな顔をした。不思議なことに私が夢で生むのは男の子ばかりで、女を育てたことはたぶんまだない。前に生んだ時も、飲ませるミルクがなくてどんどん腕の中で子どもが小さくなっていくのにおろおろしていたのだった。実際のわたしにはまだ授乳の経験がないので、夢の中でもそうしたことはできず、どうしたのかは思い出せないが、その時は9歳まで少年を育てたので大丈夫だったのだと思う。でも途中で妹や弟に、わたしでは子どもを育てられないと言われて彼を奪われそうになったのでそれが大変だった。そんなことを母に話したら「あなた思い込みが激しいのよ」と言われて、なんだか最近は、他人に思い込みの激しさを注意されてばかりだと思い、まあ、最近にかぎった話じゃないか、と思い直した。母は「やっぱり道ゆくお母さんを見てると、あなたも子ども育てたらいいんじゃないかと思うんだけど」としみじみ言って、「子どもを育てるというのは、なかなかの仕事よ」と優しく続けた。それを聞いてわたしはちっとも説教くさいとは思わず、ただ、できればその言葉に添いたいと思った。そのあと、今年は本厄だ、となにげなく言ったわたしに母は「お母さんはもう仏滅だってなんだって気にしないわ」という話をして「いいことはいいことだし、悪いこともいいこと」と強引にまとめた。

むかしむかし、たまごの白身が好きな弟と、黄身が好きな弟がいた。目玉焼きをつくってもらうといつも二人でうまいこと分け合い、ひとりは二個分の白身、ひとりは二個分の黄身で腹を満たしたのだという。でもそれから何十年も経ってしまって、今はどっちの弟が白身を好きで、黄身を好きだったのか、思い出すこともできない。

2015年1月6日火曜日

沈黙のうちに

誰が相手でも、言えることと言えないことがある。言いたいことと言いたくないことの別と似ているけれど、少し違う。そのことについて相手に説明する気は今のところない。

夜が深まる入口のころに、寂しくなって涙が出ることが多い。21時とか22時とか、そんなに遅くない時間である。走馬灯のようにちょっと昔のことを思い出すことがあまりに多くて、いよいよ本当の終わりが来たかな、と、思いながら泣くのである。

2015年1月3日土曜日

追込み馬の涙

横にぴったり並んで歩くことはもうない。いつでも私を気にせず行ってしまう背中を、3歩も4歩もうしろから、追いかける。距離が縮まることはあまりなく、いつか追い越そうという気ももう起きない。冬の夕暮れ、私の新しいブーツのかかとが蹄のように鳴る。