2015年2月27日金曜日

月下独酌

とある酔っぱらいに腹をたて、あまりに嫌気がさしたところ、帰宅してからの料理の際に包丁で深く指を切ってしまい、さらに悲しい気持ちになった。血はいつまでも止まらず、すわ血の海かと思われたが、壊死しない程度に傷口を押さえよとのアドバイスを携帯電話の向こうの友人からもらって何とか事なきを得た。

翌朝はかなり強い雨となった。劇場で演劇をひとつ観てから、神楽坂の出版社が運営するセレクトショップに行き、そこで売られている本をだらだらと物色した。「料理の本」「宇宙を感じる本」「旅の本」のような、さまざまなテーマ別にこぢんまりと本が並べられている中で、私の目を引いたのは、酒飲みにまつわる本をあつめたコーナーだった。私は『最後の酔っぱらい読本』という、吉行淳之介が編んだ、さまざまな作家たちの、酒にまつわる随筆集を手に取ってめくった。



中国語に<酒悲>という言葉がある。酒に悲しみをまぎらそうとし、かえって酒に悲しみを倍加させてしまうという意味にもちいられる。
(中略)
もちろん中国にかぎらず、人のいるところには必ず、葛藤と悲哀はあり、酒のあるところにはまた必ず、忘我とそれに背反する酒の悲しみというものがある。
(中略)
そして酒精のもつ魔性は、この<酒悲>の感情がわかりだすころに、加速度的に膨張する。一宵の宴席に酔いしれ、床の間を便所とまちがえたり、高歌放吟、その酒量の多さをほこったりしているあいだは、まだ無邪気な段階なのであって、まかりまちがえても、翌日、保護所の門をでるころには正常に復している。
(中略)
だが<狂酒>から<酒悲>の段階に移行すると、こんどは自分が無限に小さな存在にかんじられはじめる。つまり酒によって己れみずからを知ってしまうのだ。そして一人でなめるように酒をのみ、茫然と虚空に目をそそいで、なにかひとり言をしたりするようになりだすと、もう軽犯罪法ではいかんともしがたい状態になっているとみてよろしい。「いいお酒ですな」と人に感心されるようなのみかたが、あんがい静かな絶望の表現であったりする。
(「酒と雪と病い」高橋和巳)



最初に目についた章をここまで読んで、かの酔っぱらいを赦そうかという気が少しわいた。まあ、彼のあれが<酒悲>のためかはわからないけど、酒飲みもいろいろ大変だというのは、わからなくもない。私は気性が激しいだけで、そこまで強情ではないのだ。読みすすめると、筆者である高橋和巳は<酒悲>のあまり旅に出て、放浪したあげく病気になってしまい、今は酒が飲めなくてそれが悲しい、という境地に達し、それでその随筆は終わった。悲しいのにさっぱりとしたその文体にひどく同情して、とりあえずその本を買って近くの珈琲屋に行った。まあでも、私がかの酔っぱらいを本当に赦すかどうかは、次に会った時に決めよう、と思い、そこではこの本の続きは読まず、持っていた須賀敦子の随筆集(川上弘美が編者で、装丁もすばらしい。文藝春秋社の本)をしみじみ味わって、それでしばらく酔っぱらいのことは忘れた。

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