2015年3月25日水曜日

極彩色の深海魚

睡眠導入剤を飲んだら幻覚を見てしまい、しかし薬が効きかけの朦朧とした中での幻覚だったのでよく覚えていない。触角のたくさんある魚が見えたように思う。色とりどりに重なって大量に浮遊していて、すごくこわかった。ずっと飲んでいたのに、こんなことは初めてだった。こわいこわい、と回らない舌で叫んで、助けを求めた。そのあとの自分の行為は健忘した。最近は眠ることが回復につながらないので参る。

2015年3月21日土曜日

運搬

言われてもいないことにまた怒ってしまい、暴力的な衝動をおさえながら、家までの坂道を歩いた。計画性のない大量の買い物をした私は、スーパーの袋を4つも下げて疲労困憊だった。午前中に生理が来ていて、しかも今月はすぐに出血が活性化して腹痛も強い回で、というのは「来たな」と思ってから本格的な出血に至るまで丸一日を要する回などもあるので、今月はこっちか……と思って辟易(いずれにしても生理には辟易である)していた。たとえるならば、甲殻類が脱皮をした直後の非常にやわらかくてまっしろい感じの状態の身体だった。やわやわよわよわな感じ。持っている4つの袋のうち、ひとつだけねぎの束が飛び出たものがあって、全体のバランスをひどく崩していた。袋はいずれも野菜、肉、金物や履物などの日用品でいっぱいで、持ちきれないものはリュックにも詰めてあり、だめ押しのように家の近くで水のペットボトル(2リットル)を2本も買った。しかし何とか持てないことはなかった。飛び出たねぎの束のあまりの不格好さと所帯じみた感じを噛みしめ、でもねぎの旨味はゆたかな生活に必要なものだから、と自分で自分を鼓舞した。家についてから荷物を台所の床に投げ出すように置き、ねぎの長い青い部分を即座に切り落として気分を晴らしたが、ねぎには可哀想なことをした。

2015年3月15日日曜日

祖父母の夢

法事か何かのにぎやかな席で、ずいぶん向こうに祖父を見つけた。祖父が出て来る夢を見るのは二度目だ。間をあけずに彼が私の夢を訪ねてくるのは何の理由があるのだろうと思う。祖父は私と目があうと、にこやかな顔になったけれども、席が離れていたので会話することはできなかった。祖父の隣には祖母がいて、しかし祖母は私に一瞥もくれず、冷たい顔をしていた。祖父が見守っていてくれることは何となくわかる。そして祖母からの強い警告も、もちろん感じ取っている。

2015年3月13日金曜日

残骸

どうしても、実家の、私の部屋だった場所を抜本的に片付けなければならなかったので、しばらく実家に通った。あまり片付けるものもないかと思っていたが、いざ行ってみると結構捨てるものはあるのだった。子どものころにもらった手紙や年賀状を丁寧にしまっていた箱があったので、中身をだいぶ整理した。その箱から、父が30年近く前に単身赴任していた頃に母と私と妹宛に送ってきたものが発見された。子どもだった私に向けては、ひらがなだけの短い手紙が入っていて、それはそれで愛情に満ちた涙ぐましいものだったのだが、つい私は、父が母に宛てた方の便箋を読んでしまった。おかげでずいぶん、片付けの作業が中断された。他にも、私がかつて考えかけて放棄した、小説の草稿とも呼べないような設定とプロットの書かれた原稿用紙もたくさん見つかった。自分で考えたお話のことはだいたい覚えているつもりだったが、まったく記憶にないものもいくつかあって、自分で自分のことが信用ならないとつくづく思った。この10年間に、自分がいかに古くなった(新しくなった?)か実感して、ほとんどひと思いに捨てた。

2015年3月12日木曜日

煙草の害について

とうとう煙草を買ってしまった。大学のころ、ふかし方から肺の中へ吸い込んでいくやり方を教えてくれた先輩のおかげで、今でも目眩のしないように吸うことができる。だからといって無理はしない。中途半端に3ミリグラムのものを吸う。最初に始めた時は8ミリグラムで、そこから長らく6ミリグラムと決めていたのだけれど、昨日たまたま入ったコンビニで、新製品を見かけたので買った。硬派マールボロの大衆マイルドセブン化が進んでいる、と思って、もうマイルドセブンじゃなくてメビウスっていうんだった、と思った。私が知っていた銘柄で、販売終了になって見かけなくなったものもずいぶん多い。煙草を辞めた日のことは、思い出したくもないほどよく覚えている。だからこれはほんの気まぐれにすぎず、案の定すぐに喉が痛くなった。夜はぜんぜん眠れなくて、久しぶりに睡眠導入剤を飲まないとどうにもならなかった。翌朝起きると喉の奥に薬の苦みが残っていて、ああこの味だわ、と思い出してひどく落ち込んだ。

2015年3月9日月曜日

ふるさと

中学生の時、学校の奉仕活動で特別養護老人ホームへ行った。介護の仕事を手伝えるわけもないので、お掃除とかレクリエーションの時間に何かさせてもらいに行ったのだと思う。クラスの半分くらいの人数で行ったように記憶している。食事の後、入居者の人々とビーチボールを使って遊ぼう、ということになった。それが、幼かった私には傲慢に見えてしまった。当時は祖母がまだ存命で、学問が好きで働き者の祖母のことを思うと、ビーチボールで遊ぶなんていうのはただ敬意を欠いたおこないに思えた。15歳だった私は、引率の数学教師に「おばあさんたちとボールで遊ぶのは子ども扱いしているようで嫌だ」と言った。数学教師は、私が輪から外れたことを別に咎めもしなかったが、遊びの時間が終わってから私に話しかけてくれた。「僕も、今老いた母を介護している」と彼は言った。「うまく言えないけれど、人は年を取ると子どもに戻っていく時間があるんだよね。だから、単に甘く見て子ども扱いしているわけでは、ないんだよ」。数学教師のつたない言葉に、当時の私はやっぱり納得できなかった。でも、今こうして書くことが出来るくらいには、記憶に残った。

木更津に行って、とある託老所を訪ねた。ちょうどお昼が終わったくらいの時間で、そこでは翁や嫗がめいめい、お昼寝をしたりこたつでテレビを見たりしていた。私はこたつに入って、彼らと少し意思疎通をしたり、お菓子の袋をあけてあげたり、彼らが飲むためのお茶を冷ましたりした。言葉を話すのが難しい翁がひとりいたけれど、彼はテレビに岩手の寿司屋が紹介されているのをうれしそうに指差して教えてくれた。彼が岩手の出身であることを、ボランティアの人が説明してくれた。私は彼らの日常を邪魔しないように、だけど心をこめて出来ることをした。15歳から倍以上も年を取って、何人かの死や、人の生き方のバリエーションを多く知って私も、翁や嫗がいつか来る未来の自分の姿の一つであることを理解できるようになったのだな、と考えていた。それから、数学教師のあの言葉をやはり反芻したりもした。おやつが終わると、場所の空気はゆったりと緩んで、少し静かになった。先ほどの翁がひとり、熱心にテレビに見入っていた。ふと、職員の若い女性が、童謡の歌詞を書いたスケッチブックを、私の隣に座っていた嫗のところへ持ってきた。嫗は歌が好きだという。私にも、ぜひ一緒に歌ってください、と職員の女性が声をかけてくれた。スケッチブックをめくると手書きで『ふるさと』の歌詞が書いてある。


兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷

如何にいます父母 恙なしや友がき
雨に風につけても 思いいずる故郷

こころざしをはたして いつの日にか帰らん
山はあおき故郷 水は清き故郷


職員の女性は「よかったね」と言いながら嫗の背中をさすった。「前は歌ってる時に泣いちゃったんだよね」。テレビには、四年前の津波の映像が大映しになっていて、先ほどの翁は食い入るようにそれを見つめていた。映っていた場所は、岩手の陸前高田だった。


さ霧消ゆる 湊江の
舟に白し朝の霜
ただ水鳥の 声はして
いまだ覚めず 岸の家

鳥啼きて 木に高く
人は畑に 麦を踏む
げに小春日の のどけしや
かえり咲きの 花も見ゆ

嵐吹きて 雲は満ち
時雨降りて 日は暮れぬ
若し燈火の 漏れ来ずば
それと分かじ 野辺の里


『冬景色』は嫗の好きな歌だという。嫗の声はか細い。側に寄っている私でさえ、聞き取るのがやっとだ。それでも彼女は確かに歌っていた。


かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
きたかぜぴいぷう ふいている

さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
しもやけおててが もうかゆい


秋の夕日に照る山紅葉
濃いも薄いも数ある中に
松をいろどる楓や蔦は
山のふもとの裾模様

渓の流れに散り浮く紅葉
波に揺られて離れて寄って
赤や黄色の色様々に
水の上にも織る錦


歌っているうちに、私の身体が拡張されて、喉から嫗の声が響いているような心持ちがした。嫗に身体を貸したつもりで、春も秋も冬もなくどんどん歌った。歌い終わった頃、ちょうど私たちの帰る時間になった。別れのあいさつのために嫗の手を取ると、彼女が小さな小さな声で「またきてね」と言ってくれたのが、私には聴こえた。

2015年3月1日日曜日

大型犬の看病

かつて大型犬は手術を受けた。もう数年前になる。生理のたびに、大きな身体から赤い血が垂れて、子どもを産めない年齢になってもなかなか閉経もせず(犬の更年期については私も不明な点が多いのだが)心配していたところだった。そこでかかりつけの獣医の英断により、子宮を摘出することになったのである。大型犬とはいえ、25kgしかない身体に手術は不安だった。寂しがりの大型犬が入院など出来るわけもないから、日帰りですぐに家に帰ってきた。毛を刈られた肌は鶏肉のようにざらざらで、かわいそうでおかしかった。麻酔が切れてからが大変で、大型犬はじっとテーブルの下で痛みに耐えており、ものすごく元気のない様子だった。私は不安のあまり、その夜は実家に泊まることにして、タオルケットと薄掛け蒲団を床に敷き、大型犬のそばで寝た。床は硬くて冷たくて、ちっとも眠れなかった。テーブルの下を覗き込むたび、少し荒い息をしている大型犬と目が合うので、優しく声をかけ、朝まで付き添った。その後、大型犬は順調に回復を見せ、今でもおっとり元気に暮らしている。私は大型犬のためなら、いつなんどきも、徹夜で世話をすることもまったく厭わない。