2015年4月24日金曜日

君の名はせとか

出かけている男に何となく、ケーキを買ってきて、と頼んだことがあって、男はその時、せとかのタルトをおみやげに帰ってきたのだった。せとかという涼やかな名前を持つ果物は、柑橘類の新しい品種らしかった。でも食べてみてあまりおいしくなかったので、タルトひとつ食べ終わるのに少し難儀した。せとかは、オレンジにも伊予柑にも少し届かない青い硬さがあって、カスタードクリームとはあまり合わなかった。冷蔵庫にしまって翌日までかかってふたつ全部たべた。私は本当はラズベリーとかブルーベリーのタルトが好きで、あの時欲しかったのはそういうケーキで、柑橘類はお菓子にはあんまりふさわしくないと思っているしそんなに好きじゃない、ということを、あの人にはついぞ言えないままだった。今日、八百屋の店先にせとかを見かけたのでそのことを思い出した。私はあの人のことが本当に好きだったし、憧れていた。あの人が私の好きなものをきちんと知って、いつも望みを叶えてくれていたらどんなに幸せだっただろう。これはおいしくなかった、ごめんなさい私せとかは好きじゃないみたい、とあの時ちゃんと言えたらどんなに良かっただろうと思うと今でも涙が出る。

恋というものについて「恋とは桃色などではなく黒なのであり、私は自分の欲望のあまりに黒さに押しつぶされそうになった」などと宣った男がいて、私はそれを聴いた時にひどく嫉妬したし、安っぽく言えば、もう立っていられない、とまで思った。何かを(できれば地に膝ついて私にかしこまった男の顔を)踏みつけたいとも思った。どれだけ愛されても懐かれても欲情されても、不十分である。必要とされてもなお足りない。恋という名の淵に落ち、黒い欲望につぶされてずたずたに傷ついてくれるまで、私はあなたを信用できない。ただそういう恋がしたい。

どうしてあんな男と一緒に過ごしていたのだ、と問う人がいて、いつもそれにうまく答えることができない。私が彼と一緒にいたのは、私が彼に恋していたからということに尽きる。その恋は無色透明で、かたちは涙の粒である。透明だから、誰にも見えなくて証明もできない。わずかに、透過した光がまわりの景色をゆがめるくらいである。

2015年4月21日火曜日

順番

すぐには眠れないので、横になってから、愛する人々が順番に死んでいくことを考えてしまう。母の身体が冷たくなって焼かれること、大型犬が気配を残したままで永遠に姿を消してしまうこと、弟が不幸な事故に見舞われること、そうした人々が死んだあとの世界で私だけ年を取っていくということ。かつていた人々の面影のある世界で、自分が生きている限りもう会えないのだ、と思い詰めてから、それならやはり死後の世界で再会できなければ人間に救いはない、とまで考える。考えてひとしきり泣く。自分が死ぬことを怖いとは、思えない。いつか死ぬとあまり思っていないのだろう。

2015年4月20日月曜日

つつじの死

咲き頃を迎えた道路脇のつつじは物量としてすさまじいものがあり、赤紫の派手な色も相まって、もうこれは狂騒、これが狂騒というのだわ、と独りごちながら歩いた。子供のころは多分に漏れず、花の蜜を吸って遊んだ。うてなから飛び出る虫の触角のような雌蘂を、気持ち悪いとも思わなかった。子供のころのこと、特に小学生だったころのことは思い出しているひまもあまりないし、そうしたいとも思わない。むっと香るつつじの蜜に、たいして美しくもない思い出がよみがえりそうになったので記憶をその場ではたき落とした。つつじは枯れたあとに散らばる花がらも汚くて嫌いである。

他人とけんかをするのは好かないが、けんかになることの方が私の人生では稀で、ずっと対等ではない関係のもと、私が相手を怒らせる、あるいは私が傷付けられる(と思い込むことも含めて)ことの方が多かった。けんかにもならない、もはや諦めが先に立つほどに大きな差異がある人とばかり、関わりを持ってしまう。

思うことを適切な言葉にできないせいで、他人や自分の生き方を無自覚に縛っているという人は本当にいる。たくさんいる。Twitterアカウントを開設している数十億の人のうち、あなたが気に入ってフォローしている人を除いたすべての人がそうだと言ってもいいくらいだ。私は言葉にして発することに希望を見出す人間である。巧拙を問うているのではなく、できるか、できないか。私はまだ、(自分にはある)能力がない、こと(人)への対応をどうするか迷っている。それは私が、言葉を駆使して生きようと思う決意とは何ら関係のないことではあるけれども。

2015年4月15日水曜日

元気がないと思ったんだ

浅い眠りに苦しむぐらいなら、薬を飲んで幻覚を見たほうがましなのだ、ということがなかなか伝わらず、薬をやめろとか飲むなとばかり言われてしまう。昨夜はチロルチョコが歩いてポケットに入るという幻覚を見て騒いでしまった、らしかった。携帯電話にはメッセージ履歴もたくさん残っていて、どうしてあんな状態であんなにたくさんの言葉を打つことができたのか、はなはだ疑問である。わけのわからないことを喋るが喋ったことは覚えていないし、そんな時にひとりで行動させると家の中でも何をするかわからなくて危ない。そう思うとたちの悪い酔っぱらいに近いのかもしれない。かくて今夜も、眠れない私の理性と薬に頼りたい気持ちのせめぎあいが始まる。単に薬をやめろと言う人は、私のこのせめぎあいのつらさを理解しようとしない。

お酒を飲めればしあわせ、というタイプの人が世の中にいる。そうした人々は、お酒で浮き世の憂いを束の間忘れ、また生きる気力をみなぎらすことができるらしい。私はお酒が飲めない。趣味である観劇をすれば思いわずらうことが増えてしまい、好きな読書をすれば没入しすぎて生活が疎かになり、ストレス解消に最適なスポーツは不得意で、その上お酒もたいして飲めないとなると、私はセックスにその効き目を託すほかない人生なのであった。

私のやりたいことが誰かをがっかりさせ、苛立たせ、私のやりたい気持ちを消沈させて暗く貶める。そこから自由になることは、その誰かを傷付けることでもあるけれど、ではどういう自由を選択したらいいのか、というようなことを、きっと書いていくことになるのだろう、と、さっき髪を乾かしながら思った。

2015年4月13日月曜日

誤嚥

何か食べるたび、喉が灼けるようになってときどき吐く。好きだったチョコレートが食べられない。電車の隣の席で男が読む漫画本の、紙のにおいが耐えられなくて途中下車して休んだりする。

そのうち話すわね、という言葉はもちろん、今は何も話したくない、という意味である。
 
人のメモ書きとか、ごく私的な手帳、秘密めかされて書かれた日記を見たりするのは嫌だが、見つけたら開くのをやめられないのがなおさら嫌だ。これまでは、私の知らないあの人を知るのが嫌なのだと思っていたけれど、あの人の目が見ていたものを見るのが、本当は怖い。

2015年4月8日水曜日

夕闇

とある中学生から、わたし遠距離恋愛をしているんだ、という話を聴いたけれども、それはたぶん身体を伴っていない話なので、私には恋愛とは呼べないと思った。身体がつながるから心がもつれるし、しがらみも生まれる。身体がなかったら、何をよすがに恋をしていいかわからない。

眠りが浅くて浅くて、とにかく目が覚めてしまう。薬を飲んでもいいのだが、幻覚を見るのではないかと怖くなるし、翌朝まで口の中が苦いし、明け方の行動の記憶はなくなるし、気力がない時にはちょっと避けたい。夕方、太陽が傾いたくらいの時間にセックスしてそのまま泥のように眠る感じがきっといちばん休まるのだけど、今はそのきもちよさを想像するだけだ。