2015年8月30日日曜日

ある日(砂丘)

砂丘へ行くと決めていた。準備をして列車に乗り込んだ。斜め前の席では、さぞかし鉄道が好きなんだろうな、という風貌の男が時刻表を読んでいた。彼は早めに弁当を食べてコンディションを整え、くつろいでいた。そして眺めのいい鉄橋がある駅で停車のわずかな時間にホームに降り、一眼レフのシャッターを切っていた。私も真似して、ホームに片足だけ降りてみて、携帯電話で写真を撮った。

鳥取に着いて、そこらじゅうにあふれる、ちびっこ名探偵の人気漫画ポスターを横目にバスに乗った。バスには夏休みの子どもたちがまだ多く乗っていて、ひとりの翁がにこにこと彼らに話しかけていた。「何歳?」と子どもから訊かれた翁は「二十歳だよ」と答えたりして、子どもを混乱に陥れていた。ごくごく小さな子には、二十歳も八十歳も、自分の想像をはるかに超える年齢という点では同じである。

砂丘の入口に「砂に落書きをしないでください」などという注意書きがあって、そのひとつに「砂を持ち帰らないでください」というものがあった。ショベルカーなんかでお持ち帰りされたら困るし、砂丘にとって砂は大切なものだから(というか、不可欠)持ち出しの禁止はなんら不当ではないな、と考えていたところに、初老の男が家族連れでやってきて、その表記に怒り始めた。「なんだよこれは、砂くらいご自由にお持ち帰りくださいって書けよ、気分わりいなあ、なんで砂取っちゃいけねえんだよ」と家族の前で延々と言っている。所有する権利を否定されただけなのにここまで怒るなんて、強欲だ。みずからの所有物やなわばりが侵されることに過剰な拒否反応を示す人間こそが田舎者である。

巨大な砂丘は、馬のたてがみが流れるさまに似ている。馬が伏せ、顔を地にうずめたその背中に、登ってみた。サンダルではなく、日を浴びた砂の温度にも耐えるスニーカーを履いてきて正解だった。みんな家族や友だち、恋人といて、日傘をさしながらひとり黙々と砂山をのぼっているのは私だけだった。私の前を歩いていた中学生の少女が振り返ってカメラを構え、あとから来る両親、妹、弟の写真を撮った。「撮るよー、こっち向いてー」と言う少女の言葉に、家族は立ち止まって肩を寄せあった。ついそれを見てしまって、ああ、私はひとりでこんなところまで来てしまって、二度と家族といっしょにあんなふうに写真に収まることは、できないのかもしれないと思った。

城崎に来てから、猪苗代湖のことをよく思い出す。子どものころ、よく行った湖である。私は海と川にほとんど行かずに育った。原風景として心の中にある水辺、それはいつでも湖だ。だから、大きな海を、流れる川を見ると、なんて遠いところに来てしまったんだろうと思って帰りたくなる。どこに帰ったらいいのかわからないのに、ただ帰りたいとだけ思うのだ。馬のたてがみのような巨大な砂山のてっぺんにたどりつき、荒ぶる群青の日本海をはるか下にのぞみながら、いったいどうしたらいいのか途方に暮れた。日を遮るものが何一つない砂丘の上で、北国の湖のことをひたすら考えていた。ずいぶん長くそうしていた。

帰りの山陰本線の中で、日がどんどん暮れていくのを味わった。知らない町で、夜を迎えるのはとても寂しい。飛び去るように過ぎてゆく景色を眺めながら、この町に隠れ住んだら、きっと誰にも見つからずに別人になってしまうのではないかと怖くなった。もう私には何の重しもなくて、砂丘の砂みたいに、ただ風に吹かれて風紋をつくるような生き方しかないのかもしれないと思いつめたところで、列車は城崎温泉駅に到着した。

ある日(こども園)

5歳の少女と交わした約束は重い。その一心で、7時に中学校昇降口でおこなわれるラジオ体操に行った。少女と目が合って、手を振りあった。ラジオ体操第二を、見よう見まねで初めてやった。体をほぐす画期的な動きがいくつか含まれていて、蒙が啓かれる思いだった。そのあと、寺での子ども座禅会にも付いていった。Fはすでに子どもたちと顔見知りで、何だか人気があった。

アートセンターは、大きな貸し館案件が入っていて騒がしかった。今日明日と使用されるらしい。ここが、大会議館と呼ばれていたころから毎年行われている泊まりがけの集まりとのこと。駐車場を整理している人々の中に、見知った若旦那を何人もみつける。旅館組合で、宿泊と運営の対応にあたっているそうだ。荷物だけ置いて、滞在初日に私を駅からアートセンターまで送ってくださった旅館のご主人、H氏を訪ねてお話を訊きにいく。昔の町並みのこと、H氏が城崎に戻ってきた1995年という時代のこと、城崎独特の "世代" の感覚についてなど。

すっかりH氏の旅館に長居してしまい、急いで座禅会をしている寺のそばの、こども園に向かう。座禅会のごほうび会として、そこで子どもたちがピザづくりをしているので混ざる。園長である寺の副住職は、機械に強く、行動力がある。ピザを焼くための石釜は、園庭の隅に副住職がレンガを積んでつくったものである、というのは、町の人から聞いてすでに知っていた。Fは一週間くらいもう座禅に通っていたからいいけど、私は今朝、たった一回しか行っていないのにお邪魔していいのかな、と思った。しかし、次の瞬間にはこども園のぞうぐみの部屋の床に座り、子どもたちと生地をこねて具を選んでは乗せていた。この町では、ためらうよりも先に、人々が受け入れてくれるのだ。園長へのごあいさつは、ごうごうと燃える石釜の前でおこなった。「アートセンターに滞在しているものです。よろしくお願いします。あの、これ、私のピザです」「どうもどうも。ピザ、ここに乗せちゃってください」「はい」という感じで、園長にピザを焼いてもらった。

フォトスタジオの長女が、盆に乗せて焼けたピザを次々にぞうぐみまで運んでゆく。子どもたちの母や父もいて、私に缶ビールを分けてくれた。こども園で、幼児向けサイズの低い木の椅子に腰かけてビールを飲んだ。ご住職もあらわれ、旦那衆、お嫁さんたちが男女のグループにわかれておしゃべりしている中で、私は子どもたちと大いに遊んだ。手をつないで走ったり、でんぐり返しを手伝ったり、絵本を読んであげたりなど。男の子は、楽しくなると熱くなって図に乗り、制御不能になるなあと思った。人見知りの女の子が、私に抱っこされるのを嫌がらなかったのがいちばん嬉しかった。フォトスタジオの三姉妹と、明日もラジオ体操で会う約束をして、帰った。

2015年8月28日金曜日

ある日(台風)

今日もFは律儀にラジオ体操と座禅に行った。フォトスタジオの次女がとうとう、私は来ないのかとFに10回も訊ねたというので、明日は行かねばなるまいと決意する。

台風の来そうな気配。昼前にFとフォトスタジオに行く。先客がいらした。旅館の若女将と、その娘さん(5)。子どもたちが2階で遊んでいるすきに、店舗併設のカフェスペースで紅茶とチーズケーキをいただきながら若女将と少しお話しする。

城崎の女性たちはアートを必要としている。町おこしや過疎対策のためではない、日々の自分の暮らしをみずみずしく変容させるものを、心から求めている。芸術にはそれができると私は知っている。だけど、さまざまな要因が彼女たちを芸術から遠ざけている。私は城崎にいて、今それがいちばん苦しい。

Fは町中まで用があってどうしても行くと言う。私も同行する予定を立てていたが、あまりに雨風が強いのであきらめてカフェで待つことにした。子どもたちは強風の中しゃぼん玉をつくっていた。Fが帰ってくるまで、子どもたちとタブレットで動画撮影をして遊んだ。別れ際、「明日ラジオ体操来る?」と次女に訊かれて「うん、行くよ」と言わないわけにはいかなかった。この世に生まれてまだ5年しか経っていない、つぶらかなあの瞳を裏切ることは、誰だってできない。

ある日(レクチャー、花火)

フォトスタジオの三姉妹と指切りをしたために、Fは毎朝ラジオ体操を第一、第二までこなしたのち、極楽寺の子供座禅に参加してアートセンターに戻ってくる。次女(7)が、私は来ないのかと、毎朝Fに訊ねているらしい。

駅前のカフェにはすっかり通いつめている。代々城崎で暮らす、この店の姉妹に助けていただくことは大変多い。児童書のクレヨン王国シリーズに登場するレストラン「サザンクロス」のアンナとグルーニカ姉妹を思い出す。長々とお茶をしてから柳湯に行き、すっかり体の力が抜けた感じで自転車に乗ってアートセンターに帰る。

アートセンターで、早めの夕食の準備をしていると、芸術監督HO氏が登場した。私がHO氏を始めて知ったのは、子供の頃にやっていた土曜夜のニュース番組「ブロードキャスター」のコメンテーターとしてである。カタカナの名前が子供心に不思議だったし、男だろうけど女の人にも見える気がしたし、劇作家っていう職業も謎だし、HO氏はとにかく子供の私にとって印象深い人物だった。そのHO氏が今、私の真横で、アートセンターの面々と打合せもかねて食事をしていた。特に急いで箸を口に運んでいるわけでもないのに、いつのまにか食べ物が消え、皿が空になっていくのが不思議だった。速すぎて逆に止まって見える、みたいなことかもしれないと思った。

『光速・日本近代演劇史』講義は、最前列にすわって、聞き漏らすことなく学んだ。HO氏の話す速度は光のように、早く、狂いがなく、質疑応答の時間に至るまでタイムマネジメントは完璧だった。

今夜は、毎晩打ち上がっていた花火の最後の日。灯籠流しもおこなわれる。講義が終わったのが20:40頃だったので、すぐに自転車でアートセンターを飛び出した。浴衣の人々を追い越して、大谿川をめざす。一の湯に自転車を置いて、川下のほうまで歩いてゆく途中でアンナ・グルーニカ姉妹の姿を見つけた。川のない町にしか暮らしたことのない私は、灯籠流しが珍しい。ほとんどはもう川下の網にかかって回収されようとしているところだったけれど、もっと時間があったら、ゆっくり立ち止まって、水面をすべるたくさんの灯籠のひとつひとつを眺めたかった。やわらかい灯籠のあかりは、晩夏のさみしさをかき立てるようでもあり、なぐさめてくれるようでもある。

姉妹と別れ、Fとふたりで川下からさらに踏切を越えたところにある屋外のバーに向かった。ここからは、花火がよく見えるのだ。HO氏も何人かの人と一緒にバーに現れた。たこ焼き、ビール、野性的などぶろくなどで皆で2時間ほども話した。HO氏の言葉はこれまでも書物、雑誌などで見聞きしているが、彼が理論立てて、「どうして芸術が社会に必要なのか」とか「芸術はどのように意義深いのか」というように 「芸術のちから」を語る時が、私はいちばん感動する。

2015年8月26日水曜日

ある日(写真)

朝、フォトスタジオの奥さんからメールをもらう。店舗に併設のカフェが、本日は営業しているとのことなので伺う。ここの長女(9)はFに懐いている。私が先にカフェに着くと、Fは来ないのかと、まっさきに訊ねてきた。城崎の子供たちはまったく人見知りをしない。お話をつくって遊ぶのが好きな長女は、物を書いて暮らしているらしい大人の男を、珍しく思いながら慕っている。その様子がかわいくて、つい応援するような気持ちで見てしまう。その長女が、子供のころ生まれる前の記憶を持っていた、というような話を聞きながら、自家製梅ジュースをいただく。日替わりおやつは、グレープフルーツのくりぬきゼリーで、長女と次女が揃って「お母さんのゼリーすごいよ。ほんとのグレープフルーツみたいだよ。見る?見てみる?」 と嬉しそうに教えてくれるので、一切れ注文した。ゼリーをすくって食べているところに、遅れてFが来たので、子供たちはいっそうはしゃいだ。

13時半の列車に乗って一時帰京。東京にいる間に演劇を4本観る。2日後の22時過ぎに城崎温泉駅に到着。Fは私のいない間、山の上の寺のバーベキューにお呼ばれしたり、老舗旅館を見学したり、京都に演劇を観に行ったり、古い城跡に登ったりしていて、執筆は全然しなかった(やや誇張あり) 。

2015年8月23日日曜日

ある日(一番札、野球)

Fと朝から桃島地区に行く。田の水を流しに来た翁と話し込む。道路幅拡張の話、水害対策の話など。また会えるだろうか。田に張り巡らされた電気柵の近くまで、初めて行く。子供がこのあたりを歩いたら危険ではないだろうか。不安に思ってしまうのは、私がいかに農業を知らないかという証にも思える。(調べたら、よほど心臓が弱くないかぎり、びりっとして驚くくらいで、死にはしないとのこと)

ランチは寿司屋。高校野球の準決勝。第一試合は7対0の大差で終わった。私とFが寿司を食べていると第二試合が始まって、1回裏であっという間に点がたくさん入った。ご主人も、観光客も、私たちもみんなテレビを観ていた。高校野球が人の感動を誘うのは、若さのためだけではないと思う。一度負けたら終わり。その一回の勝負が人を引きつけ、酔わせる。若い選手であるというだけで眩しいのに、彼らのこの戦いが一度きりだなんて! でも、私が感動を分析するのは、そういう感動の消費から逃れるためでもある。

思いたって、前から並びたいと思っていた、外湯の「一番札」に並んだ。7つの外湯のうち、7時に開くものが4つ、13時が1つ、15時が2つある。そのうち15時に開く柳湯の、一番乗りの客をめざしたのである。お盆のあいだは、2時間も前から並んでいる人がいたりして、手が出なかった。今日なら如何、ということで14時10分にひとりで駅前のカフェを出て、向かってみた。Fはまだカフェに残って執筆していた。一番札という目標ができると、柳湯方面に向かって歩く人間のすべてが柳湯をめざしているように見える。小走りにたどりつくと、まだ誰もいなかった。入口の引き戸の前に陣取る。時折、足湯に浸かりにくる親子連れやカップルがいるけれども、彼らは家族や恋人を置いてまで一番札に並ぶことはないので警戒に値しない。問題は、ひとりでふらふら現れる、見巧者ならぬ湯巧者である。できれば、Fが来るまで待って、ふたりで男湯と女湯の札を制覇したい。私のひそかな野望もむなしく、頭に手ぬぐいをまき、アロハシャツを着たパンクな男が自転車で現れた。こなれた手ぬぐいのまき方。観光客の衣装とも言うべき浴衣ではなく、通気性のよいアロハシャツ。そして単独行動に便利な自転車。完全なる、温泉街の猛者の姿だった。Fも柳湯をめざしてカフェを出たと連絡をよこしてきたが、すでに猛者が男湯に並ぼうとしていた。しかし……! 男は看板の営業時間を確かめると「なんだ、15時からか。あと10分もあるじゃねえか」と捨て台詞を吐き、「じゃあ一の湯行くか」と自転車で走り去ったのである。湯へのこだわりがなく、一刻も早く浸かれることを重視するタイプの猛者であったため助かった。ほどなくしてFが柳湯に到着し、無事に男湯一番乗りの座を手中におさめた。Fが並んで数十秒後には次の客が来たので、危ないところだった。手にした一番札は、木で出来た絵馬のような形をしていて、こんなにも嬉しいものかと思った。

Fは、おなかがすいて観劇に集中できないという状態を恐れるたちである。朝、ミートソースを煮込んでおいたので、夕方アートセンターに戻ってからスパゲティを茹でて食べた。ほどなくして「God Bless Baseball」のショーイング。東京、神戸、城崎から集まった観客たちが、浮遊する言語とポーズ、アイデンティティに翻弄されていた。本番を観た8歳の少年が終演後に「おもしろかった。満足しました!」と出演者のN嬢に直接伝えてきたという話を、あとで鴻の湯の脱衣所でN嬢から聞いた。そんなふうに彼女と外湯で会えるのも、今夜限りだった。

人の大勢いた打ち上げは深夜まで続き、さらに客人が皆帰って夜が更けたあとは、観光人俳優Y氏から寄せられた「日本語における『きれい』『美しい』の違い」というテーマを大いに議論したりして過ごした。

2015年8月19日水曜日

ある日(テロ、バッタ)

タイのバンコクで爆発が起きたとのニュース。重体の邦人は31歳。1983年生まれ。そういう共通項がないと近しく感じられないのか。決してそうではない、でも、と悩みながら不安定な気持ちのままとにかくアートセンターを出る。大学を卒業したあと会社づとめをして、今はそれをやめて城崎で活動している私と、会社員を続けてバンコクに駐在していた彼の、辿った道すじのことを考える。可能性としては何も違わない。人ごとでない。じゃあ人ごとだったら考えなくていいのか、そうじゃない、でも。

昨日、自転車のかごに止まっていたバッタが、朝までそのままだったので仰天した。この自転車は昨夜、Fが海沿いの居酒屋で深酒し、ともに呑んだ僧侶に車で送っていただいた際に(僧侶はノンアルコール)後部座席に積みこんで運ばれてきたにもかかわらず、である。さすがに、今日も町内を連れ回すのはかわいそうに思い、枝に移してアートセンター前のしげみに放した。

をり鶴というお寿司屋さんでランチの心づもりが休日だったので、喫茶スコーピオのカレーに。私はアートセンターに戻り、食堂で仕事。

大ホールでの稽古を終えた『God Bless Baseball』の座組が食堂にやってきたので、某媒体のインタビューをそのまま始める。城崎に来てから文字起こし4本目。口調を残し、人柄が立ちのぼるように構成すべし、などなどのFの指導もだんだん肌に染みこんできている。

夜、心配になって見に行くと、枝に乗せたバッタはそのまま葉っぱの間でじっとしていた。ものぐさなのか何なのかはわからないが、臆病なバッタが自転車で知らない場所に来て冒険する、ピクサーの映画でも出来そうである。

2015年8月18日火曜日

ある日(かき氷、テレビ)

スパゲティ用のトマトソースをつくっていると、O氏が現れて稽古前の食事の用意を始めた。アートセンターのキッチンはコンロもシンクもたくさんあって、家庭科室のようである。少し離れた場所でフライパンを返しているO氏と、茄子の炒め方の話などをする。私は「油を吸うので、やっぱり最初に茄子だけ炒めて面倒でもお皿に取り出すのがいいと思いますよ」とお伝えした。

温泉街の中にある蕎麦屋さんに、かき氷を食べにいく。誘ってくださったのはFと親しい若旦那。ソフトクリームの土台に氷の山をかぶせ、水飴シロップとコンデンスミルクをかけて、あずきを乗せたもの。冷たくて甘くてすばらしい。京都から若旦那を訪ねていらした客人も合流し、しばらく話す。生霊と死霊の話をしていたら、急に豪雨がアスファルトを叩く音が聞こえはじめてびっくりした。蕎麦屋をおいとまして、Fとすぐそばの喫茶店で雨やどり。靴を濡らしたくないので、何とか傘をさして自転車で移動する。

お盆を過ぎて、外湯も通常の人の入りになってきた。ピーク時は湯船でかしましく騒いでいた若い娘のグループなども、今はお母さんに抱かれて温泉に初挑戦するみどりごを見守り、 「あつない? だいじょぶ?」と優しく気づかう余裕を見せている。

Fの自転車のかごに、バッタが止まった。何時間も、自転車を置いて風呂に入って戻ってきても、そのままだった。Fはバッタを付けたまま城崎を走り回った。少し離れた地区まで来た時に、かごに向かって「おうちから遠いところに連れてきちゃってごめんね」と謝っているのが聞こえた。動植物に対して、彼はときどき謎の慈悲を見せる。

海沿いの小料理屋、海猫に行く。昼間かき氷を食べた若旦那、Fと三人。あとでアートセンター職員のY氏も合流。焼き鳥を食べながら話す。調子に乗ってトンカツも揚げてもらう。私が日記で、女性の体は年齢を重ねるごとに個性があらわれる、と書いたのを、男性諸氏は新鮮に読んだようだった。「年配の女性の体を見る機会はそんなにないし」とFの弁。確かにそうだ。「しむらけんのコントの、あのおっぱい垂れさがったイメージ」と若旦那か誰かが言って、私はしむらけんを見ることを禁じられて育ったのでよくわからなかったけれども、まあステレオタイプな造形が何かしらあるということはわかった。しかし、テレビで老いた男の体は放映しないなあとも思った。まんがでもコントでも、老いた男性器(※おっぱいとの記号的対比で、ここでは男性器を用いる)の絵は見かけない。男たちは、女が老いるのは笑えるけれど、自分たちの体が老いるのは見ないふりをしたいのかもしれない。

ちょうどテレビではしむらけんのコント番組をやっていて、しむらけんが床屋でシャンプーしてもらっている時に理容師のおっぱいが彼の顔に当たるエッチな場面を映していた。小料理屋には、父親らしき男と息子らしき小学生が来ていて、じっとそれを見ていた。父親が「こんなことあるわけないわなあ」と笑うと、息子は恥じらいと女体への興味の混じった顔でうつむき「うん」と言った。コントは、しむらけんが目を開けると、おっぱいの持ち主は太ったおじさんだということがわかるところで終わった。

ある日(エントランス、盆踊り)

朝食の仕度をしにキッチンに行くと、エントランスの方から少女の声がした。何度かこの町で会い、一緒に遊んだこともあるあの子だとすぐにわかって、声をかけに行った。「一緒にあそびたい」と、少女はおっとりと、意志の強さを感じさせる落ち着きをもって言った。「待ってね、今ごはん食べてるから」と言うと少女は食堂に来て、私が朝食をとっている間、自分のはめているおもちゃの指輪や髪かざり、かばんのなかに持っているペンダントなどを見せてくれた。ペンダントのひとつに、彼女の誕生日が刻まれており、それは私の誕生日と一日違いだった。「お姉ちゃんとお誕生日が近いね。もうすぐお誕生日だね」と言うと、まだカレンダーをよく知らない彼女は「どうして?」と問い返してくる。とっさに「だって5歳になってずいぶん経ったでしょう」などと答えてしまう。「もうすぐ6歳だね」と言ってあげると「お姉ちゃんは?」と訊かれて、まあ、嘘を言っても仕方ないから「32歳になるよ」と教えた。少女は、32歳の女というものがよくイメージできないらしく、怪訝な顔をしていたが、すぐに「今日は朝プリキュアやってなかったの。野球だった」と別の話を繰り出してきた。

その時、N嬢が食堂にやってきた。少女は、私とN嬢と3人でおせんべ焼けたかなをしよう、と提案した。それでエントランスのソファに座って、手のひらを差し出しあっておせんべ焼けたかなを5周くらいした。続いてかごめかごめをしたが、ひとりが真ん中で鬼をすると手をつないでまわるのはふたりなので円周が小さくなり、目がまわった。それから、グーチョキパーで何つくろうの歌とか、アルプス一万尺とか、お寺のおしょうさんがかぼちゃの種をまきましたとか、だるまさんが転んだとか、たくさんの遊びをして午前中を過ごした。

お昼は、ちょっとだけ手をかけて料理をしようと思った結果、オムライス。

夕方、近所のフォトスタジオのI夫妻に誘っていただいて盆踊りへ。浴衣の帯がいい感じに締められたので、気分よく歩く。にぎやかな神社に行ったら、ぜひお盆の魂をお送りしたい気持ちがして、城崎音頭にあわせて1時間ほど櫓のまわりをぐるぐる踊った。

戻ってから、食堂で晩酌。打合せを終えたO氏、O嬢も合流して、地酒をいくつか呑みくらべる。あてはオクラ、油揚げ、塩昆布、かつおぶし、梅肉をポン酢であえて冷や奴にのせたもの、ラタトゥイユ、豚肉のみょうが巻き味噌風味など。Fは昨夜の飲み過ぎを反省したそぶりで、なんとその場にいた人々の中でいちばん早く、23時過ぎに部屋に戻って就寝した。反省というよりは、山登りによる足の痛みが残っていたとか、そんな理由ではないかと思う。

2015年8月17日月曜日

ある日(パーティ)

朝はまず山の中腹にある寺をめざして、石段を上る。降りる時に数えたら477段あった。お寺では、ご住職にお会いすることができ、寺の謂れをおそわったり、観音様を見せていただいた。ご本尊は、30年に一度御開帳とのこと。次は3年後に開いて、そこから3年飾ったのち、また30年しまう。

Fとりっきーは、更なる山道に分け入っていった。私は別の場所を歩くことにしてしばらく付近を探索した。のち、アートセンターの前から桑の木のある場所をめざして歩いてみたが、道が険しく遠いので断念した。峠を上る600メートルと、平地の600メートルはまったく意味が違うことをすでに学んでいる。

りっきーを駅で見送る。Fは連日の山登りリサーチでかなり疲労した様子を見せ、やや不機嫌。でも、自分でどうしてもそのルートを辿りたいと言ったのだし、寝れば治るのだし、どうせ人が何を言ったってやりたいようにやるのだから、無視。疲れて打合せができなくなったり、スケジュールがぐずぐずすることは避けたいので、そのむね告げる。

O氏の発案で、一品ずつの持ち寄り飲み会をすることになり、アートセンター食堂に皆が集まる。鶏肉と付け合わせのポテトサラダをつくった。O氏のゴーヤチャンプルー、N氏のアドボ(フィリピンの酢の効いた煮物)、N嬢の厚揚げとクリームチーズ、さやいんげんの和えものなど、大変おいしかった。Fは、私に教えてもらいながら(何を教えることがあろうかという気もするが)枝豆をゆでた。韓国から来ているY氏はインスタント麺を調理してくれて、これもビールにあう素晴らしい食べものだった。I女史が通訳をしてくれるので、日韓のメンバーで食事は大いに盛りあがった。そういう、終戦の日だった。

2015年8月15日土曜日

ある日(河原、はしご)

目が覚めて、動き出しが少し重たくなっている。小さな町に長く滞在して仕事をする時は、誰でもこうなる時期がくると、先月小豆島で話した作家が言っていた。いつものように基礎体温を測って記録する。低いのが続いていてなかなか上がらない。待つしかない。

明け方の雨がやんで、晴れ間がのぞいたのでアートセンターを出る。鴻の湯の駐車場に落ちていた赤い下着はなくなっていた。さすがに誰かが片付けたのだろう。駅向こうのパン屋をめざし、日傘をさして歩く。パン屋でウインナーパンとチョココロネを買って、すぐそばにあった階段から川の堤防によじのぼる。私の心の中にあるいちばん大きな川は東京の隅田川で、もちろん背景は永代橋、箱崎のIBM本社、スカイツリーなんかだ。こんなふうに山や田んぼや沢ガニや鷺のいるところではない。でも、川のほとりでパンを食べると安心するのは変わらない。川沿いの道が続くかぎり歩いていって、道の尽きるところまで行ってから引き返してもと来たように帰る。帰り道も、細い路地をたくさん入ってみたので、何倍も時間がかかった。

夜は柳湯へ。七つの外湯のうち、いちばん小さいのだが木の香りが豊かで、私はいちばん気に入っている。しかし今夜も、若い娘があまりにも多く入っていて、もうこの時間には来たくないと思うほど閉口した。いや、開口して小言のひとつでも言おうかと思うほどだった。柳湯はお湯が熱めなのだが、娘たちが「熱い熱い」と湯の中で暴れるので、かき回されてゆっくりつかっているこちらにも熱い波が来る。不本意だ。洗い場と脱衣所にあふれる娘たちの四肢を見て、何だか密集したシメジみたいだなと思う。

中華料理屋から焼き鳥屋、流しの唄うたいのやってくるバーを回って夜は更けた。こんな人生を送ることになるとは思ってもいなかった、と城崎に来てから何度も考えている。

2015年8月13日木曜日

ある日(雨)

「取り返しがつかない」という気持ちになる夢をよく見る。信頼している人に裏切られたり、無視されたり、ぼろぞうきんのようになって目を覚ます。夢でよかった、と最近は考えない。何でこんな夢見たんだろうと、ただ精力を失って茫然とする。

朝から雨が強かったが、スーパーマーケットを二軒まわる。2日分くらいは、これで食べられるだろう。N嬢が昨日つくっていてうらやましくなったので、焼きそばの麺と野菜を買って帰り、お昼はそれですませた。

テキストを頭の中でまとめながら、アートセンターのキッチンにあるまな板を、片っぱしから漂白、消毒した。私は水回りの掃除が趣味なので、楽しんでおこなった。大きなキッチンなので、やり残しが少しある。近いうちにまたやるつもり。

夜は、稽古を終えて食堂で執筆中だったO氏と、つるむらさきの調理方法などについてちょっと話した。そのあと、Fとりっきーを呼んで食事をした。カレーと、つるむらさきの胡麻あえ。食後に作戦会議をしている間に、O氏がシンクの調理器具や食器を洗ってくださったことには、あとで気づいた。

ある日(プールサイド)

抱えている仕事に悩みながら朝、キッチンに降りるとN嬢が焼きそばをつくっていた。隣で私もパンケーキを焼いて、食事にした。パンケーキを焼くのは今日が初めてだったので、かたちも焼き方も何もかも失敗してしまった。急いで食べて、駅前に向かった。

Mが帰京。帰りついたのちも、メールでアドバイスなどを送ってくれる。一見休むように見えることも、必要な時間なのだということがMの言葉だとよくわかる。そろそろ、何がいつの出来事だったか分からなくなってきていて、休んで整頓しないと難しいと感じる。原稿を仕上げ、編集部に送る。キッチンで夕食をつくっている時にオーケーの電話をもらい、小躍り。城崎屈指の名家であるホテルのプールサイドバーにお呼ばれして、アートセンターを出ようとしたところでずぶ濡れのりっきーと遭遇。雨が降り出しているようだった。プールサイドでは、フローズンカクテルを飲んだ。その夜にいただいたお風呂は大変広く、優雅なつくりだった。

2015年8月12日水曜日

ある日(海水浴、花火)

朝のしたくをしていて、洗顔用のせっけんをなくしたことに気づいた。すぐに昨日の柳湯に置き忘れたのだとわかったが、取りに行こうとは思わなかった。高価なせっけんではあって、もったいないのだけど、もらったものだし、その相手のことを思い出すとまああのせっけんはどこか遠い地で誰かの手に渡っていく方が、いいかな、いいよな、という気になったからである。私のせっけんよ、どこかで誰かの肌をうつくしく磨いてあげてほしい。

アートセンターからいちばん近い外湯、鴻の湯の駐車場にもう3日も同じ赤い下着(男もの)が落ちていて、見るたび気になる。私がはじめてそれに気づいたのが3日前というだけで、実際はもっと前からあるのかもしれない。

隣町の駅に行って、30分ほどかけて海岸まで歩いた。海水浴場はにぎわっていて、海にはすいかのかけらとか、浮き輪をつけた子どもとかがたくさん浮かんでいた。男たちは、半島の先端の灯台をめざして山をのぼっていった。 私は途中までついていったけれど、これは無理だ、とすぐ判断してひとりで先に降りた。それで、別の突堤とか岩場とかを歩き回った。思いついて観光案内所で電動自転車を借り、ひと山越えた海水浴場や、奇岩を見に行ったりした。山を降りた男たちを迎えに行くと、彼らはぐったりして汗に濡れたシャツを乾かしていた。バス、電車を乗り継いで帰れる方法と時間を調べるのは、いつも私がやる。

城崎では毎晩花火があがる。10分ほどの小さなものだが、平日は毎晩。今日は浴衣を着て、それを見に行った。町ゆく人々のように、浴衣を着て歩いてみることで発見もあった。まず、あまりにも涼しいので、冬が心配である。何を羽織るのか、何を履くのか、など。そういう気持ちを知れたことはよかったし、浴衣とはいえ、和服を着るのは楽しくて良かった。

リサーチメンバーのひとり、りっきーはその昔保育士をしていて、今日も同じ場所に居合わせた5歳の少女と上手に遊んであげていた。少女はりっきーの似顔絵を描いたりして、ごきげんだった。別れぎわ、母親の自転車に乗せられた少女はうしろを振り返って「りっきー、どこから来たのー?」と問いながら遠ざかっていった。彼女は、城崎の町には住む人よりも旅をする人の方が多いことを5歳にしてすでに知っているのだった。りっきーは手をふって、自分の住む町の名を叫んだが、自転車はすでに遠くなっていて、それが彼女に聴こえたかはわからない。

2015年8月11日火曜日

ある日(スーパー、キッチン)

頭は起きているのに体が動かない時間が続いていて、そうこうしているうちに、アートセンターの消防訓練のサイレンが鳴る時間になってしまい、大音量におびえながら時間が過ぎるのを待った。そこから気を取り直すまでにまた1時間くらいかかったけれど、窓の外の日差しが昨日までよりやわらかい気がしたので、麦わら帽子は置いて出かけた。しめつけるものを、半日以上頭の上に乗せていると頭痛がしてしまう。ネックレスも、数時間していると肩がこって頭痛のもとになるので、なかなかできない。ぶらさがる大きなピアスなども。

鴻の湯で、やもりが地面を這うはえを食べる瞬間を見た。食べるかな、と思って、やもりがはえに近づいていくところから見ていたのである。捕食のあと、やもりはするすると物陰に引っ込んでしまったので、私もその場を離れた。

スーパーで、同じくアートセンターに滞在中のO氏にたまたまお会いする。ここでは、地元産の野菜やたまご、肉などをかごにいっぱい買っても、東京よりよほど安いのだった。

夕方から夜にかけて仕事をし、休みがてら夜の風呂にゆく。ちょうど花火があがる時間で、川にかかる橋には浴衣姿のひとびとがずらりと腰かけて、空を見上げていた。ひときわ大きな花火が、その日最後の花火だと、誰もがわかって拍手を送るのは不思議なことである。しかし、そのあとの湯が混んだ。 柳湯というごく小さな、しかし檜の香りたかい、私の気に入りの湯に行ったのだけれど、あとからあとから若い娘がおおぜい押し寄せてきて、芋洗いのようになってしまった。芋であればまだよくて、若い娘の体がひとところに、服を着ない状態で密集しているのはおそろしいものがある。おびただしい数の裸体が放つ無防備で図太い空気に、気持ち悪くさえなった。娘たち、というより、哺乳類の群れ、という言葉が浮かんだ。人それぞれに、本当に形のちがう乳房を眺めていたからかもしれない。若い体というのは、束になると当てられる。波長の短い、エネルギーの強い光線でも発しているのかもしれない。

夜、キッチンで食事をこしらえている時に、最近私が書いた文章の中の、横浜駅の描写の話などをした。それで遠い横浜のことを思いながら、スーパーで昼間買ってきた肉と野菜を炒めて食べた。


横浜駅には足りないものがたくさんあって、不満をあげればきりがないのであんまり行かない。中でもカフェはぜんぜん足りない。別に普通の、炭水化物やたんぱく質のような栄養素を取りたい場合のたべもの屋には事欠かないが、道を歩けばコーヒーチェーンばっかりで、本がたくさん並べてあって落ち着いた雰囲気があるとか、焼き菓子がとてもおいしいとか、テーブル同士がじゅうぶんな距離を取っていてリラックスできるとか、日当りがよくて外を見ているだけで楽しいとか、そういうカフェがないのである。そのくせ、安っぽい居酒屋チェーンとかラブホテルだけはひそやかに、しっかりと、あるのだ。人間のごく普通の欲望のラインを、過不足なく満たすだけの町。よぶんな洒落っ気や、空間のあそびがあまり存在しない町。
『人魚が星見た・第一話』

2015年8月10日月曜日

ある日(温泉岩)

外に出た瞬間に、日傘を忘れたことに気づいた。少し考えたが、取りには帰らず鴻の湯に向かう。若いお嬢さんたちのグループに行き合い、にぎやかな朝風呂となる。20代までは、体を見れば年までもほぼわかる。それは自分が来た道だからでもあるが、おおよそ35歳くらいからは個人差がはげしくなって、男も女も、体を見ただけでは年がわからなくなる。若い40代か、不摂生な30代かなどは、日々の過ごし方によって表れ方がことなる。

ロープウェーのたもとで、アイスを食べてF、Mを待つ。玄米キャラメル味。この広場には「温泉岩」(わたし命名)という岩があって、それは城崎温泉の原泉を柵でかこったものなのだけど、いつも、つい吸い寄せられるように見てしまう。大きな岩から80度のお湯が吹き出している、ゆたかな岩である。冬はさぞかし湯気でもうもうになるだろうな、とまだ見ぬ城崎の冬のことを考えながらアイスを食べていると、 Mが来た。アイスのよもぎ味を買って食べはじめる。草餅をまるめてアイスにしたらこういう味にちがいない、という楽しさ。もうしばらくしてFが来たので、3人でロープウェーに乗る。乗り場までは石段がだいぶあって、それを見たひとりの老人が、降りてきた乗客に「上には何がありましたか?」と先取りして訊ねていた。聴かれた人は「まあ、町と川くらいですかね」と身もふたもないことを言い、老人は石段をのぼる意欲を失ってしまったが、家族に取りなされて結局乗り場までやってきた。

ロープウェーで山をのぼっているあいだじゅう、下にひろがる森を見て、木の種類などを数えていた。ぱちくりした目の生きものと目があって、「あ」っと思った。鹿の剥製かな? 何でこんな山の中に鹿の剥製が飾ってあるのだろう? と血迷ってから、いやいや本物の鹿だろうよ、と思い直すまで0.1秒ほどで、鹿はぴょんと走ってもう消えていた。びっくりすると、本物ではないのでは、とすぐ思い込んでしまうくせが自分にはあるのかもしれない。たとえば私が山育ちで、日常的にけものに注意を払う生活をしてきていたら、そんな考え方にはならないのではないか。まったく、私は都会で愚鈍な暮らしに慣れきっているんだ、とやたら自分を責める気持ちがわいたが、ロープウェーの終点について山の景色を見たらすぐ元気になって広場を歩き回って満喫した。確かに、町と川しか見えるものはないけれど、見え方が重要なのだ。何だってそうだ。

山を降り、列車で隣の駅の玄武洞へ。円山川のほとりで電話をすると、渡し船が迎えにきてくれた。船頭である壮年の女性の導きにより、数分でわれわれは対岸のミュージアムについた。先に食事をすることにして、レジで食券を買おうとしたところ、三角巾を頭にまいて現れたのは先ほどの船頭女史で、「あれっ、船もお食事もなさるんですね」と言うと彼女は「そうですね、呼ばれたら船もこぎますし、われわれみんなオールマイティにやらさせていただいております」と言った。真の仕事人は、みずからの仕事をやたらと語らない。

城崎温泉界隈に帰り、駅前のさとの湯につかる。体力がここで尽き、アートセンターに戻って休む。ふたたび部屋を出られた時は19時半を回っており、あたりの道はすっかり暗くなっていた。温泉岩の前を通りかかると、もうロープウェーもアイスクリーム屋も終わっていて、暗い公園の中でお湯だけがこんこんと湧きつづけていた。当たり前だけど、誰も見ていなくても温泉岩からお湯は湧いている。寂しい夜、むなしい夜、どこかに思いを馳せたい夜に思い出すものが私にはいくつかある。人のいない世界で80度のお湯を吹き出しつづける温泉岩も、その中に加えたいと思う。

2015年8月9日日曜日

ある日(湿地、いくつかの外湯)

川のほとりの喫茶店で、トーストを食べる朝。ゆでたまごも、トーストも久しぶりだった。コーヒー付きのセットなので、コーヒーに決まっているのかと思ったら、カフェオレや紅茶も選べるのだった。

自転車屋さんで、自転車をお借りする。2時間400円。円山川にかかる城崎大橋を渡って、かつてコウノトリがやってきたという湿地をめざす。川の幅が広いうえに、水面と橋の距離が近いので恐ろしい。子どものころから深い水のイメージが怖くて、船に乗ったり橋を渡ったりすると、川や湖(海はほとんど行ったことがない)に沈んで死んでいる自分の姿が見えて怯えていた。たぶん私の前世の体は、十和田湖か猪苗代湖など、北のほうの湖の底で朽ちているのだと思う。橋を渡りはじめて半分ぐらいで、怖くてたまらず引き返したいと思ったけれど、こんな川の真ん中では行くも帰るもどちらも怖い、と思ってがんばって走り抜けた。

湿地には、小さなたてものがあって、中には望遠カメラ、資料集などがたくさんあった。スタッフの女性が、朝からあそこに止まっているんですよ、と指さしたはるか先に、コウノトリのつがいがいた。このまま国道沿いを行けば見られると教えていただき、自転車をこいで向かった。コウノトリたちは電柱のてっぺんにいて、暑いだろうに、じっと田んぼを眺めていた。彼らがいつまでそうしていたのか、結局わからなかった。

海を見たり、公苑の方まで外遊して町中に戻り、地蔵湯に入った。20代前半の若いお客さんが多くて、脱衣所も浴室も、水をはじくような活気がどことなくある。いけないと思いながら、つい人の体を見てしまう。若い娘さんたちの体の差異は、ただ生まれた時の個性の範疇だ。 ここから時間が堆積していって、傷や痕も増えたりして、ひとりひとりの人生のにじむ体つきになっていくのだろう。

休息を挟み、日没の間際に極楽寺を訪ねた。しずかな枯山水の庭である。寺の門のところで、おそるおそる中を覗きこんでいる欧米人カップルがいた。たしかに、枯山水の庭園は入るのをためらう気持ちにさせるから、いたしかたない。背後からすり抜けようとすると、男性のほうに思いきりぶつかってしまった。彼らは結局、寺には入らなかった。

日が暮れて、極楽寺のすぐそばの、まんだら湯という湯に入る。ちょうど人々は宿で食事を取っている時間なのか、湯は人もまばらだった。私は四角い内風呂と、露天の桶風呂をすばやく堪能した。欧米人の女性がひとり、目についた。脱衣所を出たところに、欧米人の男性が待っていて、女湯にいたパートナーらしき例の女性を待っていた。それで、彼らがさっき、極楽寺を覗いていたカップルであったことに初めて気がついた。服を脱いでしまうと、人の顔がいかに意味のなくなることか。

F、M両氏と食事をとり、三たび、湯をめざした。 柳湯というところである。Fは、今日4度目の湯であると言った。あなたのようなお湯乞食も日に4度となるとお湯貴族に昇格です、と告げると彼は喜んだ。

2015年8月8日土曜日

ある日(京都、城崎)

城崎に行くために、まず京都に行った。おみやげものを駅で見ていたが、夜中に食べたくなりそうないいお菓子がなく、おなかにたまりそうなものは若鮎くらいだった。結局、改札の中のセブンイレブンでメロンパンを買って、特急に乗った。結構混雑していて、自由席はぎっしり埋まっていた。眠かったけれど、知らない人の隣で寝るのが嫌なので起きていた。でも、知らない人が隣で寝ているのもものすごく嫌なので、どちらかを選ぶしかないと、つまらないことを考えていたら、いつの間にかうたた寝していた。和田山を過ぎるとどっと車内はすいて、二人掛けの座席に寝そべって眠ることもできそうだったけれど、そういうことはしなかった。特急列車は、途中で、前の列車が鹿と衝突したためにしばらく停まった。時を同じくして、滞在予定のアートセンターから「城崎町内で小熊の目撃情報がありましたので、お気をつけください」というメールを受けとった。

豊岡で特急を降り、もう二駅、鈍行を乗り継いだ。それはボタンを自分で押して扉をあけるタイプの車両で、不慣れな私はうまく降りられなかったらどうしようと思いつめて、動悸がした。乗る時は、先に乗った人のあとにすばやく付いて乗り込んだので、問題なかったのである。城崎温泉駅で、降りるのが私だけだったらどうしよう、とひそかに悩んでいたところ、車内アナウンスで丁寧に、扉の開け方を説明してくれたので少し安心した。列車が駅につく2分も3分も前から、帽子をかぶり、リュックを背負い、トランクを引きずって準備をととのえた。列車が停車して、アナウンスのとおりに扉の横のランプがついたので「開」ボタンを押して、慎重さと優雅さをぎりぎりあわせもつしぐさで、ホームに降りた。

見覚えのある男性が改札の中をのぞきこんでいる。1秒ほど考えて、アートセンターの近くにある温泉旅館の主人H氏であると思い出した。先月、懇親会でお目にかかったのだ。思いがけない再会にうれしくなり、こんばんは、と声をかけ、あらためて名乗ると向こうも私を思い出してくれたようだった。私は、人の顔を覚えられないことも多いのだが、ふしぎによく記憶できる場合もあって、それはどういう違いなんだろうと思う。H氏は、駅に今宵の宿泊客を迎えに来たとのことだったが、手違いで空振ってしまったと言った。どうやってアートセンターまでいらっしゃいますか、よかったらうちの車にお乗せしますよ、とおっしゃっていただき、思いもかけないことに喜びが温泉のようにわきあがる心地がした。ちょうど、湯上がりのF、M両氏が自転車で登場したので、私は一度アートセンターまで荷物を置きに行き、のちほど町で再会することにする。

H氏のご親切はそればかりでない。旅館の電動自転車を私に貸してくださったのである。城崎の町の人の、尋常ならざるもてなしと、協力を惜しまない心意気はとてつもない。先月おとずれた時にそれを感じて、あまりにも町全体で協力しあい、もてなしの心を持って交歓する様子が理想的で、にわかには信じがたいほどおどろいた。今夜は、H氏のご厚意に対し、あおぎみるようにして甘えた。

自転車を借りたおかげで、今夜はあきらめかけていた温泉にも入ることができ、F、M両氏ともふたたび合流することも容易だった。3人で食事を終えて店を出ると、時間は22時半をまわっていた。城崎の外湯の営業時間は23時までである。Fは「がんばればもう一度温泉行けるなあ」と言ったので、私は、そんなお湯乞食みたいなのはやめなさい、ゆっくり滞在するのだから明日にしなさい、と言った。