2015年8月10日月曜日

ある日(温泉岩)

外に出た瞬間に、日傘を忘れたことに気づいた。少し考えたが、取りには帰らず鴻の湯に向かう。若いお嬢さんたちのグループに行き合い、にぎやかな朝風呂となる。20代までは、体を見れば年までもほぼわかる。それは自分が来た道だからでもあるが、おおよそ35歳くらいからは個人差がはげしくなって、男も女も、体を見ただけでは年がわからなくなる。若い40代か、不摂生な30代かなどは、日々の過ごし方によって表れ方がことなる。

ロープウェーのたもとで、アイスを食べてF、Mを待つ。玄米キャラメル味。この広場には「温泉岩」(わたし命名)という岩があって、それは城崎温泉の原泉を柵でかこったものなのだけど、いつも、つい吸い寄せられるように見てしまう。大きな岩から80度のお湯が吹き出している、ゆたかな岩である。冬はさぞかし湯気でもうもうになるだろうな、とまだ見ぬ城崎の冬のことを考えながらアイスを食べていると、 Mが来た。アイスのよもぎ味を買って食べはじめる。草餅をまるめてアイスにしたらこういう味にちがいない、という楽しさ。もうしばらくしてFが来たので、3人でロープウェーに乗る。乗り場までは石段がだいぶあって、それを見たひとりの老人が、降りてきた乗客に「上には何がありましたか?」と先取りして訊ねていた。聴かれた人は「まあ、町と川くらいですかね」と身もふたもないことを言い、老人は石段をのぼる意欲を失ってしまったが、家族に取りなされて結局乗り場までやってきた。

ロープウェーで山をのぼっているあいだじゅう、下にひろがる森を見て、木の種類などを数えていた。ぱちくりした目の生きものと目があって、「あ」っと思った。鹿の剥製かな? 何でこんな山の中に鹿の剥製が飾ってあるのだろう? と血迷ってから、いやいや本物の鹿だろうよ、と思い直すまで0.1秒ほどで、鹿はぴょんと走ってもう消えていた。びっくりすると、本物ではないのでは、とすぐ思い込んでしまうくせが自分にはあるのかもしれない。たとえば私が山育ちで、日常的にけものに注意を払う生活をしてきていたら、そんな考え方にはならないのではないか。まったく、私は都会で愚鈍な暮らしに慣れきっているんだ、とやたら自分を責める気持ちがわいたが、ロープウェーの終点について山の景色を見たらすぐ元気になって広場を歩き回って満喫した。確かに、町と川しか見えるものはないけれど、見え方が重要なのだ。何だってそうだ。

山を降り、列車で隣の駅の玄武洞へ。円山川のほとりで電話をすると、渡し船が迎えにきてくれた。船頭である壮年の女性の導きにより、数分でわれわれは対岸のミュージアムについた。先に食事をすることにして、レジで食券を買おうとしたところ、三角巾を頭にまいて現れたのは先ほどの船頭女史で、「あれっ、船もお食事もなさるんですね」と言うと彼女は「そうですね、呼ばれたら船もこぎますし、われわれみんなオールマイティにやらさせていただいております」と言った。真の仕事人は、みずからの仕事をやたらと語らない。

城崎温泉界隈に帰り、駅前のさとの湯につかる。体力がここで尽き、アートセンターに戻って休む。ふたたび部屋を出られた時は19時半を回っており、あたりの道はすっかり暗くなっていた。温泉岩の前を通りかかると、もうロープウェーもアイスクリーム屋も終わっていて、暗い公園の中でお湯だけがこんこんと湧きつづけていた。当たり前だけど、誰も見ていなくても温泉岩からお湯は湧いている。寂しい夜、むなしい夜、どこかに思いを馳せたい夜に思い出すものが私にはいくつかある。人のいない世界で80度のお湯を吹き出しつづける温泉岩も、その中に加えたいと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿