2016年1月31日日曜日

知らない誰か

ついにこの時が来てしまったと言うべきか、自分にだけは起こりえないと思っていたことが起きてしまった。昼過ぎに、旧い友人からメールが来たのだ。昨日の深夜に私が送ったメールへの、返信だった。メールには、私の送った文面が付属していた。読み返しても、一行たりとも記憶になかった。どんな状態でも、自分がやったことは覚えている。あとから読み返して少しあせるにしても、だ。あんなこと言ってしまったとか、言わなくてもいいことを書いてしまった気がする、という出来事は実はここのところ頻繁で、翌朝確認しては、まあ許容範囲だろうとか、ちょっと不審だったんじゃないかと落ち込んだりする。だけどまったく覚えていないなんて初めてで眩暈がした。昨日、彼女からメールアドレス変更連絡が来て嬉しかったのは覚えている。最近、なつかしく思い出していた相手だった。明日返信しよう。そう思って昨日は返信しなかった。昨夜は日付が変わる前に床に就いた。なのに、私は彼女からの久しぶりの連絡をよろこぶ文章を、深夜1:00に送っていた。


こんばんは、大学の同期だった です。
今日メアド変更の、連絡もらって
ものすごく嬉しかった。
忘れそうなつながりが、まだあるんだってことが本当に嬉しかった。
私も今は

というアドレスでやっています。
相変わらずの東京暮らしです。
また  ちゃんに会いたいなと願ってます。元気でね。


物心ついた時から、私は私で揺るぎなく、自分を名前で呼ぶような振る舞いもせずに、ずっと「わたし」という一人称を貫いてきた。生まれて初めて、分裂した自分を見てしまい、今は恐怖しかない。しばらく薬で眠るのはやめる。

でも旧い友人には、来月会いに行こうと思う。私が私として万能で、満たされていた頃の私は、もう居ないんだけれど。

2016年1月30日土曜日

2012/9/21

2012/9/21

帰国する日。
職場の人々はみんな優しくて親切で、私もそれに応えたいと思いながら仕事した一週間。

空港までのタクシーに乗るとき、一緒に来てくれた肖さんが「車内では日本語話さないようにしましょう」と言ったあとに「残念と思います。日本人のせいじゃないです」って言ってくれて、単語の拙さゆえに際立つ文脈がすごく切なくて、少し、涙ぐんでしまった。理由はうまく言えないけれど、うまく言えるくらいならデモなんか起きないだろう。

2012/9/20

2012/9/20

紫のトレーナーを着る。ちょうどよい気候だ。
朝ごはん、隣のテーブルに日本人ビジネスマン(現地駐在の30代と日本の取締役50代)が座って、空のコーヒーカップを前に話していた。こんなご時世でも、中国人はやさしくて一緒に食事に行ってくれる、という話から、中国には日本型(≒欧米型)の マネジメントとは異なる素地がある、など。取締役の男が、駐在の男におみやげの「白い恋人」をあげていた。男の喜び方は、なぜか白々しく見えた。それを見ながら私はりんごジュースを飲んでいた。

朝からわりとバリバリ働く。Tくんと一緒に、定義ファイルを作ったり直したり。

お昼は食堂で、鶏肉とにんじんの炒め、キャベツと春雨の炒め、ほうれん草炒め、梨。最初、キャベツ炒めの中に入っている春雨が何だか分からなくて(太かったので)楊さんに尋ねたら「五月雨です」と言いかけて「あっ、春雨です」と訂正しながら教えてくれた。雨の名前……と覚えていたのだろうか。さみだれの炒めものって、なんだかうつくしい。

午後もめいっぱい。
夜は出かける余裕がなく、出前を取ってもらう。ゼロじゃないコーラを初めて飲んだ。テストをやりきって、22:00ごろ帰宅。

2012/9/19

2012/9/19

日本とあまり電話しないで仕事する。楊さんは午前半休。
相変わらず日本の作業期限見積があまい。何の作業が残っているのかも見きれていない。なぜこうなってしまっているのか。もう精神が疲弊しきっていて、目の前のことをやるしかない、とは思うが、それすら難しい。

ランチは魏さんと楊志さんと3人。牛肉とじゃがいものビーフシチューのようなもの、セロリと鶏肉の炒め、れんこん。ごはんと花巻を両方たべる。

ITbのタイムチャートの確認事項がずるずると後ろに倒れてゆく。
あとがつらくなるだけだと思うが。
14:00からTくんとテレビ会議。愚痴っぽくならないように気をつける。
16:30から楊さんと周夫妻にジョブセンター、OVメッセージの操作などを教える。ITbシナリオの作成依頼もする。昨日、魏さんに日本でプリントして来た6月の写真をあげたせいか、ずいぶん心の距離が縮まってきた気がする。QAの話などで何度か会話をする。問題は山積み。そして、さらに増えていきつつある。

夜は楊さんと、ウイグル料理店にまた行く。トマトで煮込んだ野菜をかけた麺を久しぶりに食べた。羊の串焼きも食べる。香辛料の香りがする紅茶もとてもおいしい。またこの店に来ることができてとても嬉しかった。
楊さんは食事中にいろんな話をしてくれる。
Tくんが三か月出張していた時は、仕事をする上で意見を率直に言い合えて、とても面白くて良かったと言っていた。年齢を重ねると、考えていることをなかなか言わなくなるものだ、という一言が少し寂しげだった。

会社に戻って一時間半ほど仕事した。何度か日本からの電話を受ける。楊志さんに付き添ってもらってホテルに帰る。

2016年1月29日金曜日

2012/9/18

2012/9/18

朝から日本と電話しながら仕事を進める。いまいち乗らない。
日本側の準備が圧倒的に足りていない。T君に頼りすぎてしまう。

ランチは日航ホテルの地下の食堂へ。15元で日替わりごはんが食べられる。
食事のあと、カルフールへ水とお茶を買いに行く。3本ずつ買った。
楊さんはいつも勝手にレジ袋をもらうのを断ってしまう(袋も無料じゃないけど)

午後も全然仕事する気がおきない。日本に電話しても誰も出ないので腹が立つ。
だんだん熱っぽさと頭痛が出てきてしまう。

今日は柳条湖事件から81年で、反日デモも一番ひどい日だった。
朝からN部長、O副部長、中国本社の奥部長などから内線をもらう。
Hさんとも、連絡先の共有のメールなどを何回もやり取りした。
仕事以外のことでだいぶ疲弊してしまった。Fさん、Yさんなどは今日は自宅待機とのこと。

今日一日の重苦しい気持ちは、朝一番に見たAくんのメールにあった。
同期だったIくんが、胃ガンで亡くなったとの知らせ。
考えてみれば、同級の友人を亡くすというのが、この歳にして初めてなのだった。
ご両親、奥様の気持ちを思うと本当に切ない。
お通夜には参列できないので、あとでAくんに志を渡すことにする。
IくんのFacebook、どうなるんだろうと思っている。
本当に心からお悔やみ申し上げる。

夜は庚午包子店へ。日本語を話しながらでも、大丈夫だった。
少し遠慮していたけれど、楊さんは(そして街中の中国人は)いつもと変わらず親切だ。
「何十年も平気だったのに、どうして今、なんでしょうね」と、言っていた。
楊さんは、左手の小指だけ爪を長く伸ばしている。
理由は聞いていない。
楊さんは、もうすぐ生まれる赤ちゃんのこと、自宅の方に地下鉄が延びて行くことなどを、嬉しそうに教えてくれる。

前日から部屋の金庫が開かなくなり、困っていたのでフロントで楊さんに聞いてもらった。スタッフの人が2人、マスターキーを持ってきてくれて何とか開けることができた。そのあと、正常な金庫のある隣の部屋へ代わる。
日本人のスタッフもいるのだが、今日は9/18なので出勤していないとのことだった。

夜はNHKばかり見ている。仲里依紗の「つるかめ助産院」に、平良とみおばあが出ていて、それだけで泣けた。

2012/9/17

2012/9/17

5:00に起きてN君と羽田空港に向かう。N君は品川まで見送ってくれた。
羽田では免税品をいろいろ買う。SKⅡ化粧水、シャネルのパウダー、ランコムのマスカラ。
30分遅れで飛行機が発つ。
機内食が出るまでずっと眠る。ごはんを食べて、また少し眠ってから、機内販売でディオールのリップグロスを買った。

北京空港には運転手さんと、現場の肖さんが来てくれていた。
会社に着き、まず本社へ挨拶に行く。Hさんと再会。
奥部長、F次長から昨今の情勢について伺う。タイミングを読まずに来てしまい、少し恐縮する。

別館にて、陸部長にメリーチョコレートを渡す。魏さん、楊さんにも、マルちゃんラーメンと白い恋人を。とても喜んでくれたのでよかった。

日本は休日なので、9/14分のメールチェックだけする感じでのんびりする。
M部長に電話する。

夜は陸部長、李部長と本社3階のレストランでお食事をする。
私はお酒が飲めないので何だか申し訳ない。お二人ともとても親切で、今回の情勢については何も心配いらないと笑ってくれた。マスコミが大げさなのだ、とも。「中国人口は日本の10倍以上なので、デモの動員のイメージは10で割ったらいいんじゃないか」とも言ってくださる。 「2000人が集まりました」と言うと大きいデモのような気がするけど、「200人」となると確かにスケールダウンする。

料理は四川料理。辛い味付けの、細長い豆腐料理がおいしい。
瓜のようなものと豚肉のにんにく炒め、野菜のみじん切りスープ(具沢山!)、牛肉とししとうの炒め、えびチャーハン。瓜のようなものは、食べてみても最後まで何の野菜なのかわからなかった。
チャーハンのお米はタイ米で、ふと1993年の米大凶作の時にタイ米を食べた話をしてみた。すると陸さんが「私はその時に日本にいましたよ」とおっしゃった。李部長もそのようで、1995年の阪神大震災、地下鉄サリン事件もリアルタイムで日本で体験されているのだった。貴花田、若花田が懐かしいとおっしゃるのが何だか不思議だった。

お二人は1989年に今の仕事に就かれたとのことだ。
中国では昔、大学進学率が3〜5%ほどで、就職先はすべて国が決めていたらしい。(今は進学率も70%ほどらしく、ずいぶん変わってきているが)
あと、第二外国語は英語ではなく、ロシア語だったとのこと。
新人育成に悩むのは、中国も日本も変わらないようだ。

菊とクコの実の入ったお茶がたいへんおいしかった。
ただし途中から頭痛がつらかった。

デザートのすいかがおいしくて、おなかいっぱいでもつい食べてしまった。
夏の最後に食べ損ねたと思っていたので、うれしかった。

2016年1月27日水曜日

2007/9/13の大伯父からの手紙

利一兄の、私にあてた手紙を読んでくれた由、うれしいかぎりです。
あの手紙は、検閲をうけずに、兄の隊にいた別の人の家族に、外に出たら投函してくれといって、その後私の手元に届いたという代物です。
兄は、私にはほとんど直接は教えてはくれず、ほとんどは、兄の入隊後に、兄の友人たちから色々と、今後どのように学ぶべきかということを聞かされて来ただけですが。兄から直接聞いた話としては「この戦争では日本は敗ける」ということを聞いただけで、しかもはじめそれを聞いた時は、一種反撥と怒りさえ感じたものです。兄(立也兄も)は早稲田大学政経学部在学中に、立也兄と一緒に学徒出陣という形で行き、立也兄は帰ってきたものの利一兄は、フィリピン方面に行った様ですが、上陸できたのか、それとも海没したのかはさだかではありません。兄のものだといわれている骨壺は政府から手渡されましたが、母は中を見ようともせず、私達も同様でした。
どうせ中には、土塊が入っているだろうということで、中を見ても腹が立つだけだ、と云っていました。
あなたが利一兄の手記を読んだというので、私も読み返して見ました。今度は、兄のだけではなく他の人のものも読んで見ました。
他の人たちのものは、妻に、そしてもう一つは恋人に、他の手記には戦争に対する疑いを持つ人、死への怖れ、などです。
しかし、兄は結婚はしていなかったし、愛人がいなかった(もしかしたら一人いたのかもしれないが、それはもはやたしかめようもありません。)ようで、兄の眼はもっぱら社会へむけていたようです。それでなくても兄は友人をかばうような処があったらしく、そういう兄の性格を知っていた別の友人は、兄が他者の犠牲になるのも何とも思わぬ人間だったと云っていたのを思うと、兄ははじめから生きては帰らぬ予感を持っていたのかもしれません。
私も昭和二十年六月、敗戦を決定づけられる一ヶ月半前に応召を受け、福井敦賀の聯隊に入隊して、そこを一週間から十日後に、どこへ行くともわからぬ列車につめ込まれ、行きついた処が、九州宮崎の都城、そこから行軍して途中で「志布志」という駅名を発見して、大隈半島の鹿屋という所の学校の雨天体操場の中へ入れられることになりました。しかも兵隊とは名ばかりの、銃もゴンボ剣もなく飯盒もなく、上はカーキ色のシャツ、下はズボン、それにゲートルを巻き、持たされたのは小さな柳行李で、その中に飯と沢庵を入れるだけの、いわば弁当箱だったわけです。こんな装備でアメリカ軍と戦うというのは、無茶もいい所です。これでは兄の言う通り、戦争は敗けるしかない、と思わざるを得ないのです。そして訓練といえば、これは敦賀の聯隊にいたころでは、敷地の端の方に木製のアメリカ軍のM4型戦車をしつらえて、そこへ匍匐前進して持って行く爆薬箱を敵戦車のキャタピラ目掛けて投げつける、ということでした。しかしこんなことをしていて敵に勝てるわけがない。そんなことをしているうちに、敵戦車は地上を機銃で撃ちつづけてやって来る。そういうことを私は何かの雑誌で読んでいました。
こんなことをしていたら、私たち兵隊は敵に立ち向かう前に殺されると思うと、その時はじめて絶望感に、うちすえられてしまっていました。
それでなくても、大隈半島の鹿屋地図では、敵の戦斗機が低空飛行でやって来て、機銃掃射で私の身体の伏せている横をパラパラッと撃って来るのです。これはまさに身の毛のよだつ、という光景だったのでしょう。
兄でさえフィリピンに到達できたかもわからぬ時に、私が外地に行くわけでもないのですが、内地でさえこんな状況だったわけです。
今、兄の手記を読んでおわりに「知子にたくす」と書いてあることに気がつきました。ということは、どうも手記は二通あったらしく思われ、もう一通がどうも見当たらぬことになります。
しかし、このコピーを私にくれた人は「群像」掲載の号をさがし出して、それをコピーしてくれたので、当時の編集者ではないわけですから、昭和二十四年の十二月に編集した人などはさがしようがないわけです。この一通だけでも残っていたことを幸いとしなければならぬでしょう。
お母さんへの手紙にも書きましたが、最近はモーツァルト生誕二五〇年ということで昨年はモツァルトだらけだったので、そのモツァルトのものを五、六枚購入したり、ショスタコヴィッチ生誕百年とかで、彼のものも聞いたりしています。二人ともなかなかわかりにくい面を持っていますが、「ショスタコヴィチの証言」などというものも読んだりして、彼がスターリンといかに戦ったかということを知り、彼のものを知る手掛りにしています。
まだまだ書き足りない所もありますが、まずは母上と一緒にでも遊びに来て下さい。その時にまたお話をさせて下さい。ではまた。

 九月十日

息継ぎⅡ

新しい医者は優しかった。しかし彼の親切さにより、私がこれまで、多少なりとも信頼をおいてきた(はずの)女医が、やっぱり本当には私のことを考えてくれてはいなかったのだと、わかってしまった。裏切られたとは感じないけれど、かりそめの心持ちで信頼していたにしても、ずいぶん金のかかる関係だったと思う。新しい医者とは、長く付き合うことになるだろう。

2016年1月26日火曜日

息継ぎ

北京の日記を写し終えた。同じ年の9月に再訪しているので、また次からは「2012北京再訪日記」として写していこうと思う。

久しくなかったことだが、記憶にないメッセージを送ってしまったり、つぶやきを残してしまった。何か書いたのは覚えている。薬でねむると、いつの間にか意識を失うことができて夢も見ず、夜中にさめなくてもいいかわり、朝に身体がうごかない。

言われてもいないし、されてもいない嫌なことをつくり出して泣く。 何もないところからつくれるわけもなく、萌しはいつもの、暮らしの中にあるものだ。

2016年1月24日日曜日

2012/6/7

2012/6/7(日記紛失。かろうじて残っていたメモから)

日本の現場と何度も電話して、中国側とも根気よく話し合う。
やはり言葉が身体と同等の雄弁さを持つわけではない。口に言葉が沸き上がるまでの時間に、身体性は既に多くを伝えており、その落差を意識したところに、コミュニケーションの価値がある。

2012/6/6

2012/6/6

今日も朝は少しのんびりしてしまった。朝食はちゃんと取った。

落ちついてUTをこなし始める。
お昼は陸部長おすすめのお店に、楊さんと行く。新疆ウイグル自治区(北京出張所?)のレストランで、羊の串焼きと麺を食べる。
麺にはトマトで煮たピーマン、玉ねぎ、お肉(なんの肉だろう? 羊?)をかける。少し辛くてとてもおいしかった。ウイグルはイスラム教なので豚肉は出ない。シナモン入り? と思われる中国茶がよかった。
散歩しながら北京の日常風景を眺め、会社に戻る。

夕方、陸さんに再見積を依頼。UTは日本のレビュー不足と準備不足でちょっと不穏な空気。
19:00頃会社を出て、北京ダックの店(大鴨梨)へ向かう。
送別会をしていただけるということで、現場の方数名と陸さん、楊さんでお食事した。魏さん、楊志さんは忙しくて無理だった。お料理をとてもたくさん頼んでいただいた。北京ダックは、10年ぶりくらいに食べたのではないだろうか……。お店で店員同士がけんかして、ぶったりしていた。
オフショアで働いてみて良かったこと、中国という国への印象などを話すことができた。東京への、原発事故の影響について質問された時は、じっくり考えながらも伝わる日本語を組み立てることが必要だったが。

陸部長は、やはり見識、経験の面から一番頼りがいのある方に思える。日本人側に、同様の知性で応えられる人間は果たしているのだろうか。

中国は、車のナンバープレート下1桁ごとに、乗ってはいけない曜日が決まっているらしい。車が多すぎるため。

一度会社に戻って、メールとAKB総選挙結果のチェックだけして帰った。

2016年1月19日火曜日

2012/6/5

2012/6/5

8:00起床。胃がもたれていて朝食はパス。
少し遅れて出社中、ホテルの駐車所でなぜかナンパされる。

午前中は日本と連絡も取らず、黙々と作業。
お昼はカルフールの向こう側で、牛肉の入ったスープの麺をたべる。
日差しが強い。そういえば、朝はぼーっとして日焼け止めを塗らなかったのだ。
後悔しながら、歩道橋を渡って帰る。ジャスミン茶と紅茶のペットボトルを買う。

午後はちょっと日本と電話したりする、
日本は、部長命令で全員18:00帰宅らしいので、テレビ会議での夕会も30分早めて行った。
19:00過ぎにProCOBOLで謎のエラーが出る。日本も巻き込んで調べるも再現せず。
ごはんも食べず、22:30くらいまで働く。
胃もたれだったので丁度よい。ホテルの部屋で、残っていた林檎だけ食べる。

NHKのニュースで、北京をプーチン大統領が訪問している様子が流れる。
北京からの中継に、並々ならぬ親近感を覚える。
今は「ようこそ先輩」を見ている。

毎日、自分が疲れているのか元気なのか、痩せたのか太ったのか、日焼けしたのかしてないのかよく分からない。自分の身体は、海外でならはっきり戻って来るかと思っていたけど、未知の背景に次々おそわれてかすんでゆくようだ。

お風呂からあがってまたテレビを見ていると、「時論公論」が急に映らなくなった。重慶事件を扱っていたので、そのせいだと思われる。そのあとの「梅ちゃん先生」では元に戻った。6/4の天安門事件集会などで、政府も神経を尖らせているのだろうか。

2012/6/4

2012/6/4

新しい週の始まり。
初めてホテルの朝食で味噌汁を飲んだ。味噌汁はぐつぐつ沸騰していた。

今日はあまり気持ちをこめて仕事できなかった。
ときどき日本に電話して様子を伺う。相変わらず、抑圧的な空気を感じる。
ランチは食堂で、きくらげ炒めとかに風味豆腐、とうもろこし粥スープ(味なし?)。
出口で、無料クーポンにてジャスミンティーをもらう。お砂糖入りの新感覚。

午後はオフショア定例会議。済南チームリーダーの李さんが出席。
ますますグローバルなプロジェクトになってきた。
しかし今日は何とも憂鬱な日で、訳もなくNにメールしてしまったり
だらけたりしてしまった。職場ではよく誰かの携帯電話が鳴る。一昔前の和音着メロだ。

夜はバスに乗って、魏公村まで餃子を食べに行く。
前菜2品、豚肉と白菜、羊肉、トマトと卵など変わった水餃子をたくさん頂く。

ホテルでNHKドラマを見て泣く。なぜか夜中に『梅ちゃん先生』をやっている。

お風呂で毎日洗濯をしている。下を向いて一生懸命日記を書いていると、髪が重くてうっとうしい。
寝る。

2012/6/3

2012/6/3

9:30にカルフール前で待合せして、魏さんと北京動物園へ。
大熊猫(ダーシャンマオ、パンダのこと)を見るのが目的。
寝ているのと、ごはんを食べに起きてきたのと、三頭ほど見ることができた。
子ども連れが非常に多い。檻の前で喫煙したり、割り込みが激しかったりする。ドラえもんがナルトの服を着ているTシャツを着ている人も見た。おなか丸出しの人も数人いた(あとでHさんに聞いたところ、暑い日はそういう人がいるらしい)
しかし広さはさすがのもので、園内の大きな池で白鳥が泳いでいたりもする。
池のほとりの柳が美しい。
あとは、朱鷺を見られたのが面白い体験だった。
獅虎山(すごく強そうな名前)で、虎と白ライオンを見る。虎の咆哮を初めて聞いた。『山月記』の世界のようだ、と今書きながら考えたが、その時はそんなことを思いつく余裕はなかった。

地下鉄4号線で頤和園へ。
入ってすぐの蘇州街が素敵だった。岩山を越えて、仏香閣を横目にゆるやかな山道を下る。途中でリス(本物)を見たり、怪しげなバックスバニー的着ぐるみを目撃したりする。
美しく、長い渡り廊下を歩いて古の中国を思う。乾隆帝の作った石船、昆明湖(人造湖)に圧倒される。急に人が増えたが、皆あの岩山をのぼってここまで来たのだろうか? それとも別の門から?
湖畔を散策しているうちに雷雨となった。軽食(豚肉炒め丼)をたべて、西門を目指す。細い渡り廊下は大混雑だった。
湖の向こう、かすかに十七孔橋を臨む。
別の出口から出て、人力車で地下鉄駅まで。

王府井で下車。工芸品のデパートへ連れていっていただく。
黄金や翡翠、アメジスト、シルク、刺繍など手のこんだ美しい品々が溢れていてとても楽しかった。しかし価格はどれも高め。
干支の切り絵のしおりを二点買う。12元。
その後、シルクシューズの店でやっと気に入るものを見つけて購入。298元。黒いスリッポン型。
老舗のお茶屋さんでおみやげの工芸茶を購入。とても素敵。
大雨はやんで、夕方近いというのに日差しが強くなってきた。
17:00に魏さんとホテル前で別れる。

17:10、K代理と待合せて三里屯へ。Hさんと3人でごはん。
タクシーだと32元。日本料理店でのんびりする。
帰りは60元かかった。

2016年1月18日月曜日

2012/6/2

2012/6/2

9:30に魏さんとホテルで待合せ。
朝、ほんの少し吐き気がしたが何事もなく出発できた。

まず、国家図書館駅から西単へ行き、1号線に乗り換えて天安門西駅へ。
初めて見る赤い門に、毛沢東の肖像が掲げられている様子は、正直圧倒的なものだった。
10万人収容可能と言われる広場はどこまでも平らで、見通しは少し排ガスで煙っているものの、多くの観光客(様々な国籍)が歩いたり写真を撮ったりしても揺るがない雄大さを持っていた。
人造物に「雄大」なんて言っていいのか。でも、自然でも人造でも違和感のあるような大きさの建物ばかりなのだ。

荷物を預け、天安門の上に上る。日差しが出て眩しい。帽子を持ってこなかったのが悔やまれる。日傘でなんとか凌いだ。

故宮前は、西太后ヘアのカチューシャや弁髪帽子を売る男たちがいて、テーマパークのような賑わい。写真を撮ってくれるサービスもあるようだが値段が怪しい。
端門から入り、金水橋を渡って午門へ。入場料は60元。
人民会館、毛主席記念館と同様の巨大さながら、華やかさと重厚さのバランスが取れているのでとても美しい。『後宮小説』の世界などを思い出しながら歩みを進める。南から北上するだけでずいぶんとかかるようだ。日本の城などと比べても、大きさ・豪華さなどが桁違いである。

名残惜しかったが故宮をあとにして、時計を見ると12:00前。
すぐ北側の景山公演の丘にのぼることにする。小さな階段を10分ほどかけてのぼる。魏さんとずいぶん打ち解けて話ができている。
故宮を一望できる、と聞いていたが本当にそのとおりだった。古都北京は、小説、絵本のようなドラマティックさを、惜しみなく見せてくれる。

公園の丘を下り、外へ出る。静かな道をしばらく行き、 レストランを探す。
時刻は13:30過ぎ。
地安門外大街に出て、豆餠を買ってから峨眉酒家でランチ。

その後タクシーで南鑼鼓巷まで移動して街歩き。雑多な店、ファッションの店などかなりごみごみしていたがアジアのリアリティを感じるパワーがあった。

歩いて后海を目指す。湖畔に出て、柳の木の下を歩く。
銀錠橋はアジアのおもちゃ箱みたいな可愛らしさと得体の知れなさを持つ空間。
対岸のカフェでジャスミン茶を飲んで休む。
中国では、外の席はだいたいソファだ。これが古きよき北京の街並みというのだろうか。

九門小吃は改装中だった。

ずいぶん歩いて、19:30頃タクシーを二環から拾って三里屯へ。
ワンピース、パーカを買う。
表参道か六本木、ソウルの南大門のようなイメージ。什刹海近辺と同じ街とは思えない。どちらかと言うと、三里屯が北京の中でも特殊なのだろうと思うが。

21:00過ぎ、地下鉄に乗って帰路に。二本乗り継いで、21:45頃に動物園駅に戻る。魏さんには最大の感謝。

それにしても、北京の地下鉄の喧噪はすごい。電波があるらしく、走行中も大声で電話をするし、もちろん呼び出し音は鳴るし、離れた所でも話すし、人が降りる前に乗ってくるので、怖い。最後はかなり慣れてしまったのも、また。

2012/6/1

2012/6/1

寝坊して、あわてて出社した。

朝から日本チームと、項目のバイト数でもめる。面倒なことは日本に任せる。

お昼は少し歩いて、包子屋さんへ。
「社区」という団地のような敷地の中にあるお店。楊さんはいつも、中国の文化や歴史、考え方について教えてくれる。
大通りから少し小路に入って、横断歩道を渡ったりして、より中国(北京)の "生活" らしい一面を見ることができた。とうもろこしかゆも食べた。

楊さんに「日本では緑信号をなぜ "青" と言うのですか」と聞かれる。
日本語はあまり青と緑を区別しないのだ、と答えて、例として「青葉」という単語を挙げたがあまりしっくり来ていなかったようだ。
でも「緑の黒髪」という言葉もあるし、日本語の色についてはなかなか難しい(後半は私の頭の中の話)

夜は駐在のYさん、Hさん、Sさん、Nさん、基幹一部のKさん、Sさんに、昇進祝いと歓迎会をしていただく。本社ビル2Fの俏江南という店。
北京まで来て内輪感を出すのはちょっと嫌だったが、楽しかった。 

2012/5/31

2012/5/31

7:45起床。朝食はパン、ワッフル、ベーコン。

作業内容は変わらず。お昼は楊さんと二人。鶏肉とピーマンの唐辛子炒め、麻婆豆腐。ハンカチを食堂のどこかに落としてしまった。

天気は午後からくずれる。17:00過ぎから雨。すこし冷える。
夕食は19:00過ぎに、近所で麺(スーラータンメンの類)をいただく。
シナモン?風味の固いパンに豚肉をはさんだものもごちそうになる。

日本とはたまに電話するが、鬱屈した空気が受話器から漏れ出てくるような
気がするので、耳もあまりつけたくない。
魏さんと賈さんが直接話をしてくれるので認識合せがうまくいって良い。
テレビ会議をしても、日本チームの混迷ぶりが伝わるだけで、
どうしたらこちらでもっと役に立てるのかが見えづらい。

16:00ごろ、内報が出て正式に昇格発令を受ける。

2012/5/30

2012/5/30

7:30過ぎに起床。身支度をしてホテルの朝食へ。中華まんじゅう(葉っぱ入り?)、さんしょうの花巻は微妙な味。明日は別のものにチャレンジ予定。

午前中はスケジュールの調整、障害連絡等で時間が過ぎた。課長代理昇格連絡を受ける。陸部長に食券を借り、本社ビルの食堂でお昼。きくらげと豚、ピーマン、卵の炒めものと、きくらげとセロリ、にんじんの炒めものを食べる。買ってから、きくらげだらけであることに気づいた。

昼休みに、 楊さんと魏さんにカルフール(スーパーマーケット)に連れていっていただく。ウーロン茶、ジャスミン茶、ブルボンのお菓子購入(13元)
中国のお茶にはたいてい蜂蜜が入っているらしい。

夜は7:10頃に出て夕飯。近くのレストランで、鶏とピーナッツの炒めとキャベツの唐辛子炒め、肉団子をいただく。

2016年1月17日日曜日

2012/5/29

2012/5/29

5:00起床。5:57西荻窪初の中央線に乗り、羽田へ。
チェックイン、荷物預け、出港手続きを経て、9:10のフライトで北京に向かう。

K代理と合流して、車で北京市内へ。14:00過ぎにホテルに着き、15:30の待合せまで部屋で過ごす。26階からの眺めは非常に興味深い。日本側への挨拶回りで夕方までつぶれる。

7:30頃から陸部長、李本部長とお食事。
李さんは1995〜1998年頃に、日本に仕事で滞在されていたとのこと。
オウム真理教、 阪神大震災など日本の社会情勢についてもお話を交わす。
果たして、日本のうちの社員のうち、中国の現代史と政治についてどれだけの人が
適切に意見を述べることができるのだろうか。語学の現状といい、比較するほど恥ずかしいような気がしてしまう。(オフショアメンバーはいずれも日本語が堪能だ)

食事はバーベキューのような、ビアガーデンのような屋台スタイル。北京の人は羊肉と茉莉花茶を好むとのこと。さやえんどうの細切りを、にんにくと唐辛子で炒めたものがシンプルながら色あざやかで美味。

2016年1月8日金曜日

こころの目

目が覚めるとこの頃、片方の目が霞んで視界がまだらであることが多く、薬のせいで目がだめになっているのかな、と不安になりながら起きる。お湯を沸かして、マグカップを温めているあいだに視界は元に戻る。

あなたはあんなに小説をたくさん読んでいるのにどうして人の気持ちがわからないの、と、かつて母に言われたことと同じことを言われて、わかんねえから読むんだよこのやろう、と思った。話したり、触れ合うだけで人の気持ちがちゃんとわかるなら、人は小説なんか読まなくていい。

2016年1月6日水曜日

春が来ても

置き去りにしたり、保留しているものが多すぎて、後悔と申し訳なさで、自分が誰なのか不覚になるほどの夜を何とか越える。スーパーマーケットで、品物に手を伸ばそうとしてためらう。いっぱいにふくれあがったスーパーのビニール袋を持って帰る家、そこに帰って来る人のことを思い出すから。もう買えないもの、行けないところ、見られない写真、はめられない指輪だけが増えていく人生だ。まだ死んでいない人が死んでしまったあとの世界を思って「もっと一緒に生きていたかった」と言いながら泣く。

怒りのあまり手が震え、煙草を2本も折ってしまった。長いままの吸い殻が不格好に灰皿からはみ出している。怒りに燃えている時は何本吸っても平気だ。酒が飲めないかわり、私は煙草で気持ちを散らす。「きみって煙草が似合うんだよな」と、当の怒りの対象である男から言われたこともある。本当に怒っていない時は上手に吸えず、気分が悪くなる。寝る前にうっかり煙草に口をつけてしまった夜は、どうしてそんなことしたのかと、地獄のような吐き気と頭痛に後悔しながら眠る努力をしなければならない。なのにあの人はどうして、朝起きてすぐに煙草を吸ったり、夜寝る前に煙草を吸ったりしても平気だったんだろう。

それはつまりぼくのことを好きじゃないんじゃないの、と、男はとうとう気がついたように言った。そうかもしれない、と答えてから、本当にそうなのかどうか考え始めた。それなのに翌朝、彼は、子どもを育てる夢を見た、と言いながら起きた。二人目も生まれたよ。ぼくひとりでは産めないと思うから、たぶんきみとの子じゃないかな、などと言って。