2016年2月29日月曜日

そこにはわたしもあなたもいないけど

もう一人の男がいて、彼は、私が44歳で死んでしまいそうな気がすると言ったら狼狽し、俺を置いて死なないでほしい、と頼んできた。男の事務能力から言って、私の骨もろくに供養できないだろうから先に死ぬのは損かもな、私が死んでからも心配だな、とは思った。しかし問題は、彼の身体がたいへん丈夫なことであり、私がたいへんひ弱であることだ。

夜がいやで、毎晩おっかなびっくり薬を飲んで眠っている。若いころは、こんなおびえ方をするとは思っていなかった。騙し騙し生きられるものなら騙して日々を、夜を、やり過ごしたい。重く動きにくい体を感じながら、かつて職場に行けなくなったころの無力感を、毎朝新鮮に味わっている。

男は北陸の町へゆき、明日帰る、明日帰ると言い続けてまだ戻らない。

2016年2月28日日曜日

サミット

私は44歳で死んでしまうかもしれない、と言ったら彼は、俺は老衰で死ぬイメージしか持てない、と言った。いくつくらいで死ぬの、と尋ねたら88、と言うので、それって私の寿命の倍じゃないかと思って、そんなに先に死んだらいくら何でも忘れられてしまうなと思った。

大人っていやあね、と彼は言う。そうね、とうなずいて、いやだけど悪くないわよね、と呟いた。彼も私も、大人になるにつれて賢くなれた。もう私の背中に翼は生えないけれど、愛に両目を塞がれて、地を這うのもまた悪くない。

ポストをあけると、前の住人宛のカタログが突っ込まれていた。階段をのぼるたび、踏み外しそうになる。ねえ、あたしたちあんまり集まれないからほんとに困るね。今も耳の奥、あなたの声が残っている。

2016年2月16日火曜日

窓際で私

結局、記憶がつながりはじめたのは土曜日になってからで、どうやら金曜日にチキンライスを炒めたらしく、冷凍庫にその残りがまるめて凍らせてあった。明日はそれを解凍してオムライスにする。

人と話し続ける際にかかる負荷をつよく感じるので、あまり長く話すことができない。相手にも緊張をあたえているのではないかと不安になる。それよりは、気の置けない友だちと寄り添って座っているだけの時間を過ごしたいし、そういう相手としか今は会えないと思う。

2016年2月12日金曜日

過剰な世界

スパゲッティを食べたのはついさっきで、私は横浜までダンスを観に行くために着替えて、ほんのちょっとやり取りをするために携帯電話を持ち、画面を見たのだった。はじめはしゃくりあげるところから。次に声が抑えきれなくなって、そうしたら後はもう床に倒れ臥して、過呼吸とだらだら溢れる涙になすすべもなく、自分と相手を呪って泣き叫んだ。顔も両手も唇も痺れ、もうだめだ、今度こそもうだめだ、と思った。動かない指で、何とか薬の致死量を調べた。20錠くらいではなんにもならないと書いてあって、安心したのだけれど、20錠はやっぱり一度に飲むには多い気がして、どう決めたのだったか、6錠だけ飲んだ。電話の電源は切った。

目が覚めると、残っていた14錠は空になっていた。何も覚えていなかった。でももう驚かない。睡眠導入剤というものが、眠らせた人間に何をさせるか私はすでによく知っている。立とうとすると足がよろよろ崩れて何も出来なかった。こんなに泣かなくてもいいように、新しい先生に出会えたのに、全部無駄になってしまった。誰かが来たのか誰も来なかったのか、頭を壁にしたたかにぶつけた気もするし、ままならぬ足のせいで転んだ気もするが、いっさい何の記憶もない。コンロには昼に別の鍋をかけた。なのに、スパゲッティを食べたのはついさっきのような気がする。あれは昨日の昼で、そこから私は前後不覚になるまで気が狂ったように騒いで、ひとりで無理矢理眠って、24時間が経った。

目を閉じると目眩がするし、ベッドがぐるぐる回って波打つ。隣りに誰か滑り込んでくる気配もあるし、このまま踏みとどまる理由がない。

今の自分の状態を、母にも誰にも言ってはいない。これを読んだ誰かが母に言うかもしれないが、そうであれば伝聞のルートを特定するまでもないのだし、むしろ逆恨みには都合のいいことだ。

2016年2月4日木曜日

分断

「あとで帰ったら話す」などと言ってため息で電話を切るひとは、私と話せるすぐ先の未来を信じて、そう言っているのだなと思う。あなたが帰ってくるまで、私が生きている保証はない。今、すぐに、言わなかったことで後悔したことくらいあなたにもあるだろう。同じことを何度繰り返したらあなたは学んでくれるのか。くちびるの端から流れだしてしまう私の言葉を、不愉快と言って切り捨てること無しに。

調子が悪くなって以来、過去と現在を結びつけるのがむずかしくなっている。昨日の自分は今日の自分だったのか、2年前の自分は今の自分と同じ人間なのか、4年前のあなたを憎んでいた気持ちを忘却できたような気もすれば、1か月前のあの人の顔も浮かばない。毎日お風呂で化粧を落とす。閉じたまぶたを指で撫でて、マスカラの手触りがあれば、その日は人と会った日で、何も塗っていないまつげなら誰にも会わなかった日だ。 今日はたしかにざらついた感触があったのに、何秒も、誰とどこに行ったのか思い出せなかった。

2016年2月2日火曜日

息はなるべく深くして

なるべく深く息をしなよ、とアドバイスをくれたあの子を思い出す。ここ何年かなかったほどの、身を滅ぼすような寂しさに震えて眠れない。