2016年5月27日金曜日

ポートレイト

晴れてたらレンズの奥に僕の目が見えるんだけど、と彼は言った。カメラの奥にあるはずの目をあわせながら、ああもう自分が自分じゃなくて何でもやれる気がすると思った。好きだった街が背中を押してくれて、新しいところへ連れて行ってくれたようだ。黒いワンピースが、風を孕んで、舞いあがる。

長らく書けない書けないと思っていたフィクションが、今、するすると自分の内側を流れる。架空の人物に名前を付けて動かすことがまたできるようになった。私は、たしかに言葉を取り戻しつつある。それは同時に、前進でもあるはずだ。失ったものを、寂しく振り返りながら。

2016年5月19日木曜日

幾度目かの最期

その町の改札口では、昔落としたバラの形のピアスを、今も探してしまう。
Fに呼ばれて、3年ぶりの町へ行った。「今日は何で来てくれたんですか?」と、同席してくれた可愛い後輩が問うてきたので「Fのことが昔から好きだったから」と答えてみると、後輩の隣でFは「だめ、俺と付き合うと不幸になる」とまじめな顔で言った。

もう一人の同僚、Sが遅れてやってきた。彼は「相応のプロジェクトを一緒に進めてきて、信頼できると思っていた同期が辞めるのは、結構堪えるんですわ」とぼやきながらビールのジョッキを干した。だからお前が辞めたって人づてに聞いた時は、結構ショックやったで。俺はたまたま人に恵まれたから続けられてるんかなって。俺も、お前みたいに、うまくいかなくなることあるのかなって、怖くなった。お前にはやりたいことがあるやん、でも俺なんか、仕事辞めたら廃人になってまう。それからSは、最近退職した同期の名前をあげて「辞めんと思ってたやつがとうとう辞めたわ」とまた嘆いた。優しいな、Sの声は低くてやわらかくて、いつまででも聞いていられるな、と私は耳を澄ましていた。

好きだと思っていた人たちのことを、忘れなくても閉じ込めなくても、いいのだと思った。そうしたら、誰にも話せなかったことを少し話す気になった。あとで思い返して、もっと言いたいこと、うまく言えたはずのことがたくさんあった、と反省したとしても。
君には久坂葉子が似合うと思った。あと、山川方夫を読むといいよ、不健康になりそうだけど。次の日、Fからのメッセージにそう書いてあった。

2016年5月17日火曜日

耳のかたち

そういえば今朝の夢で「あなたの耳はかたちが、悪耳(あくみみ)ね」、と言われたのを、スーパーマーケットへの道すがら、急に思い出した。悪耳なんていう言葉は聞いたことがなかったけれど、耳がぴんと前だけ向いていて、まわりのひとの話をちゃんと聞くことができない、わるい耳のことを言うのだと、女は言った。言われて鏡に映してみると、夢の中の私の耳は独りよがりにとがって、確かに他人の言葉を聞き入れるようには見えなかった。耳がかわいいと思うよ、なんて言われたばかりで、少し浮き足立っていたからではないかと思う。

誰もいないと、食事をつくる気も失せる。絹さやを買おうと手を伸ばして、どうせ食べきれないし絹さやはさや取りが好きなだけで、食べるのはそこまで好きではない、とあきらめる。鯵の刺身、あさり、ほたてのむき身、冷凍のえび。二度と買えない(気がする)ものが、この世にどんどん増えていく。

2016年5月2日月曜日

マンボウの卵

お互い予定もないのでそのまま食事をしに行く、ということになって、京浜東北線から山手線に乗り換えた。山手線には、ひとつひとつの扉の上に液晶モニタがあって、乗客を飽きさせないような広告とかを、映し出している。その時はたまたま雑学の番組をやっていた。「マンボウは一度に8000万個の卵を生みますが、成長するのは1〜2匹です」という内容だった。ほとんどすべてのマンボウは、成長する前に他の魚に食われて死ぬことは、子どもの頃から知っていた。図鑑が好きな子どもだったので。だから、8000万個って少ないな、私が読んだ図鑑には2億個って書いてあった気がするな、などと考えていた。

マンボウ、卵の数で勝負するのやめたらいいのにね。

彼がこともなげに言ったのを聞いて、まずびっくりした。そんなこと今まで考えもしなかった。それから確かめた。

それって、もっと他の手段で生き残る方法を考えるべきっていう意味?

軽くうなずいたようなのが見えたが、その時、山手線が五反田に到着した。そう。そうなんだけど、言ってることは、わかるんだけど。だからだめなんだな、マンボウも私も、と思って返事はもうしなかった。「こっちの方面で合ってるかな」などと言いながら、二人でレストランを目指した。その日は、待ち合わせした場所でカフェにも行ったし、五反田に移動して食事してからも、再びコーヒーショップに入って、それで別れた。その日は5時間、一緒にいた。

2016年5月1日日曜日

遅れた花嫁

花屋で買った芍薬のつぼみが、なかなかひらかないので、水上げに失敗してしまったかと思って、一度茎を短く切った。それでもつぼみはかたくななので、毎日、咲いてほしいよ、会いたいよ、と声をかけて育てた。蜜が出るとひらきにくいので、拭き取りもしたし、花びらがやわらかくほころびるように、つぼみをさすったりした。そのかいあって、その芍薬を花屋から我が家にめとって一週間が過ぎた日、ついに花はひらいたのだった。

チェーホフを知らないまま大人になるなんて貧しい人生だ、と言う人が仮にいるとして、でもその人は、私が一生懸命世話した花の名も、道ばたで枯れた花がらを散らす街路樹の名も、 コンディショナーと違ってシャンプーのボトルには目を閉じていてもわかるようにぼこぼこした印があることも、知らない。貧しさとか豊かさの話ではないし、どちらかに振れることだけが人生ではない。問題は、断罪の言葉を、口にするかしないか。その言葉を持っているか、いないかなのだ。

もう、夜は怖いものではなく、ただ悲しくて寂しいものでしかない。