輪郭をなくしたのか、もとからなかったのか、私にはわからない。他者に寄りかかって自身を規定するのはやめなさい、自分を救済できるのは自分しかいないのだから、と彼女は言った。自分のアイデンティティを他人に委ねすぎないようにすること。自分がどうしているときに安定してるか知ること。彼女はいろんな指針を示してくれた。そんなこと、他に誰もしてくれなかった。あなたが一緒にいるべきなのは、今近くにいる誰でもないんだろうね、と空恐ろしい言葉を残し、六本木の路上でタクシーを拾うと、彼女はゴールデン街に向かった。
2016年6月30日木曜日
2016年6月29日水曜日
キッチンの踏み台
優しかった医師はほんの少し牙をむき、私を威嚇した。すべて私のおこないのせいである。
帰宅して眠って、目が覚めて麺を少しゆでて食べ、湯をためてラベンダーバスソルトを入れて浸かって、また眠って、目が覚めて台所で踏み台を椅子にしてビールを飲んで煙草を吸い、家を出て雑誌と食べものと入浴剤を買い、帰って雑誌を読みながら食べものを食べてビールの残りを飲み、煙草を吸って湯をまたため、入浴剤を入れて浸かった。
今は薬を飲んで床に横になり、背骨と頭蓋骨の硬さを、感じている。新しい薬はよく効く。このまま眠りに落ちてしまっても、誰もベッドに運んではくれない。
2016年6月25日土曜日
The Heart Asks Pleasure
まず学校に入ったら、自然数を習うでしょう。それから足し算、引き算。
2016年6月23日木曜日
偽善の白
薬局で、女たちが処方箋を見てざわついており、いやなこともぜんぶ医師に説明して書いてもらったものに、何の文句があるのかと思う。私は普段、人になんにも期待しないから、クレームなど言ったことがないけれど、あまりに待たされるので、席を立って声をかけ、あからさまに不満の表明をした。白衣を着た女のひとりが、「不安にさせてごめんね」と何度も言った。「ごめんなさい」と言え、と思いながら首を振った。血を見るようなこともないくせに、なんで白衣なんか着る必要があるのかと思う。
雨の音を聞いて、でも雨かどうかは確かめないまま横になる。体が引きつれるほど寂しい。あなたの肌、あったかいからまた一緒に眠りたい。かつて書いた言葉を思い出す。相手に届いたかは知らない。肌が合う、という言葉のことは、その頃しみじみ考えた。何ごとも、返事がなければわからないのに、返事をくれない人ばかりで口惜しい。
私に、南の雨を心配する資格はもはやない。どんなに地が揺れ、山崩れても、思いを馳せることは許されない。
2016年6月22日水曜日
涙の雨
2016年6月19日日曜日
櫂から滴る水の音
あの人がいつか死んだら私はどうやってそれを知ることができるかしら、と嘆いたら、じゃあ死んだ時のための連絡網つくっとこうか、と彼女は笑って提案した。私たちはまだ30を過ぎたばかりだったけど、死ぬまでに途中ではぐれる予感は、お互い持ってた。
吐く息の薄い人
君のいいところは、世界には「意味」に回収できないものがあることを知っているところだ、と彼は言う。ありがとう、同志よ。私は輪郭の端の端まで言葉がほしくて、叶えられない時は相手を見限ってしまいたいくらいに傷つくのだけれど、それは意味の限界をなぞる言葉を聞かなければ、意味の外には触れられないから。あなたはちゃんと、それをわかってくれているのでしょう。
男たちは、眠りが浅いとぼやきながらいつもすぐよく眠る。彼らの寝息や寝返りは、ざわざわして私の集中を削ぐ。眠るのにも集中が必要な時期なのだ。でも彼らは必ず、僕だって眠りが浅いんだよと主張する。
好きだったものをいくつか、怖がらずに思い出す。煙草をくわえて、火をつけるまでの間にちょっと喋る姿、10年目のなじんだスーツの上着、折ったワイシャツの袖、仕事行きたくねえ、とぼやきながら朝、ひとつひとつ身支度していく姿。行きたくねえなあ、と頭を振りながらもう一本煙草に火をつける、あの感じは本当によかった。
生きてるのか死んでるのかわからないような、吐く息の静かな人に抱かれたい。
2016年6月16日木曜日
歌う旅人
2016年6月12日日曜日
newsong
2016年6月9日木曜日
初夏の宵
夕暮れ時、死体のように床に転がって泣くのがいちばん収まりがいい。声は立てずに涙を流す。母にもらったメロンが、なんだか畑から盗んできたみたいに、まるのままでリュックサックに入っている。これを食べさせてあげたい人が、いたのだった。そう思う気持ちと、背中に当たる床の硬さでいくらでも泣けた。死なずとも、生きているだけで先細りする人間関係などいくらでもあるというのに。
2016年6月4日土曜日
oblivion
メロンの箱を見て泣いていた。子どもの頃、ファミコンカセット屋さんかメロン屋さんになりたかった男の子のことを思い出したからだった。もう、あさりも、えびも、ほたても、メロンも、鰺も買えない。母に言うと、大丈夫よ、そのうち、考えもせずに買えるようになるわよ、と言ってから、もうずっと会っていないという、女学校時代の友人の話をしてくれた。彼女は哲学が趣味でちょっと暗くてまじめで、変わっていた子だったという。
今でもママ覚えてるのよ、その子が、oblivionっていう言葉は素晴らしい、って言ってたの。
……忘却?
そう、oblivion。
不思議なボキャブラリーね。
17歳にしてはね。でもそういう子だったのよ。
私がその言葉を知ったのも17歳だった。言葉の奥にたゆたう忘却の波、あのころうまく想像できるはずもなかった。
It’s calm under the wave in a blue of my oblivion.
Fiona Apple『Sullen Girl』