2016年6月30日木曜日

おめでとう

輪郭をなくしたのか、もとからなかったのか、私にはわからない。他者に寄りかかって自身を規定するのはやめなさい、自分を救済できるのは自分しかいないのだから、と彼女は言った。自分のアイデンティティを他人に委ねすぎないようにすること。自分がどうしているときに安定してるか知ること。彼女はいろんな指針を示してくれた。そんなこと、他に誰もしてくれなかった。あなたが一緒にいるべきなのは、今近くにいる誰でもないんだろうね、と空恐ろしい言葉を残し、六本木の路上でタクシーを拾うと、彼女はゴールデン街に向かった。

2016年6月29日水曜日

キッチンの踏み台

優しかった医師はほんの少し牙をむき、私を威嚇した。すべて私のおこないのせいである。

帰宅して眠って、目が覚めて麺を少しゆでて食べ、湯をためてラベンダーバスソルトを入れて浸かって、また眠って、目が覚めて台所で踏み台を椅子にしてビールを飲んで煙草を吸い、家を出て雑誌と食べものと入浴剤を買い、帰って雑誌を読みながら食べものを食べてビールの残りを飲み、煙草を吸って湯をまたため、入浴剤を入れて浸かった。

今は薬を飲んで床に横になり、背骨と頭蓋骨の硬さを、感じている。新しい薬はよく効く。このまま眠りに落ちてしまっても、誰もベッドに運んではくれない。

2016年6月25日土曜日

The Heart Asks Pleasure

他の追随を許さない深さで闇を切り開いているね、と言って、古い友だちの数学者が会いに来てくれた。様子のおかしい私を、心配しているわけでもなさそうだった。私は今や感覚の底が抜けて、そんなことしたら世界が終わるからだめって言われたことの全部を、やってもぜんぜん大丈夫だった。

BBCの速報に見入っていて、ふと赤い文字が点滅したので、その瞬間に、世界の何かが決まった。全部開いてないのにどうしてわかるの、と尋ねると彼は言った。開票を測るには誤差の予測が必要で、サンプルが4倍になると誤差は半分になる。

まず学校に入ったら、自然数を習うでしょう。それから足し算、引き算。次に分数の概念が増える。負の数、虚数、複素数。そうやってどんどん要素が増える代わりに、性質の均一性が増すというか、単純性が増すの。たとえば、3は2では割れないけど、分数で細かくしていくと何でも2で割れるようになるのね。わかる? でも、いちばん最初に習う「自然数の全体」っていうやつが怪しくって、みんなが同じ「自然数の全体」を指して話をしているのかってところが、今けっこう問題になっているんだよねえ。「無限」という言葉の向こうに、本当にみんなが同じものを見ているのかは、実はわかってない。

ひとしきり遊んで、数学者は帰っていった。大丈夫、新しいベッドならきっとすぐに見つかるよ、とか何とか、私を励まして。

2016年6月23日木曜日

偽善の白

薬局で、女たちが処方箋を見てざわついており、いやなこともぜんぶ医師に説明して書いてもらったものに、何の文句があるのかと思う。私は普段、人になんにも期待しないから、クレームなど言ったことがないけれど、あまりに待たされるので、席を立って声をかけ、あからさまに不満の表明をした。白衣を着た女のひとりが、「不安にさせてごめんね」と何度も言った。「ごめんなさい」と言え、と思いながら首を振った。血を見るようなこともないくせに、なんで白衣なんか着る必要があるのかと思う。

雨の音を聞いて、でも雨かどうかは確かめないまま横になる。体が引きつれるほど寂しい。あなたの肌、あったかいからまた一緒に眠りたい。かつて書いた言葉を思い出す。相手に届いたかは知らない。肌が合う、という言葉のことは、その頃しみじみ考えた。何ごとも、返事がなければわからないのに、返事をくれない人ばかりで口惜しい。

私に、南の雨を心配する資格はもはやない。どんなに地が揺れ、山崩れても、思いを馳せることは許されない。

2016年6月22日水曜日

涙の雨

夜中に涙が止まらなくてわあわあ泣いた、と言うと、おかげでこっちはどしゃ降りだったよ、と返してくれたので、すっと心が落ちつくような気持ちがした。気の利いた優しさだけが、どんな涙も止めることができる。

2016年6月19日日曜日

櫂から滴る水の音

あの人がいつか死んだら私はどうやってそれを知ることができるかしら、と嘆いたら、じゃあ死んだ時のための連絡網つくっとこうか、と彼女は笑って提案した。私たちはまだ30を過ぎたばかりだったけど、死ぬまでに途中ではぐれる予感は、お互い持ってた。

吐く息の薄い人

君のいいところは、世界には「意味」に回収できないものがあることを知っているところだ、と彼は言う。ありがとう、同志よ。私は輪郭の端の端まで言葉がほしくて、叶えられない時は相手を見限ってしまいたいくらいに傷つくのだけれど、それは意味の限界をなぞる言葉を聞かなければ、意味の外には触れられないから。あなたはちゃんと、それをわかってくれているのでしょう。

男たちは、眠りが浅いとぼやきながらいつもすぐよく眠る。彼らの寝息や寝返りは、ざわざわして私の集中を削ぐ。眠るのにも集中が必要な時期なのだ。でも彼らは必ず、僕だって眠りが浅いんだよと主張する。

好きだったものをいくつか、怖がらずに思い出す。煙草をくわえて、火をつけるまでの間にちょっと喋る姿、10年目のなじんだスーツの上着、折ったワイシャツの袖、仕事行きたくねえ、とぼやきながら朝、ひとつひとつ身支度していく姿。行きたくねえなあ、と頭を振りながらもう一本煙草に火をつける、あの感じは本当によかった。

生きてるのか死んでるのかわからないような、吐く息の静かな人に抱かれたい。

2016年6月16日木曜日

歌う旅人

眠りに落ちてからは一応朝まで眠っているはずなのだが、英語の歌を歌っていたらしかった。どんな歌だったのか聞くと、知らないという。聖歌っぽかったよ、キリスト教の、と言うが、聖歌がどんな感じのものか彼は果たしてどれくらい知っているのだろう。それで歌い終わってなんかどこか知らない国の言葉を喋ってたよ、アジアみたいなの、英語じゃない言葉だったよ。みたいなのって、それどこの言葉なの。なんで私がそんな外国語を喋るのよ。私の伯母が昔、フランス人の幽霊が頭の中に入ってきてフランス語でうるさくわめいて眠れなかったって言ってたけど、まさかそういうやつ? あ、そういえば幽霊の出る教会に行ってしまったんだった。えっ、かわいそうに、こんな遠い国まで連れてきたってこと?

それで朝6時に風呂に湯をはり、多めの粗塩とラベンダーオイルを入れた。体を流し、しばらく朝の光を見ながら湯につかった。姿の見えぬ旅人の、帰国の道ゆきを頭の中でちょっとイメージしてから、風呂の湯を抜いて一日を始めた。

2016年6月12日日曜日

newsong

絵に描いたような幸せと、絵に描いたような退屈。 その書かれた言葉だけが君の身体だ。

ビタミンCを飲むときはいつも、胃液を飲み戻すような気持ちになる。そういえばあの人は、はちみつのボトルにこの粉を入れて、スプーンにかんたんに振り出せるようにしているんだって言っていた。

2016年6月9日木曜日

初夏の宵

夕暮れ時、死体のように床に転がって泣くのがいちばん収まりがいい。声は立てずに涙を流す。母にもらったメロンが、なんだか畑から盗んできたみたいに、まるのままでリュックサックに入っている。これを食べさせてあげたい人が、いたのだった。そう思う気持ちと、背中に当たる床の硬さでいくらでも泣けた。死なずとも、生きているだけで先細りする人間関係などいくらでもあるというのに。

2016年6月4日土曜日

oblivion

メロンの箱を見て泣いていた。子どもの頃、ファミコンカセット屋さんかメロン屋さんになりたかった男の子のことを思い出したからだった。もう、あさりも、えびも、ほたても、メロンも、鰺も買えない。母に言うと、大丈夫よ、そのうち、考えもせずに買えるようになるわよ、と言ってから、もうずっと会っていないという、女学校時代の友人の話をしてくれた。彼女は哲学が趣味でちょっと暗くてまじめで、変わっていた子だったという。

今でもママ覚えてるのよ、その子が、oblivionっていう言葉は素晴らしい、って言ってたの。
……忘却?
そう、oblivion。
不思議なボキャブラリーね。
17歳にしてはね。でもそういう子だったのよ。

私がその言葉を知ったのも17歳だった。言葉の奥にたゆたう忘却の波、あのころうまく想像できるはずもなかった。

It’s calm under the wave in a blue of my oblivion.
Fiona Apple『Sullen Girl』

2016年6月3日金曜日

見送り

あんたの声は朝聞きたくないって言われた、と嘆く男をなぐさめた。休みの日の朝にならぴったりじゃない。今からもう一度眠れるっていう時になら、聞きたいと思うわ。男は美しいベルベットのようなつやの、低い声をしている。

今の時期、会社員たちはネクタイを締めない。Tシャツを着て、Yシャツをはおり、ボタンをとめ、靴下をはき、スーツを着る。11月までこの軽装だ。人によっては、スーツを着てから靴下をはくような気もする。もう朝出かけることのない私は、ベッドの中からその様子を見ている。その風景は、毎朝でも、いつ見ても、憂鬱なものだ。

体の妙なところが筋肉痛になるときは、へんなセックスに耽ったという理由以外あまり考えられない。季節外れの風邪引いたかも、と思う時はたいてい人の部屋で服を着ないで寝たせいだが、このごろ体が丈夫になったのか、そんなこともあまりない。