2016年7月28日木曜日

ある日(夜の墓)

いつおさんは、1Fの観光案内所の一角で働いている。庭の畑に赤しそが生えていて処遇に困っている、という話をマスターづてに聞いていて、しそジュースをつくりたいと思っていた私は、いつおさんにしその葉をもらいたいと考えた。しその季節は6月なので、もうあきらめていたのだが、もらえたら嬉しい。そう思って1Fに降りていくと、いつおさんは席を外していた。観光案内の席に座っている女の人に、髪の長いめがねの男の人が戻ってきたら伝言を頼みたいのですが、とお願いすると快く引き受けてくれた。それでちょっと考えて「いつおさんの畑の赤しそはまだ余ってますか? と伝えてください」と言った。ただ「お訊きしたいことがあるので2Fの喫茶に来てください」と言うよりおもしろいと思ったからだ。しばらくしていつおさんが喫茶に上がってきた。「赤しそが余ってるかって俺に言いに来た?」と言うので、伝言がうまくいったことがわかった。「女の人が、半笑いで伝えてくれた」そうだ。私の考えた台詞を伝え、覚えてもらい、相手に言ってもらうという小さな演劇は、成功した。

マスターとの、都会を脱出してきて島で店を始めた若夫婦のような、ふたりでの喫茶経営も今日で終わった。二十歳の女の子が東京から手伝いに来てくれて、明日からは3人で店番する。

近くのそうめん屋の娘さんが喫茶にきてくれた。スター・アンガーを眺めて彼女は「あたしあれ、ごはん待ちくんって呼んでるんだ、鳥のひながごはん待って口あけてるみたいに見えない?」と言うので、私も今度からひっそり、ごはん待ちくんと呼ぶことにした。

畑の帝王が、野菜とともに花を持ってきて、プレゼントしてくれた。野に咲くかわいい、白い花だった。花をもらうのは私の至上の喜びなのだが、めったにくれる男性がいないので、この時とばかりに帝王の目を見てしっかり受け取った。何ていう名前の花なの? と訊ねると「ノコギリソウ。葉がノコギリみたいやろ」という、可憐ではないけれど実直で好ましい名前を教えてくれた。ハートランドの緑の空き瓶に生けようと思い、用意していると「あっ、挿す前に水切りした方がええで」と言う。「茎、引きちぎってきたからな」と微笑む帝王は、やはりワイルドな男である。

マリコさんが昼間にきゅうりの浅漬けを持ってきてくれて、夜の坂手を案内してくださることになった。20時過ぎに待ち合わせて、喫茶のメンバーとともに海沿いを出発した。「今は月が欠けていくころで、月の出も23時くらいだからまだ星が見えるね」と、懐中電灯を携えたマリコさんは言う。海につながっている隧道を通り、坂を上り、畑を横切って寺に着いた。星を眺めると、天の川も夏の星座もたくさん見えて、これなら地球と同じ環境の星が宇宙全体に無限にあるというのも、わかる、と思った。宇宙の分子はひとつひとつ、可能性を確かめ、遺伝子の総当たりをおこなって、生き物として生まれれば進化をし、燃えたり凍ったり消えたりして、無限に、本当に無限にひろがってゆく。そのことと、私が私の生き方を試し、選び、進むということはつながっているのだということを、最近よく考える。

3年前、夕焼けの時間に、坂手の山の墓地に行ったことがある(当時の日記参照)。居心地のいい墓地があるとしたら、この墓地が私の知る中ではいちばんだろうと思う。西向きの山肌、島中でいちばん美しく海の見える場所に、坂手地区の墓地はある。夜、そこに連れていってもらうのが今日の目的だった。なかなか、好きな場所とは言っても夜に住民の付き添いなしに行くのは憚られるから、とても嬉しかった。墓にあるあずまやからは、坂手がすべて見渡せる。ちょうどジャンボフェリーが着岸している時間で、闇夜の港にひときわ明るさを放っていた。

マリコさんは、真っ暗な坂をすいすいと縫うように進む。坂手という地名は「坂が手のひらのようにひろがっている」ことから、坂手と名がついたと教えてもらった。ほら、と5本の指をひろげるマリコさんの手は、山の道を頂点にして坂を海までくだる道が何本も入り組むこの町にそっくりだった。話しながら、もっしゃんの生まれた家の前を通る。マリコさんともっしゃんは幼なじみだったんですか? と訊ねると、3つ年が違うから中学も高校も一緒にはならないのよね、その年頃なんて部活が違えばなおさらよね、同じ坂手といっても「海の手」と「山の手」に分かれていて私は山の方でしょう、海の子と山の子は、遊び場も遊び方も違うから、会うことはなかったなあ、といろんなことを話してくれた。そんなもっしゃんとマリコさんがどうして出会って結婚したのか、訊く前にわれわれは坂をくだり終えた。

エリエス荘に帰って、スーパーまで買い出しに行ってから、海を見ながら煙草を2本吸った。いつか死んだ人とも、お酒が飲めるようになったらいいなあ、と思う。それでさっき歩いてきた墓がある真っ暗な山の方向に、冷蔵庫から持ってきた缶ビールを傾け、ひとりで飲んだ。

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