2016年9月8日木曜日

後日談

▼5日
堤防の上を端っこまで歩いてゆき、立ってアイスキャンディーを食べていたら、後ろから「姉さん、落ちたらいけませんよ」と海上保安庁の人が声をかけてくれた。「誰が立ってるのかと思いましたよ」と笑われた。アイスをくださったお父さんが犬を連れてくるところにまた行き会って、秋に私もデュッセルドルフへ行くという話をする。13時に喫茶集合で後片付けと思いきや、みんなは近くのカフェレストランへ昼食に行った。私は相伴はせずに、喫茶でひとり、椅子を並べて横になったりしていた。

15:45の船で、麗しのニーナと息子が帰った。息子はニーナに抱かれて、船の2階から顔を覗かせている。大きく口を動かしているので、耳を澄ますと、彼はジャンボフェリーの歌をうたっているのだった。みんなに手を振ってもらって、最初は元気に応えていたのに、寂しくなってしまったのか、ニーナの胸に顔をうずめてしまったのが最後までかわいかった。

夜、制作なかちゃんとモモちゃん、琢生さんと4人でしみじみ缶ビールをあけた。エリエス荘には大学の夏期集中講義のためにたくさん学生が来ていて、ざわざわと空気を揺るがしていた。

▼6日
喫茶の常連さおりさんがお出かけに連れていってくださる。酒造にゆき、草壁港でジェラートを食べながら、昔のエリエス荘に来ていたグアムの留学生たちの写真を見せていただく。高校生のさおりさんは、はつらつとして今と変わらぬ明るい印象だ。彼女の笑顔はきっと、この港町を明るく華やかにしていただろう。それから、中山の棚田と、農村歌舞伎の舞台のある場所まで行った。モモちゃんに棚田を見せてあげられてよかった。ちょうどそこへスクールバスが来て、さおりさんのお子さんが降りてきた。お子さんは私とモモちゃんの名前を覚えていてくれた。

さおりさんは、昨年、娘さんの学校のプリントで演劇の上演を知り、観に行ってファンになったという。二日目の夜、チケットが取れなくても小豆島高校までゆき、食堂で待っていた時の話を聞いた。食堂には父親と息子らしきふたりがいて、静かに遊んでいた。さおりさんはその様子をただ見ていたが、終演後に劇場だった体育館から出てきた「ちーちゃん」が、駆け寄ってきてその子どもを抱き上げたのだという。「その時にね、ああ、お母さんやったんや! ってわかったの。何にも言わずに、抱き上げたのを見た時にそれがわかった」とさおりさんはまっすぐな目をして、言った。

いつおさんの誕生日パーティをひらくので、写真家Pがはりきって餃子をつくり、みんなで皮をこねて肉を乗せ、次々と包んだ。私は冷蔵庫の野菜の組み合わせをいろいろ考えて、残り物でおかずをつくった。餃子がとてもおいしくて、その日炊いたお米はほとんど翌日に持ち越した。パーティが終わってから、ニーナの息子がやり残した花火を持って、琢生さんとモモちゃんと3人で外に出た。風が強くてなかなか火がつかないうえ、たった2、3日置いただけで花火はすっかり湿気ってしまっていた。なんとか火花を燃やし尽くし、最後は3人並んで、線香花火を海に散らして夏を終えた。

▼7日
昨夜、大学生たちの喧噪でお風呂時を逃したので、朝6時にエリエス荘を出て、ホテルの温泉まで往復40分ほど、モモちゃんとふたりで歩いた。7:30の船に乗るモモちゃんを見送って、私も荷造りを始めた。私は15:45の船に乗ることにしていた。

喫茶の隣のスタジオでは、デュッセルドルフに留学するみきちゃんの最後の絵画教室が開かれて、おもに島に住むおばあさん方がたくさん集まっていた。えみこさんが喫茶にひょいと顔を出し「餞別に」昔の着物でつくった巾着をくれた。「いつか形見にね」なんて笑って手を振って、えみこさんは絵画教室に戻っていった。お昼に、昨夜の餃子の残りを焼いて食べ、ぜんぶ片付けた。宅急便の営業所まで送ってもらう途中、かすかに歌う青年の声を助手席で聴いていた。船が来る間際にさおりさんが現れて、かよさん、あやさんたちと一緒に見送ってくれた。別れ際、この世でいちばん優しい抱擁で耳が触れ合った。新幹線で眠ってしまい、気がついたら東京駅で起こされ、かつて勤めた38階建てのオフィスビルを見上げて、ここも私のふるさとだと思って身体に愛が満ちるのがわかった。東京駅から帰るはめになったせいで胸に傷の残る町を電車で通り過ぎ、苦しさがせり上がってきても、今夜は大丈夫だった。演劇が終わっても未知の日常は続いていて、私たちの人生がもし演劇ではないとすれば、それは自分ではラストシーンを決めることができないということだ。終わっても終わっても、また始まる。終わっても終わっても、びっくりするような出来事が起きて笑いあう。私たちは、ラストシーンを選べない。

海を眺めて吸う煙草は、吸い終わるのがもったいなくて、いつもぎりぎりまで燃やしていた。いつだか劇作家が言っていたように、太陽系に生きているかぎり私たちはひとつの太陽の下で眠って目覚めて生きていて、私は今日もまた、島の日々を思い出しながら狭いキッチンでライターの火をつける。短くなっていく煙草の先、まぶたを閉じて坂手の海を見ながら、火の温度が指先に近づいてくるのを感じている。

ある日(葬送)

喫茶の営業は今日で終わりで、アイスクリームが余っては困るので、少しでも多く食べてほしいとマスターが言う。それで、クリームソーダやコーヒーフロートを頼んでくれた人には数日前からひそかにアイスを多めに盛りつけていた。私も、喫茶が暇な時間を見計らってクリームソーダを買い、外へ散歩に出た。海沿いの堤防にまたのぼって、歩きながらクリームソーダを飲んでいたら、ポケモンをつかまえながらこちらに歩いてくる谷さんを見かけた。谷さーん、と声をかけて、しばらく海を見ながらおしゃべりした。「このへんミニリュウおんねん」と言って、谷さんは自慢げにポケモン図鑑を見せてくれた。もちろんまじめに今年の夏を振返ったりもした。そうしたら目の前の事業所から、以前喫茶に来てくださったお父さんが出ていらして、3人で少し話した。お父さんは「うちのばあちゃんがままごとのファンなので」と言いながら事業所の奥へゆき「これ持っていってください」とアイスキャンディーを10本ほどもくださった。空になったグラスと、アイスキャンディーのいっぱい入った袋を持って喫茶に帰り、マスターに、アイスが増えた! と報告すると、花壇の最後の手入れをしていたマスターは「何だって?!」とめずらしく大きな声を出した。バジルはこの日、全部刈り取られ、喫茶の隣のスタジオスペースに吊るされ、乾かされた。

何日か前から継ぎ足し継ぎ足しつくっていたカレーが余る見込みで、夜はみんなでカレーパーティをしようと言って何人か友だちを誘っていた。いつおさん、向井夫妻、みきちゃんなど。「ナンをつくってみたら」と向井くんが言うので、余っていた薄力粉とヨーグルトなどをつかってナンの生地をこね、丸めてとりあえず冷蔵庫に寝かせておいた。

特に誰が島から去るというわけではないが、2度目の散歩に出たら15:45のフェリーが着岸するところで、エリエス荘のエントランスを目指して歩いた。またしても堤防の上に乗り、船をよく見る。このところ私はばかになっていて、やたら高いところにのぼりたくなっているのだ。日曜日の午後便だから、テラスには普段より人が多かった。誰も知り合いはいないけれど、船がふわりと岸を離れる時に大きく手を振ってみた。今日の私は濃い赤のロングスカートをはいていてそれが風をはらんで翻るので、フェリーの上からでもだいぶ目に付いたはずだった。ちょっと歌ったりもして、日々への送別の気持ちをあらわした。

そんなふうに店をさぼっていた私が喫茶に戻ると、店内には、ままごとをずっと支えてくださった坂手の住人の方が順々に訪れてくれていて、ほとんど満席だった。夕暮れが近づくと自然にみんな外へ出て、みきちゃんは煙草を吸っていて、谷さんと赤ちゃんを抱っこしたまっちゃんは、並んでベンチに座ってエリエス荘を見ていた。嬉しかったのは、えみこさんが来てくださったことだった。「最後の日だからね」と、はにかみながらえみこさんはホットコーヒーを注文してくれた。えみこさんは、私に手話を教えてくださったご婦人で、盆踊りの夜に偶然お会いしてから、私にとってたいせつな交流を続けてきた方だった。えみこさんはみきちゃんの絵画教室に通っているのだけれど、最近なかなか会えていないみたいで、たまたま店内にいたみきちゃんを見つけてしばらく二人でおしゃべりしていた。みきちゃんは芸術祭に出す絵の大仕事をひとつ終えたばかりで、えみこさんは「忙しいんじゃないかと思って、邪魔したくなかったから」と何度も言いながら、みきちゃんとコーヒーが飲めて本当に嬉しそうだった。

18時になり「終演しました」という一言を発して、すぐにマスターは喫茶を片付けはじめた。さすが、ここはやはり劇場なのであった。私は、てきぱき片付けるみんなを横目に見ながらカレーパーティの準備をしていた。そのまま、若い島の友だちや、もっしゃんやきみちゃんを交えて打ち上げが始まった。

ねかせたナンのことを忘れていたら向井くんが「あ、ナンはあるの?」と言ってくれたので、思い出してこねて、フライパンで焼いた。人類が初めて焼いたパンみたいな、ひらべったくて簡単なかたちをしていたけれど、味は小麦粉と塩の味がして、ちゃんとおいしく焼けていた。薄力粉がまだ余っていたので、クレープの生地をつくって焼き、生クリームとブルーベリーソースで飾ってデザートにした。

キッチンを軽く片付けて席に戻ると、いつおさん、みきちゃん、向井くん、こにたん(向井夫人)の4人が、死んだらどんなふうにしてほしいか、墓とか弔い方、死に方の話をだらだらしているところだった。問われて考えたが、私の頭の中には土葬、火葬、風葬、水葬くらいしかなくて、人ってあんまり死んだあとのバリエーションがないなと思った。今まで見たことのある骨壺の話、火葬場のスイッチの話、この死に方はいやかなあ、という想定、今死んだらお墓はどこにするか、という話をしながら、べつに今死ななくってもいいんだよ! なんて笑いあった。私が、伴侶を散骨したあとも骨を少し持っておくと思う、と言ったら「その時の未亡人感がすごそう」と向井くんが言った。「黒いレースのついた帽子かぶって崖に立ってよ」と言うので了承した。「散骨って死体遺棄にならないのかな」と相変わらずいつおさんはブラックジョークを言うので、粉々にしないとだめらしいわよ、と私はまじめに答えた。25とか30とか40歳の大人が食事をしながら死について和気あいあいと話しあっているところに、21歳のモモちゃんがお皿に残っていたクレープを取りに来て、もぐもぐ食べながら横で話を訊いていて、そういえば今、私たちは生きてるんだなあと思った。

パーティは22時で終わり、エリエス荘に戻ってからも少し話した。私はみきちゃんとふたりで、真っ暗な食堂で深夜までしゃべっていた。子どもを産むことはとりあえずすっ飛ばして、孫を持っておばあさんになってからの話をした。この土地に生きる皆さんは、この土地で死ぬんですね。あの坂の上のお墓に入る時に、ここで観た演劇の記憶や、出会った異郷の人々の記憶が、ほんの少しだけお骨に染みこんでいたら嬉しいです。気持ちわるいこと言ってごめんなさい。でもあなたもあなたも、いつか死んであのうつくしいお墓に入るんでしょう。その時私の身体はどこにあるかわからないけれど、ふたりで手をつないだ一瞬の記憶は、あなたと私の骨にほんの少し、残るのかもしれないと思います。

2016年9月6日火曜日

ある日(空を飛ぶ)

俳優のSI嬢が島にいたころ、エリエス荘の喫煙所でふたりで話をたまにした。ぼーっと海を眺めながら煙草を2本くらい立て続けに吸い、身体のことを話していると、よく、安らぎとか生き方とかの話になった。犬島と直島を訪ねた私は、その島のサイズにやっぱり驚いて、たとえば自分がそこに暮らすのはむずかしいと思った、という素直な感想を述べた。歩いてまわれる島では自分の身体が縮んでしまう気がしたから、と答えたらそれをSI嬢はおもしろがってくれた。小豆島は、車で移動しなければいけないところがたくさんあるでしょう、車は、自分で運転するでしょう、だから車は拡張された身体の一部みたいなものでしょう、小豆島を車で走るということは、普段私が自分の足で歩くよりも拡張された身体で移動するということなので、自分がすこし自由に、大きくなったみたいな気がするの。

スーパーマーケットに買い物に行って、普段ならためらうんだけど2台の車の間にバックで入れて停めてみた。車を日頃から運転する人にとっては何ということもない操作である。でも私はあんまり駐車がうまくないから、何度か切り返しをする。やらないと上達しないからいつもエリエス荘の駐車場で練習していて、それでもなかなか上手にならなくて悲しかったけれど、今日、スーパーマーケットで停めた時は一度でばっちり入って、車体もまっすぐで、これは何かが身体に浸透した証拠だ、と思った。もしこの車が人間だったら、握手して快哉をさけびたいほどにきっちり駐車できたのだった。

スーパーマーケットで、昨日、麗しのニーナたちと偶然会ったりしたものだから、誰かに会うんじゃないかと思ってあたりを見回した。これも島に暮らす身体のふるまいだな、と思った。

真夜中、エリエス荘の食堂にいたら、フェリーが港に着く音がした。いつものことなので、ちょっといつもより遅れたね、などと言い合いながらエンジンの音に耳をすましていた。スマートフォンを見ていたら、京都の若い演出家が坂手に一瞬寄港していたようで、気づいたのは船が出る音がしてからすぐあとのことだった。エントランスを出て、遠ざかっていくフェリーを見送る。ライトをつけて手を振ってくれたらよかったのに、というメッセージが来たので、遅ればせながらあかりをともしてみたけれど、彼にはきっと見えなかっただろう。暗がりの中、しばらくずっと港にすわっていた。寄せては返す波のように、フェリーは港に立ち寄り、すぐに綱をといてまた旅立っていく。

画家のみきちゃんは、小豆島にたくさん壁画を描いている。ニーナの息子が「あのえもみきちゃんがかいたの? あれもみきちゃんなの?」とニーナに訊ねるので、いつもニーナは「そうだよ」と教えているらしい。そこで息子には新たな疑問が生まれる。「でも、てがとどかないんじゃない……?」。息子はまだ、脚立の上の世界を知らない。4歳というのは、自分の身体の大きさが、自分の身体の大きさ以上のものにならない年なのだ。同じように、どうやって高いところに絵を描くのか島の子どもに訊かれた時、みきちゃんは「空を飛んで描いてるんだよ」と言ったという。少年は目を丸くして「じゃあ今飛んで」と言ったけれど、みきちゃんは「今はだめ」と断り、さらに「君のお母さんも本当は飛べるんだよ、大人はみんな飛べるの」と教えた。「だってサンタも飛ぶじゃん」と言ったら少年は納得したという。かっこいい大人になるということは空を飛べるようになることだが、それを見せびらかしたりしないのも、また大人なのである。

2016年9月4日日曜日

ある日(ブルーベリー)

大きな虫が飛んできて、羽音が怖いので手ぬぐいをエプロンから取り出して振りまわし、追い払おうと努力していたら、マスターが喫茶から出てきて「何踊ってんの」と言った。「パフォーミングアーツだね」と笑っている。マスターは最近疲れていて笑い方が冷たいんだけれど、そこそこ長い付き合いだし、1か月以上も一緒に暮らしていてそのことは分かっているので、寂しいけれど傷つかない。

午前中のうちに、スーパーマーケットに行った。 野菜売り場の向こうで、聞き慣れた声がしたのでひょいと覗くと、麗しのニーナとその息子、制作N嬢の3人だった。「あらやだ奥さん」などと言い合って、別れる。島を歩けば知り合いに当たる、という言葉の意味を肌で感じかけている。ブルーベリーをもらったのでお菓子をつくろうと思い、無塩マーガリン(バターは高いから)とベーキングパウダー、クリームチーズを買った。喫茶の暇を見て、レアチーズケーキとパウンドケーキを焼いた。ケーキは、型がなかったので牛乳パックを切ってホチキスで留め、代用した。エリエス荘のオーブンレンジにケーキを入れ、甘い匂いがしてくるまでニーナとその息子としばらく遊んで、ふたりがお散歩に行くのを見送ってから、焼き上がりを待って喫茶に戻った。

夜はたこやきパーティに、つくったお菓子を持って喫茶のみんなで訊ねた。スイフの飼い主M夫妻や、島に嫁いだアーティストとその家族など、多くの若い人があつまった。優しくてあかるいT夫人の恬淡さ、鷹揚さに、かつてニーナがどれほど救われたかに思いを馳せ、夫人の手料理の数々をいただいた。缶ビールも時間をかけて1本飲んだ。T夫人が犬を3年介護して看取った話や、甘えん坊のスイフの話、M夫妻にもうすぐ生まれる赤ちゃんの話などをした。島で結婚して子どもを産むことについて、私も想像せざるをえなかったけれど、想像の限界というものは何にでもあって、だいたいの時間は黙ってじっと考えていた。大勢が「一堂に会する」感じは、身体同士の距離感がとても近くて、「盆に兄弟がみんな帰ってきとるみたいやな」とT氏が言うのを新鮮に理解した。小さい子どもが何人もいて、昔、両親とその友だちがあつまって、幼稚園も学校も違う私たち子どもがみんなでぎこちなく遊んでいたのもこんな感じだったな、と思い出していた。昔を思い出すだけでなく、未来のことを考えられるようになったのは、やっと最近のことなので。

帰り道、星空を見上げながら、君はとても防御力の低い人間だから、一緒に戦う人ではなく、戦う君を守ってくれる人とチームを組まないと持続可能に機能しない、と人に言われたことを思い出していた。守ってくれる人から同時に傷をつけられる時はどうしたらいいか訊ねたら、それは茨の道すぎる、という返事が来たので、どうしたものかそろそろ考え始めないといけない。

2016年9月3日土曜日

ある日(朝日、夕日)

書くのが進まなくて、また堤防にのぼって散歩した。私は子どもの頃から、話したいことを事前に練習してから話すくせがあって、今でもひとりになると、今ここにいない相手に向かってぼそぼそ喋って、イントネーションを工夫したり、言われてもいない相手の答えに怒ったり、会話を分岐させて想定を何種類も用意したりしてしまう。それで、最近のひとりごとは全部、関西のアクセントなのだった。音程とリズムと流れに自分をなじませて喋ると、島の方言(なのか、関西弁ごちゃ混ぜなのか?)に身を委ねることになる。でも、なじむのも相手の濃度によるというのもわかってきた。移りやすい相手とそうでない相手がいて、差はよくわからないけど、話す時の勢いとかこちらの気の持ちようなんだろう。浸食されてもいいかな、と思う時は私もいろんな言葉づかいを試す。

喫茶を手伝ってくれていた大学生の朝日が、東京に帰っていった。今日のバスがいちばん安いから、という理由だった。気持ちが優しくて面倒見と効率がよく、しかし野蛮な危うさも残したふしぎな子だった。ひとりで山登りをしながら犬の真似をしたり、みんなと砂浜に遊びに行って犬の真似をしたりしていたらしかった。もしかしたら朝日は犬そのものだったのかもしれなかった。フェリーが出港する時に、4歳になったニーナの息子が「あさひー」と彼に呼びかけた。朝日は「なーにー!」といつもの調子で叫び返した。「あそんでくれて、ありがとー!」とニーナの息子が言うと、はるか遠く、ジャンボフェリーの乗り口で朝日は、撃たれた人のような顔をした。「またあそんでねー!」という息子のたたみかける一言で、朝日は名前のとおり、東からのぼってきらめくような笑顔を見せ、島を去った。

夕方、いつおさんと久しぶりに喋った。モモちゃんが「いつおさんはこれからもずっと島に住むんですか」と訊ねたら、いつおさんは「そうね」とうなずきながら「どこに行くにもまず一度船に乗る距離感がちょうどいいかな」と言った。正確には、それを訊いたのがモモちゃんか誰だったかは忘れたが(だから日記は、本来その日のうちに書いておくべきなのだ)いつおさんのその答えが印象深かったから、よく覚えている。

海運業の青年がひさびさに姿を見せ、日曜日で喫茶の営業を終えるわれわれをねぎらってくれた。観光客はフェリーの出航直前に店に来るが、島の住人はみな、仕事の終わった夕方とか、船の時刻表と無関係にやってくる。他に客がいなかったので、マスターもふくめて全員でお茶をしながら、少し喋った。夕焼け小焼けのチャイムが聞こえたので、あっ、閉店しようかな、と思って時計を見るとまだ17:30だった。あれ? 今日鐘なるの早くない? と私が言うと「だって今日から9月やもん」と青年は言った。いやいや聞いてないし、と私がかぶりを振ると彼は「暗くなったらはよ帰らんと親御さん心配するやんか」と当たり前のように言った。育った環境の違いとは、何をふしぎに思うかの違いなのだった。

ある日(堤防)

朝、劇作家とミュージカル女優、その幼な子、俳優がフェリーで帰っていくのを見送ってから、喫茶に行ってひとりでカレーをつくった。朝の体操は日曜日で終わっているのだけれど、毎日誰かが朝のフェリーで帰るので、見送りついでに喫茶に出勤している。8時前、店の扉をあけて空気を入替え、お湯をほんの少しだけ湧かして紅茶を入れ、窓を閉めてから、外に出て煙草を吸う。少し歌もうたう。それが今の自由だなと思う。

朝4時まで起きていたことは別に関係なくて、喫茶が暇だったからちょっとエリエス荘に戻ろうと思ったのだった。それで、まあちょっと眠ってもいいかなと思い、薬を飲んだら当たり前だけど起きられなくなり、もう秋だから部屋もそんなに蒸し暑くないし、昼過ぎまで休んでしまった。休んだわりに罪悪感が残って意味がないのだけれど、記憶がないから罪悪感もあまりない。でも、今思い出してこうして書くのはやはり申し訳ない。この気持ちは、昔、会社を午前半休して、そのまま、忙しくもないし私が行かなくてもいいだろう、とずるずる全休したりした時の気持ちに似ている。

自分の行動を思い出すと、たしか喫茶にふたたび出勤する前、風が涼しくてあんまり寂しいから、堤防の上にのぼって海のふちをしばらく歩いたのだった。道路を挟んだ店のガラスに私の姿が映っていて、なんとなく写真に撮った。それで、こんなに海のそばを歩いていても、もう「落ちてしまいたい」とか「引きずりこまれる気がする」とか思わないことに気がついた。そうして私は、無事に喫茶に復帰した。ちょっとした魔法が、必要な時に必要なだけかかるように、最近の私はなっているのだ。

私が眠っていた頃、喫茶で働く若い子たちは、麗しのニーナの息子とその父と、瀬戸の浜に行ったらしかった。あとで、8月最後の日、晩夏の海の写真を見せてもらった。そういえば私は、月を見に車を飛ばしたことはあるけれど、昼間の瀬戸の浜には行ったことがない。

2016年9月2日金曜日

ある日(ままごとさん、ピザ)

「ままごとさんとあそぼうよ」というのは、2013年の瀬戸内国際芸術祭・秋会期にはじめておこなわれた催しである。自転車で坂手の町をまわり、紙芝居をしていた麗しのニーナに、とある婦人が声をかけたことからおこなわれるようになったもので、経緯はこの記事の劇作家インタビューに少し書いてある。先日からみんなが練習していたのは、今年のこの公演の出し物であった。今年は坂手の元幼稚園で、10時から、一人暮らしのお年寄りの方のあつまる会で、上演されるのだった。昨日、四国での公演を終えたばかりの月ちゃんも合流し、歌と演劇を披露した。歌にあわせて手話をおこなっている方がいらしたので見ると、それは盆踊りの晩にお目にかかった、東京に昔お住まいだったご婦人であった。彼女は、今度喫茶に、手話のプリントを持ってきてくださるとおっしゃった。孫に連れられて喫茶にカレーを食べにきてくれたおばあちゃんのことも思い出し、この近くに住んでいらっしゃるはずだけれど今日のこの催しのこと知ってるかな? ごらんになったらきっと喜んだだろうに、と思っていたら休憩の時にお見かけしたので声をおかけした。おばあちゃんは、喫茶で会ったみんなの名前を覚えてくださって「元気?」と気づかってくださった。「ままごとさん」たちは、坂手のあとに隣の港町にもゆき、一日2回の公演を終えた。

昨年の小豆島高校での演劇製作の様子をまとめたドキュメンタリー映像の上映会が、喫茶でおこなわれた。ポテトサラダ、豚バラとにんじんのごま油いため、たこと野菜のバジル炒めをつくって、夜の営業を迎えた。お客さんは皆、小豆島に住む人々だった。ここからまた、新しい協力者、地域にたいする文化の「翻訳者」をさがして、つくっていかなければいけない、と思った。

麗しのニーナは、またの名前をちーちゃんと言う。ちーちゃんには4歳の息子がいて、3年前、彼は1歳だった。ちーちゃんが息子をおぶって、小さな港町を自転車で回って紙芝居を見せていた夏のことはよく知っている。息子は大きくなり、私に抱っこされるのも厭わず、一緒に夕焼けや海や船を見る仲になった。思い返せば、3年前のちーちゃんの姿は、必死で切実でうつくしかったけれど、孤独だった。上映会終了後、ちーちゃんが今まで支えてくれた町の人々に感謝の言葉を述べながら、涙をこぼして大笑いするのを、カウンターの中、いちばん後ろから私は見ていた。その時だけじゃなくて、私はちーちゃんが息子を育て、演劇をし、人々にひろい視野と感動を与える様子を、これまでも見てきた。その経験と気持ちを大切にして、これからも、演劇のクオリティや影響力、新しさについて考えつづけていくことになるだろう。ちーちゃんはもう孤独ではなかった。

夜は、画家のみきちゃんと、京都から来た花火ちゃんと温泉に行く約束をしていたから、上映会の打ち上げを中座した。22時過ぎにみきちゃんが迎えに来てくれた。ホテルの露天風呂に長湯して、星と海を見ながら、生と死の話をした。暗い風呂で、死の気配を随所に漂わせつつ、おもに未来の話をしたのはふしぎなことだった。帰りにみきちゃんが、ピザめっちゃ焼いたから寄っていかない? と言ってくれて、ぜひ行きたいと思ったから行った。それはとても特別な夜になって、その証拠に、私が自分の部屋に帰ったのは朝4時だった。