2016年8月31日水曜日

ある日(嵐の後)

雷と大雨の音で目が覚めた。朝の4:00だった。3時間半後の、朝いちばんのフェリーでスイッチリーダーは帰京した。毎朝、ゆりちゃんが中心になって朝の港で歌を演奏しているのだけれど、今日は雨の中傘をさしながら、スイッチリーダーのためにみんな切実に演奏した。
もう一度眠ることにしたらなかなか目が覚めなくなってしまい、気がついた時には休日の喫茶でパソコンをひらいていた。その時はしっかり歩いていたのだけど、どうやってエリエス荘を出たのかは記憶がない。喫茶は休みで、でも常連客が何人かおしゃべりしに寄ってくれたのは覚えている。コンタクトレンズを入れていないので、顔を近づけないと誰が誰だかわからなかった。14:00ごろマスターが現れてからも意識がはっきりせず、椅子をつなげて横になり、ぐったり眠った。風が強くて火がなかなかつけられないので、煙草で目を覚ますこともできない。風は荒れ狂いつづけ、夕陽の燃えるような時間になるまで、結局頭はぼうっとしていた。 

大潮の時期と、嵐のせいで、雨がやんで夜になっても、エリエス荘が水没するかと思われるほどの高波が岸を打っていた。港の防潮堤が閉じられているのを、初めて見た。

近所にもう3年も暮らしている若い画家が、友だちと連れ立ってきてくれたので、エントランスのソファでおしゃべりした。バックでは、ままごとのメンバーたちが明日のリサイタルの練習をしている。画家は巻き煙草を巻いてくれて、何本もくれた。煙草を吸う人がいないから、うれしい、と言ってふたりで何本も吸いながら話した。2013年に最初に坂手に来た時のこと、そのころそっけなかったおっちゃんたちも、翌年2014年になると観光やクリエイティビティに目覚め、掘建て小屋を建ててドライブスルーかき氷屋を始めたとか、かき氷の売り上げがあれば毎日あるだけ飲み代に使ってしまった、とかいう話をいろいろ聞いた。ずいぶん話してから、それでは明日一緒に温泉に行きましょう、という約束をして画家とは別れた。エリエス荘のエントランスには、深夜2時近くまで、トイピアノの音が響き、俳優たちが歌と芝居のリハーサルを繰り返していた。

ある日(嵐の前)

つくりたてのカレーは味が若い、という話をしてから、毎日メンバーで味見をしては「この味は、まだ文学座の研修生になりたて」などと言い合っている。昼前に、味がいまいち決まっていない時は「ネクストシアターに入団したけれど、芽が出ていない感じだ」と言われ、チーズやジャムを入れて味の角がとれれば「年上の俳優に籠絡されて、芸が深まった」などと言われる。最終的に、夜のカレーは鍋にこげついたりして苦みが出るので、柄本明とか呼ばれたりすることもある。今朝仕込んだ40人分のカレーは、微調整無しで、一度で決まった。有望な若き俳優の名前をみんなで次々あげながら、スパイシーさと深みのバランスをかんがみ、染谷将太に決めた。彼の成長を、カレーの熟成具合になぞらえて、その日は一日楽しんだ。

喫茶でのパフォーマンス販売の最終日、客人は大入りで、飲みものや食べものを買うのと同じように、劇作家や俳優たちのパフォーマンスを購入しては、目の前で立ち上がる未知の情景に、目を見開いたり歓声をあげたり、していた。その中に、何度かすでにここの喫茶で見かけている女性が、今日も来てくれているのに気がついた。

彼女は池田から来ていて、昨年の小豆島高校での公演があまりにすばらしくて、惚れ込んでしまったのだという。公演の初日を見て、もうチケットはなかったけれどどうしても側でもう一度感じたくて高校に行き、食堂で待たせてもらったと言っていた。そこから、ままごとへの思いを持ち続け、今年も喫茶に通ってくれていたというわけである。島育ちの彼女は、エリエス荘が昔、グアムからの留学生との交流の場だったということを教えてくれた。小豆島とグアムで、交換留学が行われていて、英語の好きな子たちは、自転車でエリエス荘に行って、そこに滞在している同年代のグアムの子たちとおしゃべりを楽しんだのだという。もう20年も30年も前だけどね、とはにかんで微笑む彼女は、かわいらしい少女の顔に戻っていた。

昨日も今日も、東京から私の友人が島を訪ねてきてくれて、とても嬉しい。大学の先輩がだんなさんと、昔ワークショップでいっしょに批評を書いた高校生がお母さんと、来てくれたりしている。

喫茶の片付けをしてから、演劇公演の打ち上げの飲み会に少し出た。エリエス荘の食堂は、この夏いちばんのにぎわいだった。大潮の影響によるルート変更(さすが海沿いの町だ)があったらしく、瞬時の判断の積み重ねで演劇公演が回っていく様子を、目の当たりにした。たいへんにお世話になったもっしゃんとマリコさんのために、俳優たちが00:00開演の落語演劇を上演するのを、みんなで見せてもらった。瞬発力と技術の粋を極めた深夜公演だった。

喫煙所にひとりで立っていると、マリコさんが外に出てきた。落語すばらしかったですね、と声をかける。あの船、何時間も前からずっと沖に停泊しているんです、巡視船ですかね、何でしょうね、と訊いてみた。あれは客船やないかなあ、台風が近づいてくるとね、動けなくなるからこのあたりの静かな海でじっと嵐が去るのを待つのよ。内海湾にね、10隻くらい停まってるのは、すごく綺麗よ。そうしてマリコさんとしばらく暗い海を見ていた。風が強く、潮が高くなりはじめていた。雨はまだ降り出してはいなかった。

2016年8月29日月曜日

ある日(サロン)

朝になれば歌が響く。船は、こちら側に向かって出発する時刻だ。暗い海を進み、朝を連れてくる。

というパラグラフが知らない間に下書きに残っていて、意味がわかるようなわからないような感じだが、そのまま使うことにする。眠りかけているのに何か書き残そうとする根性がいけない。「船は、こちら側に向かって出発する時刻」というのは三ノ宮からフェリーが出る25:00のことを差していると思われ、この間夜行フェリーに乗った時に、朝、坂手港が見えてきたのがよほど嬉しかったのだろう。夜にもたれて生きる暮らしが長く、聴く音楽も、読む本も、書く文章も(多少月や星の輝くことはあれ)、ほとんど真っ暗な中に生きていた。 あの風景はたしかに、私の中の何かのシフトを、夜から朝に切り替えたのだった。

昨日から、ふたたび俳優山内氏が島にやってきている。「一週間ぶりに会ってまた顔つき変わってるもんねえ」とさらっと言ってくれる。え、どう変わりましたか。「生活者かなあ」。山内氏の言葉はいつも端的である。「山に暮らせばみんな朝4時に起きるようになるからね、海のそばで暮らしたら早起きになれるっていうのは俺は知ってるよ」と私を励ましてくれたあとで「そろそろ長いもの書くんじゃないの」と言い残して彼はぷらっと去っていった。その言葉の意味を、今日もずっと考えている。長いもの。

夜の演劇公演は満員で、そのあとで喫茶に来てくれるお客さんも多かった。カレーは完売したが、ビールは先週ほど多くは売れなかった。

今年のエリエス荘には、演劇人が多く訪れる。2013年はおそらく、デザイナーや建築家や写真家など、もっともっといろんなジャンルのアーティストがいたのだろう。でも今、こうして、演出家や俳優、ドラマトゥルク、舞台照明家、舞台美術家などが次々来ては、多くの感情と少しの言葉をかわし、また別れていくさまはとても希有なものに思える。たとえば今だって、エントランスホールでは柴幸男、大石将弘、光瀬指絵、山本雅幸が落語の読み合わせをしている。島のどこかでリーディングを披露するらしい。私はそれを、玄関を出たところの、喫煙所でかすかに聞いている。

出港する船は、ゆっくり岸を蹴って浮かび上がるように、一定の速度で私から離れてゆく。深呼吸しても、目を閉じてひらいても、まだ視界から消えない。それを見ながら、ああ、船での別れならあきらめがつくなと思った。じゅうぶんに惜しみ、思い出し、いつくしむ時間が、船の去り際には残されている。

2016年8月28日日曜日

ある日(フラッグ)

私のいとこの子は電車が大好きだけど、もしかして島の子どもは、電車じゃなくて船を好きになったりするのかな? という可能性に、港にジャンボフェリーが着いた瞬間、思い至った。でも、宇宙船や飛行機に憧れる子どももいるわけだし、普段見られない電車に恋いこがれる子がいても、いいなと思う。

夕方、三ノ宮からやってきたフェリーが入港してから、また出ていくまでをずっと見ていた。喫茶からは、客が徒歩で降りてくるところはあまり見えないから、いつもタラップから吐き出されて流れる車と、順番を待って吸い込まれてゆく車を眺める。束の間、地面に橋を架けてまたそれを丁寧にしまって、船は行ってしまう。タラップがしまわれるところがよく見えなかったので、ベランダの椅子の上に立った。誰かに、不審な女と思われるかもしれなかったけれど、船をよく見たい気持ちの方が強かった。それで、船尾には、船籍の旗が翻っていることに気がついた。日の丸。愛国主義にしろ、啓蒙活動にしろ、情熱のオリンピックにしろ、とかく煽動的な運動にもちいられる旗しかこのごろ見ていなかったから、純粋に「この船は日本の船」というしるしとしての意味、それ以上でもそれ以下でもない国旗を見て、ひとつまた気持ちが楽になった。

昔、防衛大学校にゼミの一環で行った時、同い年の学生たちが信号旗で交信しあうのを見た。旗ひとつひとつにアルファベットが割り振られており、それを読むことでどこの船か、航海の目的は何なのかがわかる。海の上では、船籍がわかった方がもちろん便利だ。危ないし、衝突は避けなければならない。命がけである。それが当たり前だ。何度も言うけれど、それ以上でもそれ以下でもない。考えているうちに、よぶんな苛立ちや嫌悪が削ぎおとされていく。煙草をくわえて、火をつける。フェリーが出港すると、風向きはいつも変わる。

暗くなってから、ぽつぽつ雨が降ってきた。明日の夜の公演に直撃するのは、避けられた。バーベキューが昨日でよかった。そのかわり、喫茶の売り上げは芳しくなかった。

2016年8月26日金曜日

小休止Ⅳ

いつもよりさらに早起きして、直島へ行った。土庄からの高速船では、波しぶきの飛ぶような席に座ってずっと海を見ていた。

直島では、宮浦港に到着した。まだ朝が早くて、開場していない美術展示も多かった。ガラス越しに覗いていると、腰を曲げてカートを押し、ゆっくり歩いている老婆に「まだ開いとらんでしょ」と話しかけてもらった。これから彼女は、月に1度の診療所に向かうのだという。展示場の建物の持ち主についてや、脚の丈夫な若い人がうらやましい、という話を少し聞いてから別れた。入り組んだ道に立ちいりすぎて港に戻れなくなり、坂道を降りてきた女性に訊ねた。教えてもらった角を曲がると、さっきの老婆の背中が遠くに見えた。

直島のもうひとつの港、本村の近くで、民家を美術家たちが改装した作品群を観て、山の上のミュージアムへ向かった。ミュージアムの、コンクリートに囲まれた一室で、パフォーマンスをひとつ観た。この作品を手がけたのは演劇作家のO氏で、この時期、船に乗って島にやってくる人々に向けて、語りかける内容だった。観ながら、力を抜いて、入れて、それを続けたから最後はくらくら眩暈がした。この作品をただちに、直島(あるいは瀬戸内の他の島)に住んでいる人に向けたものではない(=に見えない)から、といって批判をするのは適切ではないと思う。いつだって経験は対になっており、旅人と出会ったその土地の住人は、「裏返された」かたちで旅を経験できるのだろうから。本作については、機会をあらためて詳しく書くことにする。

ミュージアムから海へとくだる道を降りるとそこには人があふれていて、シャトルバスには乗れそうもなかったから、ふもとまで歩くことにした。後ろから西日に射たれて、 海は真っ青で寂しくて、できることなら私は誰かといっしょにこの道を歩きたかった。足下に落ちる長い影は、残暑に灼かれてくろぐろとしていた。それを見て、私はもう変わってしまったと思った。あなたは私のこと置き去りにしたつもりかもしれないけれど、本当は私があなたを追い越しているんだ、いつも。私は今こんなに自由で、ひとりで離島にいて、違う星の地平からみんなを見ているような顔をしている。だけど、あなただけが不自由とか私だけが不幸せとか、そういう話をしたいのではない。それに気づいたからと言って、何がどうなるわけでもない。

帰りは岡山県の宇野港へ一度わたり、そこから豊島の家浦港、唐櫃港を経由して、また土庄港へ戻った。小豆島に戻ると安心する。里心がついてしまったのだ。バスに50分乗ってエリエス荘に戻ると、エントランスを出たひろい場所でみんながバーベキューをしていた。さすらいの演出家が来ていて、彼のことは私も知っていたので、あいさつをかわした。頭上にはビニール紐を使って、ランタンがきわめて機能的に吊られていて感嘆した。さすらいの演出家が、ものの数分で設計し、取り付けてくれたのだという。彼はその夜、みんなのためにギターを弾いて歌もうたってくれた。『セーラー服と機関銃』を最後にうたって、歌詞を見ながら彼が「これは男の夢物語ですね、いつの日にか僕のことを思い出すだろう、なんてね」と言うので、思い出す女もいますよ、と言ったら「女の人側からそんなことを言うのは道徳的にだめです」と注意された。私は、道徳からはまあまあ外れた人間だから、それでも構わなかった。忘れられてもいい、私が覚えているから、とこれまでは思い捨ててきたのだ。だけど今日からは、相手も私を忘れていないかもしれないし、むしろ出会ってよかったと思ってくれているかもしれない、と想像してみることにする。なぜなら今日直島で、いつだって経験は対になっている、と演劇作家のO氏に背中を押してもらったからだ。

ある日(閉店後)

開店準備の時間になっても、マスターは来なかった。連日の喫茶営業で、疲れているのだろう。特に困ることもないし、彼の心がいつも安らかであってほしいから、電話もせずほうっておいたら1時間後くらいに現れた。

今朝は、家族にまつわるたいへん怖い夢を見て早朝から息があがったのだった。手触りの生々しい、ぞっとするシチュエーションで、何か悪い印ではないかと気を揉んでいたところ、実家の小型犬が昨夜から血便、嘔吐を繰り返しているという知らせがあった。これから急いで動物病院へ行くという。遠い島でひとり、不安な気持ちで続報を待っていた。夏場に多い大腸炎だった、今はもう回復に向かっている、という連絡が弟から来て、喫茶で胸を撫でおろした。でも、きっと小型犬は、身代わりになって家族に何か起こるのを守ったに違いなかった。弟の夢には、去年死んだ大型犬が登場していたらしい。ちょうど小型犬がぶるぶる震えて嘔吐していた時間だったようで、小型犬を守ったのは、死んだ大型犬だったんだな、と思った。

閉店して看板をしまってから、道を見下ろしていると、T夫人と画家が、トイプードルを散歩させているのが見えた。旅人がふたり、T夫人に話しかけている。きっと、このあたりに食事のできる場所はないか訊ねているのだろう。喫茶が閉店する時間には、このあたりは何もなくなってしまうから、彼らは困るだろうなと思って見ていた。次の瞬間、2階のベランダに私の姿をみとめたT夫人が「まだ開いてますかー」と叫んだので、少し考えてから、本当は閉店していたけど「いいですよー」と叫び返し、手で大きなマルの形をつくって答えた。そして旅人たちを迎え入れて、カレーを食べてもらった。T夫人と画家も、トイプードルを連れて少し遊びに来てくれたので楽しかった。

そうこうしていると、同じく行き場所のない若者5人組が階段をのぼってやってきた。次のフェリーの時間は20時を過ぎる。断ろうかと思ったけれど、この際だから入れてあげた。ごめんね、カレーがもう3人分しかないのよ、と私が言うと、若者たちはじゃんけんをしてカレーを食べる人を決めていた。争奪に敗れたふたりには、そうめんを大盛りにしてあげた。

夜はまた曇っていて、星はあまり見えなかった。でもその方が、星の綺麗だった夜のことを忘れなくていい。

ある日(日常、船)

今季3度目の夜行フェリーで、坂手に到着した。昨夜は夜半に山陽本線に乗り、三ノ宮まで戻った。こんなに疲労困憊したのは4年ぶり、と思うほど疲れ、車内の座席ではぐったり横になっていた。無事にフェリーに乗り込み、体を横たえるまではがんばった。この頃は、船がエンジンをかける音がわかるようになってきている。急な変化に思えるけれど、経験が緩やかに堆積して、水面に顔を出したのだろう。船は静かに、暗い海を進む。

喫茶に帰って、また働き始めた。喫茶は一日のんびりしていた。マスターが急に壁をばん、とたたいたので顔を上げると、「しんじゃった、虫」と、少し悲しげに言うのが聞こえた。パフォーマンスの販売は、劇団にかかわる全員が空間をうまく共有し、閉じることなく、高い地点に到達している。そういえば坂手のきみちゃんは、先週末から体調を崩しているらしく、最近顔を見せない。

夜、劇団のメンバーたちがエントランスで歌の稽古をしていた。朝日が、ギターを持ってその輪に加わっていた。メンバーたちの声を聞きながら、エリエス荘の外に出て、ひとりで歌うことにした。ボラードに腰かけて、小さな声で2曲か3曲ほども歌った頃、暗い小島の向こうをフェリーが横切っていくのを見た。あの航路はジャンボフェリーではなく、高松の方角に向かっていく別の船だ。そういうことも、私はもうわかる。右手に見えている陸地は志度の岬だということも。船でしか行けない場所があると、身体の奥底で実感している。今では、バスと高速船とフェリーを乗り継いだ移動の計画だって訳もなく練ることができる。 海の上を滑るように移動する船を見て美しいといちいち感じるほどには、まだまだ非日常の風景だけれど。

今朝、フェリーの展望台から見た、だんだんと近づいてくる坂手の風景は、忘れないでおこうと思う。私が港を懐かしみ、帰ってきた、と思う時、港もまた私を懐かしく迎えてくれていると信じてみる。

小休止Ⅲ

朝の坂手をひとまわりしてから、7:30のフェリーに乗った。ゆうべにぎやかだった坂手の道は、ぽっかり明るく静かだった。散歩をしている人もいなかった。夜には時々、おしゃべりをしに出歩いているおばあちゃんなども見かける。カートを押し押しうつむいて歩く、うつろな人にも会うのだけれど。

明石大橋を越えて、もうすぐ神戸に着くという頃になって、やっぱり展望台から海を見ておこうと思った。展望台には先客がいた。カップルが一組、それから女優のSI嬢だった。私は昼間のジャンボフェリーでは、モナカアイス(自動販売機で売っている)を買って食べるのをならいとしているので、この時もアイスを手に持って階段をのぼっていった。SI嬢は私の持っているアイスを見て、いいですね、と笑ってくれた。空は快晴で、さっきまで聞いていた歌などうたいながら、そのまま海を見ていた。白く水面に残る航路の跡の向こうに、島があるのだなと思った。後ろの方で、カメラのシャッターを切る音が聞こえた。

降りる時に、京都の大女優MJ嬢と行き会った。そのまま3人で京都まで連れ立って行くこととする。MJ嬢がカフェオレを飲みたい、と言うのでセブンイレブンに寄る。私はバターロールと麦茶を買った。京都までの電車は遅れていて、電車を待っている間、初めてゆっくり3人で会話をかわした。島では演劇の準備があったし、夜になれば酒が入るし、なかなか余裕がなかったのだ。京都に着く頃、MJ嬢はカフェオレ気持ちわるい、もういらない、と美しい京都のアクセントで言った。故郷に戻ると、血液が入れ替わるように、体内の言葉も巡るのだろう。MJ嬢は、出町柳にある豆大福の名店「ふたば」が、今日は伊勢丹に出店しているから行こうかな、と迷っていた。でもこんな暑い日に大福食べたくないな、と袖なく結論づけた。いつでも「ふたば」の豆大福に手の届く距離にいる人の、余裕を感じた。MJ嬢はそのあと丁寧に、おすすめの銭湯と、そこに行くための市営バスの番号を教えてくれて、実家へ戻っていった。私は、SI嬢とふたりでラーメンを食べて別れ、銀行や郵便局で用事をすませた。

下鴨の劇場で、Fが、政治と芸術の話をするための集まりを企画しているので、夜はそれに参加した。打ち上げにも行ったけれど、私は途中で島に帰らなければいけなかったからジンジャーエールだけ飲むことにした。疲れていたし、今の私の言うことは別の銀河の言語みたいに響きそうでうまく話せないと思ったので、店ではずっと黙って、考えに耽っていた。隣に座ってくれた子も、そのことを了解してくれたようだった。だから来ていた人とは喋らなかったけど、顔を見て、微笑んで、うなずいてきた。違う星に住む人にも、そうやって気持ちを伝えることはできるだろうから。

2016年8月24日水曜日

ある日(海、目)

日曜日の朝、横浜から来てくれた客人たちが港に勢ぞろいしているのを見て、麗しのニーナが「あれれー、ここは横浜かな?」と抱いている息子に語りかけた。息子はうれしそうにして、ニーナの胸に抱きついていた。海はすべての人をつなぐ、と教えてくれたのは16歳の時の、友だちのボーイフレンドだった。鎌倉育ちのその友だちとボーイフレンドは、週末ごとに海でボディボードをしていると言っていた。友だちとは、イギリスで出会った。彼女はボーイフレンドとけんかしたまま日本を出てきて、イギリスのサマースクールに参加していたのだった。ある日、「ちょっと見てよ、何これ」と言いながら、ボーイフレンドから来た手紙を見せてくれた。そこには、彼女を気遣う言葉がほんの少しと「いつも一緒だよ。だって、海はすべての人をつなぐんだからさ」と書いてあった。16歳だった私は、それまでぜんぜん海で遊んだことがなかったし、海のある日常に生きたことがなかった。だから、まあすべての人をつなぐっていっても、そんなものかな、イメージはわかるけど、くらいに思った。私がこのことをわかるためには、ふたたび16歳になるのと同じだけの年月を経る必要があったけれど、今ならわかる。海をわたる船、見晴らす先の島々、架けられた大きな橋の先でみんな結ばれている。友だちとボーイフレンドは、結局彼女が日本に帰ってから仲直りして、1年後に別れた。

早朝から喫茶にゆき、今日のぶんのカレーを40人分つくった。これだけの量になると、レシピを倍に倍に増やしていっただけでは味が整わない。最終的に味を見て、舌の上で分解し、調味料とスパイスを混ぜ合わせて足した。

お昼から15時まで休みをもらったので、Fを連れて土庄港付近の展示作品を観に行った。道中、車内で口論になって、うるさいから道ばたに捨てていこうかと思ったけれど、慈悲の心を持って最後まで乗せていった。駐車場が見つからないことにあせってしまって、そのことに気分が塞いだ。日陰のない、迷路のような道を進み、民家にほどこされた展示を観た。子どもたちが喜んで、声をあげながら楽しんでいるのが印象的だった。視覚の操作、注意の引き方の完璧なデザインだった。帰り道、Fが日本酒の醸造所に寄りたいというので細道に入った。駐車場をまた間違えてしまい、落ち込んだ。Fは午後のフェリーで島を去っていった。

エリエス荘の入口でスイッチリーダーに会って、島でのたがいの健闘を讃えあった。「いい表情ですね、憑き物が落ちたような顔してる」とスイッチリーダーが私に言ってくれた。たまたま母にそのことをメールすると「それはよかったわね。海はいいわ」と返事が来た。私が物心ついてから、母と海に行ったことはない。彼女が思い浮かべている海は、いつの、どこの海なんだろう、と少し考えた。

フェリーが入港するのを見る時いつも、こんなに大きな船がどうして小さな乗降口のタラップに照準をあわせて停泊できるんだろうと不思議に思う。乗組員たちが、綱をかけて船を引き寄せ、着岸させているのを見て、やっぱり最後は人の力なんだな、と思う。フェリーは2隻あって、絶え間なく神戸と坂手、高松を往復しているので、働きすぎが心配になる。そんなことも、毎日毎日フェリーを見送る生活をしなければ気づかなかったことである。今も、夜中に何度も目が覚める。でも、胸をはって生きていたい。いつかもっと元気になった私を、坂手の人に見てほしいなと考える。

夕陽が少し濃くなって、これは秋なんじゃないかな、と思った。朝夕の風が涼しくなっている。今日は海がきらきらしてたやろ。太陽でな、海がきらきらしたら、もう秋やで。夜の喫茶にビールを飲みに来てくれた谷さんが、にっこり笑って言った。

ある日(初日)

新しいこころみとして、音楽を聴きながら眠ってみた。眠ることはできて、それはよかった。昨夜からの頭痛が続いていて、早起きがうまくいかなかった。Fが来て、やはりペースが乱されているのかもしれなかった。Fがいると心がひとりにならず、休まらない。それがいい時もあるし、うまく言えないのだけれど、今私は本当に静かに暮らしたいから、彼がそこにいるだけで放つ熱量に当てられるのかもしれなかった。朝ご飯をつくり、食べてから、喫茶を抜け出して少し休んだ。普通の幸せは遠いな、と思った。

きみが指を切る時はわかるよ、と言われた。気持ちがうわずっている、と言われて、それは違う、と思った。気持ちが落ち込んでいるから包丁を早く動かすのだ。それで指を切る。浮揚をあせっても仕方ないんだけど、出口がなくて包丁の切っ先にそれがあらわれてしまう。

エリエス荘の前の喫煙所に立っていて、風が止まったのを感じた。なるほど、ジャンボフェリーが港に入ると、海からの風が遮られる。それで、ライターがすんなり付くようになるのだ。

公演の初日にあわせておこなった喫茶の夜間営業はとても混雑した。氷や野菜がなくなって、途中で買い出しに行くことになり、ひとりで車を出した。道を歩いている観客、俳優がいたので、車のライトをそっと消して、峠を越えた。

2016年8月23日火曜日

ある日(太陽系)

Fが島に来て、三ノ宮にスーツケースをまるごと忘れてきたというので、午前、喫茶の暇な時間に土庄のファッションセンターまで連れていった。スーツケースを置き忘れるというのは私には理解ができなかったけれど、三ノ宮の港に電話して、保管の手配をした。ファッションセンターでは、運転手数料としてワンピースを一着買ってもらった。よほど申し訳なく思っていたのか、そのあとオリーブオイルのお店に寄ったら、グリーンレモンオリーブオイルもプレゼントしてくれた。

夕方、坂手に住んでいる画家をFに紹介するため、喫茶に来てもらった。Fは9月から2か月デュッセルドルフに滞在して作品をつくることになっていて、画家も同じ時期に同じ町へ留学が決まっている。ふたりはコーヒーフロートとビールを挟んで、会話がだいぶ弾んだようで良かった。喫茶はそのまま夜間営業に流れ、ゆったりした時間を過ごした。

その夜は、ままごとが行うきもだめしのリハーサルの日で、町の人が大勢来ていた。にわかに沸き立つ観光案内所の様子を見て、きーやんが「驚かす側を驚かしに行こかな」と言い始めた。「紐持って、蛇だぞ、つってな」と笑っている。そばで煙草を吸っていた画家は、最近龍の絵を描いているためか、蛇の話に興味を示した。蛇は湿気を嫌うそうだ。きーやんは言った。「道で蛇を見たらな、3日後に雨降るで」。へえ、つばめみたい、と画家は喜んだ。

夜遅く、喫茶を閉めてから、エリエス荘の食堂で劇作家たちと少しお酒を飲み、話した。劇作家の同期である照明家(聡明で料理上手である)が持ってきた海苔の缶は3つあって、それぞれに「塩」「味」「焼」と書いてあった。塩海苔、味海苔、焼海苔、という意味で、見ただけでそれはもちろんわかる。意味はわかるけど、くくり方の単位に違和感があるな、と考えていたところ、劇作家も同じように感じていたらしかった。だって塩って味の部分集合ですもんね、と私が言うと「パトカー・自動車・鉄、って並べて書いてあるのと同じぐらい、バラバラで違和感がある」と劇作家が答えたので、さすがのたとえだな、うまいな、と感動した。

夜、人間が光で起きて活動を始める仕組みについて、話題にのぼった。日の出日の入りや、月の出月の入りの他に、予想のできる天候事情ってあるか? と考えて、 ない、という結論になった。だからもし大雨や大風が的確に予想できたり、コントロールできたら、それを使った演劇も生まれるかもしれない。そして、もし太陽がふたつあったら、と目を輝かせて語る劇作家を見て、この人の宇宙への探究心は無限なのだなあ、としみじみ思った。

2016年8月21日日曜日

ある日(輝き)

盆明けの木曜日、急に暇になった。お昼に、このあたりに住むおばあさまを連れて訊ねてきてくれた孫がいた。おばあさまは、劇作家のファンなのだった。おばあさまに、カレーを、少しすくなめによそってさしあげる。ていねいに、おすわりになっている席まで運ぶ。カレーをたくさん召し上がってくださり、ああ、うれしい、とおっしゃって、劇作家とマスターの載っている雑誌を1冊買ってくださった。こんな素敵なもんが島に来とんのに見んなんて、あほやわ、と隣にいる孫にやら他の町の人にやら、おちゃめに言うのが可愛い。皆さん、あの幼稚園のところにいらしてねえ、帰ったら明かりが消えて、さびしゅうてかなしゅうてなあ。そうして話していくうちに、2年前に私が見た、小豆島でとある俳優がつくったお散歩演劇に登場した「かき餅」をつくってくれたのは、そのおばあさまだということがわかった。あの子、みさちゃんね、と嬉しそうに名前を覚えていてくださった。狭い町だから、人と人がつながるなんて珍しくない、ということが頭ではわかるくらいには、私はこの町になじんできた。でも、私の友だちでもある俳優に親切にしてくれたおばあさまの孫は、何も知らずに喫茶に遊びに来てくれたわけである。喫茶をひらかなければ、2年越しにつながることもなかった縁だったかもしれない。長く演劇のことを考えながら生きていると、こういうご褒美のような嬉しさに出会える。もっと長く生きてみたいと、おばあさまの身の上の話を聞いて思った。おばあさまが、あなたのお名前ここに書いて、と嬉しそうにおっしゃったので、雑誌の最後のページにふりがなを付けて大きく書いた。

午後のパフォーマンスの時間では、ゆりちゃんにダンスを踊ってもらった。私の名前の由来についてと、好きなおしょうゆの食べ方を話すことで、彼女が想像した私の暮らしを踊ってくれるという。私は、自分の苗字がぜんぜん好きではなくて、今でも嫌いなんだけれど苗字だから仕方なく名乗っている。だから、本当は人に私のことを、名前で呼んでほしい。それなのに、話は苗字のもとである父親のことにおよび、結局紐解いてみると、私の好きなおしょうゆの食べ方は父親の食べ方のくせと同じだった。ゆりちゃんが「あなたのお名前はどんな色ですか?」と訊いてくれたので、名前の字を順番に「ちょうどそのワンピースの色と、次の字はそのラインのオレンジがかった黄色、最後の字はそうだな、この表紙のこの色」と言って、テーブルの上に置かれていた雑誌を指差して教えた。そうしてゆりちゃんがつくったダンスは、あんまり人と目を合わせずに、口に手を当てたりしながら、どこか遠くを見て、最後は壁にゆっくり隠れて見えなくなってしまう振付けだった。それで、何だか私は泣いてしまったのだった。自分のことを、自分で思っているより他人は分かっているものなのだけれど、そのことが改めて嬉しくて、驚いた。分かってもらえて嬉しいと感じるぶんだけ、普段どれほど人に期待していないか、鈍感であるか、まざまざと見せつけられたようだった。もちろん信じているし、自分の思い込みほど当てにならないものはないと知っているけれど、ダンスを見て、よくよく思い知らされた。

制作スタッフのN嬢が、夕暮れ時に喫茶にやってきて、サザンオールスターズの『真夏の果実』を流し始めた。ラジオ番組のままごとを来週からしたいのだと言ってリハーサルをしている。海を知らない頃は、サザンオールスターズの良さがわからなかった。でも、海を見て聴くと、いかにサザンオールスターズが人に海を思い起こさせるかわかる。もはや、自分の中のイメージのせつなさが、海によるものなのかサザンオールスターズによるものなのか判別できなくなるほどだ。男は、短い恋の相手に「また逢えると言って欲しい」ものなのだろうか。私は、どんな夜も涙見せずに「もう逢えない」と言ってあげたい。

夜は満月だった。月の光で海は、鏡をこまかく砕いてばらまいたみたいにきらきら光っていた。Moon, Shine, Moonshiner と言葉遊びを口ずさむ。moonは月、shineは輝き。そしてmoonshinerは、アメリカの禁酒法時代の、密造酒を作る人という意味の言葉だそうだ。罪の味のする酒は、月をとびきり輝かせるということだろうか。私もできることなら、いつか酒が禁じられる世の中が来ても、太陽を受けて光る月を、もっと輝かせる人間になりたい。

2016年8月19日金曜日

ある日(劇作家)

夕方、花壇のバジルに水をやっていたら「バジルペーストの1人前って、葉っぱどれくらいあればできるんですか」と劇作家に訊かれた。バジルペーストは、葉とオリーブオイルと塩をミキサーにかけてつくるけれど、そうするとかなり嵩が減ってしまう。正直に「花壇のここからここまで葉っぱをとって、1人前ですかね」と言ったら劇作家は驚いて「そんなに少ししかできないんですか」と言ったので、つい「いや、もうちょっとたくさんできるかもしれません」と訂正してしまった。

夜になってから、劇作家がまた喫茶に来て、仕事をしながら少しおしゃべりしていった。
「カレーは700円で売ってるのか」としみじみ言う。「100杯売っても7万円にしかならないんですね」と相変わらず身もふたもない物言いをするのがおもしろく、好ましい。 今朝、クリームソーダが早々に売り切れてしまって、それはメロンソーダの上に乗せるラクトアイスが品切れになってしまったからだった。盆が終わるまで、島の酒屋にアイスは入荷しない。「島じゅうのアイスをクリームソーダに乗せてしまったわけですか」と劇作家は笑った。確かにそうだった。島の外からアイスを運んでこないと新しくクリームソーダはつくれない。「そう考えると島は不便っすね」と話を聞いていた朝日が言った。「でも日本全体で考えたってアイスクリームの材料を外国から運んでこないといけないわけだから一緒でしょう」と、あいかわらず劇作家は、世界の縮尺を自在に伸び縮みさせる。朝日が続けて脈絡なく「小豆島に映画館ってあるんですか」と訊ねた。答えは否。島の人が映画を見るためには、船に乗らないといけない。店を閉めてから換気扇を掃除してくれた朝日に、何かおいしいものでもつくってあげようと思って、たべものは何が好き? と聞いたら「ラーメンっす」と言われた。朝日はそういう子である。ラーメンは、さすがに私でもつくれない。

明日は満月という日で、胸がざわざわして眠れなかった。車を借りてひとりで買い物に出たので、帰りに浜まで月を見に行った。東の空に真珠色をしてのぼった月は、西の空に珊瑚色となって沈む。

2016年8月17日水曜日

ある日(休み、恋)

見かねたマスターが昼間に休みをくれた。昨日に続き、また包丁で指を切ったからである。今度は親指をやってしまった。あとで見ると結構深く切ってしまっており、治るまでには時間がかかりそうだった。エリエス荘に戻る道すがら、地元の人間をよそおい、大阪から来た夫婦に道を教えた。喫茶の外でも私のままごとは続いている。

エリエス荘の食堂にいたゆりちゃんと話した。私がぼうっとしていると「何か探してるの?」ときゅうに言われたので、昨日買ってきてもらった水のペットボトルを探しにきたことを思い出した。でも、冷蔵庫に水は見つからなかった。「じゃあ、買いすぎちゃったから、これ」と言ってゆりちゃんは、2リットルの水とサンペレグリノをひと瓶くれた。 

午後の喫茶はたいそう混んだらしく、私が休憩から戻るとみんな無言で皿を洗っていて、申し訳ない気になったけれど、他人が働いているからという理由だけで自分も働くのはやめると決めた身なので、すまして普通に仕事に戻った。若い大学四回生も、朝日のようにきらきらした男の子も、よく働くし、まじめでかわいい。

夜は知らないうちに雨が降っていた。「洞雲山から風が吹くと雨になるんよ」と、いつだったか畑の帝王が言っていたのを思い出す。たいした雨量にはならずに、地面を湿らせただけで終わった。

ひところ、海辺の町に駆け落ちすることばかり考えていた。海のある場所でなければ、駆け落ちするような心持ちを支えられない。奥深い山に隠れるのはつらすぎる。風が抜け、流れる時間を信じられる場所でなければ、道ならぬ恋は貫けない。そう思っていた。30歳を過ぎるまで、ろくに海を見たことがなかったくせに、今ではひとりで夜の海にだって行く。 海を見ながら大人になった子はどんな人になるんだろう、と考えて、今、自分の目の前にそういう大人がたくさんいることに気がついて、ああ、こういう大人か、と思う。

島に住む人は、どんなふうに恋をするのだろう。だって、ここで恋をしたら、逃げ場がない。ここに駆け落ちしてきたって人目をしのんで暮らすのは難しいだろう。瀬戸内海は島が多くて、陸が見えなくなることがない。それなのに島々は小さく切り離されていて、何もかも知られてしまう。悟られたくない気持ち、隠しておきたい関係を、どう見ないふりをすればいいのだろう。相手の親や友だち、近所のひとにもうっすら知られながらおこなう性行為は、秘密の好きな私には難しいように思える(それが透けていようがいまいが、人に話していないことは私にはすべて「秘密」である)。港のある暮らしに慣れかけていて、人ごみに紛れて恋をすることを忘れそうになっている。「渋谷のラブホっていうのは人ごみの象徴だけど、田舎でラブホに行くっていうのは人里から離れるっていう意味だからね」と、話してくれた子が昔いたけれど、彼がどうしているのかは今となってはわからない。小豆島にはラブホテルがないし、レンタルビデオ屋も映画館も劇場もない。女とギャンブルが男の二大テーマと仮置きしたとして、パチンコ屋はふたつもあるからいいけれど、女とすれ違うための場所が島にはないように見える。少なくとも、私の今のところの身体感覚においては。

ある日(眠り)

マスターが花壇のハーブをかわいがりすぎて、ハーブに話しかけるようになった。 シャーベットに飾るミントの葉は花壇から摘んでいるのだが、マスターはミントに「お前、いい仕事してるよ」と言いながら水をあげている。おかげでミントは喜んで葉を伸ばし、シャーベットをつくるのには困らない。

祝う祝わないは別にして、この人の誕生日を忘れてしまったら自分の人生はちょっと違う段階に入るだろうな、という人がいると思う。そういう人は何人かいて、何人もはいないんだけど、まあいる。つまりこの日はそういう日のひとつで、おそらく3年ぶりに、直接おめでとうという連絡をした。

午前中はオフで、午後から集まって買い出しに行く予定だったけれど、起きられなくて付いていくのをやめた。 むし暑い部屋で、昼に夜を継いで眠り続ける覚悟で、記憶をなくしそうになっていたけれど、花火に誘ってもらったので出かけることにした。大きな祭りの会場で花火を見た。2000発の花火は、ゆっくり大切に打ち上げられた。帰り道、誰かが落としたタオルを拾った。

花火が終わると、誕生日のメールに返信が来ていた。「今年は変化の年」だそうだ。

2016年8月15日月曜日

ある日(海辺の盆踊り)

5時半に起きて、早朝に墓参りをする人々を海の側から眺めていた。みんなが、山にある墓にのぼっていくのが見える。はじめは音楽を聞きながら見ていたけれど、お線香の匂いがするのでイヤホンを外すと、人々の話し声が海まで聞こえてくるのがわかった。日が高くなってから、けさお墓参り行ったんですか、といろんな人に聞いてみると「出かけるから昨日済ませた」とか「行ったよ、でも昔よりも人減ったわ」とか「親は行ってたけど僕は寝てた」とか、さまざまでおもしろかった。

盆踊りに行った。坂手の人が200人ほども、集まっていると教えてくれたのは谷さんだった。来月デュッセルドルフに行くという画家や、かつて下北沢で演劇をしていたという女性と話をした。今はねえ、こんなふうに若い人がいろんな表現をする方法があるからねえ、それはいいことだと思うわ。だけど、彼女の目はどこか遠くを見ていて、寂しげだった。いいことだと思いますか? ええ、ええ、いいことだとは、思うわ。

これだけの人々が、故郷たる坂手を愛しているのかと思うと目が回る。もちろん愛憎無関心、人それぞれあるのはわかる、わかるけど、少なくとも坂手という拠り所がここにはある。私はいつでも、故郷への愛着と客観の両方を獲得した人が好きだなと思う。Uターンして出身地で新たな仕事をしている友だちが「昔は地元に帰省しても、ああ帰ってきちゃったなあって思ってたけど、今は帰ってくるべきところに帰ってきたと思うわ」と、いつだか話していたのを思い出す。大切にすべき人を大切にできる人はそれだけで素晴らしく、そこに虚しさを感じていようが何だろうが、ともかくそれができるなら、それは価値のあることだ。私が何のことを言っているのか、わからない人はわからなくてよろしい。自分のことだ、と感じ入る人は全員、感じ入ればよろしい。ああ、いいなあ、と思う。いいなあ、というのは、私にはできない、できなかった、これからもできないかもしれないという不安で、 見よう見まねで坂手の盆踊りを踊りながらどんどんその気持ちが大きくなってきて、ああそうか私には故郷がないんだなと思った。子どものころ、盆踊りで太鼓を叩いたことも合いの手を入れたこともないし、そもそもお祭りに一緒に行くような友だちはいなかった。いたのかもしれないけれど忘れたならいなかったのと同じことだ。同じことじゃないことはわかっているけれどともかく、いない。故郷がないということは帰るところもないし、待っている人もいない。いいや、そんなことはないでしょう。わかるわかる、わかってるよ。大丈夫なんだよ。ただ誰と話していても、体の半分がいつも失われてるだけなんだ。 君はすぐ話をそらすね、と、けっきょく思い出す言葉は昔他人に言われたことばかりである。違う違う、そらしてるんじゃなくて、いろんなことをいっぺんに考えているの。そう答えたけど、自分の頭で考えたことなんかすぐ忘れる。別に嘘じゃないけれど、だってあんまりいろんなことがたくさん起きるから、心も体も背負うには重すぎて、だから上手に踊れない。

盆踊りはぜんぶで三回あって、三回目の踊りを踊るとくじがついたうちわがもらえる。だから三回目までしっかり踊りや、とおっちゃんに言われたのでそうした。それで、キッチンペーパーとゴミ袋が当たった。嬉しかった。おっちゃんが箱ティッシュの当たりうちわもくれた。嬉しい、嬉しい、これで涙も寂しくない。私の涙は私が知っていればいいし、理由も私だけがわかればいい。誰かが恋しくて泣くのではない。そんなことで泣いたりしないから大丈夫。キッチンペーパー、こんなにたくさんあるし、みんな優しいし、島で泣く理由なんかひとつもない。もう毎朝エントランスのソファで寝たりもしない。私、俳優じゃないんですよ、物書きなんです。説明しながら、昼間に喫茶で、劇作家が私だけにかたってくれた物語を思い出していた。新たな扉にぶつかった時、主人公は、それまで大切に持っていたペン先を外して錠前にねじ込んだ。扉の先に何があったかは、私と劇作家だけの秘密だ。

広場をあとにしてエリエス荘まで帰るのに、谷さんと一緒になった。谷さんと話しながら、彼が歩きスマホしながらポケモンにえさをやり、モンスターボールを投げて捕まえるのを横からじっと覗いていた。ポケモンはモンスターボールから逃げ出して「あっ、失敗や」と谷さんが言った。私は、半世紀先の盆に、自分の魂はどこに帰るんだろうなとじっと思っていた。谷さんがまたボールを投げる。今度はうまくいった。

ある日(盆の前日)

珍しいので、お盆の風習をいろんな人に訊ねている。坂手では、14日の早朝に墓参りにゆくため、前日に掃除をしておくのだと言う。だからこの日の夕方は「墓掃除してくるわ」と言って早めに喫茶を出た島の人もいた。畑の帝王に訊ねると、他にもあれこれ盆の慣習を教えてくれた。彼は、島にやってくる甥や姪に会えるのを楽しみにしているようだった。

「劇場を作ろうとしたら喫茶店になりました」、と喫茶の入口には掲げられている。演劇でなければ目を留めない人がいるのと同様に、喫茶をやっていなければ出会えなかったお客さんもたくさんいて、 たとえば昨日私たちをカレー屋に連れていってくれた青年なんかもそうだ。昨日は、喫茶の片付けをしている私たちをずっと席で待っていてくれたのだけど、その時にちらっと「学生時代の、居酒屋バイト仲間の終わり待ちの感覚を思い出します」と言っていたのが印象に残っている。その時彼はバイト仲間を待つ学生だったのであり、私たちは厨房担当のフリーターかなんかだったのである。さまざまな記憶を喚起させ、撹拌するのが、劇場の役割のひとつである。蓋然性を高め、誘発すること。そんな話をずっと考えていて、夜に酔っぱらって、いつおさんに力説してしまったのをあとで思い出した。まずい。酔ったらくだらないことだけ言うのが信条なのに、自分の話をしてしまったなんてつまらない。

劇団のメンバーが島に来た。喫茶でパフォーマンスを売ると言う。飲んだり食べたりしなければ人間は生存できないけれど、必ずしもなくても生きられる(とされる)パフォーマンスを、飲みものや食べものと同じ列に並べて売るのは大胆な態度だと思う。その姿勢はしなやかで、内側までみずみずしい。また書く機会もあるだろう。

煙草の量が増えてしまっている。海を見て、考え事をしたり歌をうたったりする時間が増えているからだ。これまでも3mgのものをたまに吸っていたけれど、先月、ひさしぶりに再会した友だちの真似をして6mgの銘柄に変え、それが島では手に入りにくいから、今は8mgのメンソールになっている。どこのコミュニティでも、女の人は誰かの奥さんであったり、誰かの娘であったり、そういう感じになるものだ。でも、そういう、ある意味すぐに説明できるような枠組みに属していない女の人が、この島では煙草を吸っている。そういう感じがする。仲間はとても少ないけれど、煙の合図ですぐわかる。今のところは女に生まれてよかったかな、でも、少し男にもなりたかったな、と未だに考える。眠る前には、ペディキュアを赤く塗り直す。昔坂手の港にあった灯台みたいに、行く先を照らしてほしいから。

2016年8月14日日曜日

小休止Ⅱ

犬島まで行くことになった。直前まで悩んだ。行く道はいいのだが、帰りの船がどうしてもないからである。船とバス、あらゆる時刻表を熟読玩味して、結局、岡山駅にゆき、そこに宿を取って翌日また小豆島の土庄港へ帰ることとした。坂手から土庄までは車で30分はかかる道のりなのだけれど、そこさえ何とかすればあとは交通手段が明確に定まっていたからである。犬島では、おみやげに鉛筆を3本買った。翌朝、岡山駅からはるばる土庄港まで帰り、マスターからの買い出し依頼にも何とか応えて、坂手まで戻った。

その日の夕方は、大部港に行った。きみちゃんが軽自動車で連れていってくれたので、行くことができた。そうでなければ行くことができなかった、と言ってもいいほどの山道で、途中は岩石の採掘で山肌がはでに剥き出しになっていた。きみちゃんはそれを見て「ここ、県に無断で採掘しよんねん。現状復帰命令出とるけど、無理やんな」と言った。こんなはでな採掘を無断でしていいのか、いや、だめだから行政処分がくだっているんだろう、と思った。大部港について、造船所跡で演劇を観た。客席では子どもがかき氷をたべ、犬が伏せてまどろんでいた。太陽と同じように、月も水平線に沈むということは知っていたけれど、それを見たのはその日が初めてだった。

海運業の青年がまた来て、マスターとしばらく話をし、みんなで隣の隣の隣くらいの町にあるカレー屋に行こうということになった。運転は青年がしてくれた。その帰り道に、旅行中の若者をひろって車に乗せたり、スーパーマーケットに寄ってもらったり、いろいろあったのだけれど、喫茶まで送り届けてもらったあとで一緒に行った大学の四回生が、iPhoneをなくしたと言い出した。喫茶のどこにもないと言う。もしかして、と彼女が言うので、先ほど交換した青年の名刺の先に電話をかけ、後部座席に落ちていないか訊ねると「ありましたよ」と折り返しがあった。それで四回生とふたりで、自動販売機の近くのガードレールに腰掛け、青年が戻ってきてくれるのを待った。迷惑をかけることを恐れない。そう思いながら、ふたたび現れた車の青年に「本当にありがとう」とお礼を言った。普通ならここで相手は「見つかってよかったですね」などと言うだろう。しかし青年は開口一番、にこやかにこう言った。「あのな、島でiPhoneなくしたってどうってことないんよ、絶対に見つかるもん」。島の面積を、みずからの身体感覚に引き寄せた物言いに、思わず感動したけれど、それを伝えることはできなかった。

2016年8月10日水曜日

小休止Ⅰ

実はこれ書き上げてやめようかと思ってたらしいんですけど、という言葉に「いいえ、こんな作品書いちゃったら続けるしかないですね」と答えたら、彼女は「残酷ですねえ」と言ったのだった。彼女と会うのは二度目だが、私のことをよくわかってくれているんだな、と思って信頼している。

京都の東西南北と、通りの名前の感覚が、まるで自転車に乗れるようになった時のように急に、身についたような気がする。「どうやって帰らはります? もし何ならここから三条までくだっていただいても」と薬剤師に言われた時「くだる」という言葉がぐっと腑に落ちるのを感じた。四条烏丸という交差点は、四条通りと烏丸通りが交差するからその名で呼ばれている。その交差点で待合せをしていて、自分のいる位置をどう告げればいいのか、「北西」と言えばいいのだろうか、と思案していると、待合せ相手から先に「北西にいます」とメッセージが来たので、自分の考えが合っていたことが分かった。だから彼とはすぐ会えた。

その日は琵琶湖の花火の日で、山陽本線の最終電車は騒がしかった。高槻、大阪あたりでぐっと人が減って、三ノ宮で私が降りるころには車内の人はだいぶまばらになっていた。フェリー乗り場までゆくバスは混んでいて、なんだか乱雑な雰囲気だったので少し疲れた。フェリーは出港が遅れていて、そこから先は時間がもうわからなくなってしまった。でも、薬を飲んでタオルをかぶって寝てしまえば何とかなる。眠りに落ちる手前で耳を澄ますと、船底から聞こえてくる音が変わっていたので、あ、エンジンが今かかったなと思った。これが船のエンジンの音。知る前と知ったあとでは世界が変わる。そういう境目に、その時私はいた。

2016年8月9日火曜日

ある日(夜間営業)

「ままごとさん、いつもお世話さまです」という声で振り向くと、カレーを食べ終えた男性が、食器をさげてくれるところだった。顔を見て、あ、と思った。先日、兄弟で訪れてくれた客のお父さんだとすぐにわかったからだった。「息子がおじゃましたようで」と言ってくれたので、こちらこそ、とお礼を述べて少し話した。昨年、島で初めて演劇を観たおばあちゃんの話をまた伺い、おばあちゃんに会ってみたい気持ちが募っている。

美大生の看板は完成し、喫茶の表や中をみごとに飾っていた。その効果が出て、客がいっきに増え、売れ行きがあきらかに変わった。美大生が描いてくれた絵のおかげでイメージが湧くようになったのか、アイスクリームを乗せた飲み物が多く売れるようになった。クリームソーダは年配者の郷愁と子どもの贅沢心を誘い、コーヒーフロートは大人たちのちょっとした憩いになっている。

つまみを作って、夜間営業の時間を待つ。フライドポテトにバジルを乾燥させてふりかけてみたり、アボカドをディップにしてチキンといっしょにホットサンドにしたりした。夕方、今日のイベントに登壇する演出家と俳優が喫茶に到着して、司会をつとめるマスターと打合せをしている。島の人々がゆるやかに集まり、予定の時間を少し過ぎて会が始まった。おっちゃんから小さな子どもまで来てくれて、お酒やつまみの売れゆきも良好だった。都市とは違う聞き手たちに文脈が伝わらないのでは、と不安になる場面もあったものの、会は、演出家と俳優の戯曲抜粋朗読で、ゆたかに締めくくられた。会が終わってからカウンターにビールを買いにきたきみちゃんが「さっきの朗読聞いてな、わし、死んだ伯父のこととか思い出して、涙出そうになったわ」と言ったのが、何よりの証である。

喫茶を閉めてからは、エリエス荘に移動して酒盛りが続いた。島の人々も、ひさしぶりの宴に嬉しそうだったのが印象的だった。東京ではこれまで出会えなかった演出家とじっくり話すことができた。最初は作品にあれこれ口出しされて困っちゃったんだけど、最近、港町の人たちが「演出家」っていう職業を認識するようになったんですよ、皆があれこれ口出しするのは変わらないんだけど、最後に「まあ決めるのは演出家さんやからね」って言ってくれるようになった、という話がいちばんおもしろかった。それから、名前だけは知っていたある島のおじさんとも直接喋った。コミュニティができるということは、仲間はずれができるということである。そして、ある人々にとって芸術は鑑賞するものや人生の糧にするものではなく、所有することに価値があるものである。だから言われたんよ、現代美術が何や、アーティストなんか歓迎するのに何で税金使うねん、あほらし、ってな。お金落としてくれる観光客のためにこっちが金使わんでどうするって言われるんやけどな、アーティストがおるから観光客がそれを観に来てくれるんやないか、なあ。わしら3年前はこうやって毎日飲んどった。でもな、そういう輪ができたら、乗り遅れる人らが必ずおるねん。アートアートってな、言い過ぎてもあかんねん。そんな話をしながらも、彼らはたとえば、3年前からずっと島を訪ねている俳優ゆりちゃんのタフさやパフォーマンスの引き出しの多さに脱帽し「あの子はすごいな、柴さんはあの子おらんとだめやな」と笑って、最大の賛辞を送るのだった。

2016年8月6日土曜日

ある日(乗り合い)

マスターは朝、坂手の婦人会の集まりに行って、町内で回す回覧板の説明をしに行った。来週、劇団のメンバーが来て、演劇をつくる活動を本格的にはじめるので、回覧板で協力をつのるのだ。劇団員の俳優の手書きの回覧板で、メンバーの似顔絵が随所に入っていて、かわいいうえによく似ている。喫茶のお知らせのところに、恐れ多くも私の似顔絵も描いていただいてあって、ひっそり写真に取って保存した。マスターにあとで聞いたところによると、婦人会はお知らせをする場だけでなく、住民たちのレクリエーションの時間でもあったようだった。レクリエーションの様子を見ると、演劇やパフォーマンスにできることの多様な可能性を、切実に考えざるをえないようだった。

カレーは出色の出来だった。夕方に立て続けに売れることがあり、お昼を過ぎたからといってあきらめてはいけないことは、何となく学んできた。

いつおさんが久しぶりにやってきて、暑がっているので氷をあげた。人の少ない時間帯の喫茶で涼みながら、マスターを交えて話す。ちょうどジャンボフェリーが着く時間で、港には車が並んでいた。車がフェリーに乗り込むための巨大なスロープが港にはあって、いつもはまっすぐ登っていく車が、なぜかバックでそのスロープを走らされているのが見えた。「たくさん乗せる時は後ろ向きに入れるのかな?」といつおさんが言った。「さあ」とマスターはどうでもよさげに答える。ふしぎな光景なので、しばらく見ていた。長い坂道をバックで運転してフェリーに乗り込むなんて、私だったら嫌だ。かわいそうに、とドライバーに同乗しながら見守る。おそるおそる登っていく赤い車を見て「ああ、そこ切らなくていい、右だよ右」とか「そのままそのまま、ハンドル戻して」などとみんなで励ます。赤い車が何とかフェリーに乗れた時は、一同ほっとした。そのあとのシルバーの車は、おのれの運転技術を見せつけるようにすごいスピードで坂道をバックして、乗り込んでいった。

閉店まぎわ、ひとりの女性がやってきた。カレーとビールを買ってくれた。オリーブ公園の近くのユースホステルでバイトしていて、今日の夕方だけ時間があるので坂手に観光に来たという。馬木からお兄さんが車に乗せてくれて、ここまで来ることができたそうだ。話を聞いていると、車に乗せてくれたお兄さんは「ここの2Fの喫茶で話を聞けば何とかなるよ」と言って、彼女をこの建物の目の前で降ろしたらしい。「黒く焼けてめがねをかけた人でした」と彼女は言う。あれこれ坂手の見物先の世話を焼いていたマスターが、その言葉を聞き、携帯電話のカメラロールを出して「……それはもしかしてこの人ではありませんか」と訊ねると、彼女は「あっ、そうです!」と顔を輝かせた。馬木から彼女を乗せ、喫茶に放り込んだのは、マスターの悪友、スイフの主人ことM氏であった。マスターは苦笑して、夕陽のいちばん綺麗に見える物見台への道を彼女に教えた。彼女を送り出し、物見台に着いたと思われるころ、沈む陽は海におだやかな光の綾を投げかけ、茜と薄紫のグラデーションの空は、艶やかな色をだんだんと濃くしていった。二日目の月が糸のように細く光りはじめたのは、それから1時間後のことだった。

2016年8月4日木曜日

ある日(兄弟)

ついに美大生から「もしかして、朝エントランスのソファで寝てませんか」と訊ねられた。「毛布かぶってるから顔わかんなくて、男の人かと思って最初びっくりしたんですけど、よく見たら」と言われたので、驚かせてごめんね、と謝った。美大生は、たまに朝の散歩に出るのだが、その時、ソファにいる私を見かけるらしかった。別に寝てはいないのだ。朝いちばんのフェリーがやってきたら、どうせアナウンスやらエンジン音やら、うるさくて眠ってはいられない。ただ死体みたいに横たわって、窓からひろく見える海を眺めて、あ、今人生でいちばん海のそばに寝ているかも、などとくだらないことを考えている。そういえば昔、ふとんを外に引っぱりだして月を見ながら眠ったことが一度だけあるなあ、とか。

昨日の、ダックスフントを連れた青年がカレーを食べに来てくれた。事務所がすぐそこなので、と彼は言った。12時ちょうどのお昼時は、喫茶はいつもぜんぜん混まない。「みんな、お昼には何か食べるはずなんですけどね」と青年が苦笑するので私は、島の皆さんはお弁当持っていらっしゃるのかしら? と返した。

青年は海運業なので、船に詳しかった。仕事の話や、フェリー船体の耐用年数、坂手港のフェリーが他の港と何が違うか、今後も航路を確保するための戦略などを次々わかりやすく教えてくれた。青年は小豆島育ちで、物心ついた時には、エリエス荘(青年はかつての名称、サイクリングセンターと呼ぶ)は廃墟に近かったという。ジャンボフェリーが就航したのは5年前で、それで坂手がいかに変わったか、しみじみと教えてくれた。のんびり育った彼も、高校時代には坂手の町に何も感じ入ることがなくなり、早く出て行くことばかり考えていたそうだ。子どもを育てるにはいい。でも、競争することを知らないままになるだろう、小学校も中学校も、高校も、どんどん統廃合されていくから、と彼は言う。彼は、島の暮らしにまつわる実感を言葉にするのが、とても上手だった。

もっしゃんがカレーを食べにきて、「あ」と海運業の青年をみとめ、あいさつを交わした。 顔見知りらしかった。生まれも育ちも坂手であれば当然であろう。結局、青年の昼休みいっぱい、客は彼ともっしゃんだけで、ゆっくり話せて楽しかった。マスターは彼が帰ったあと「何年も来てるけど彼には会ったことがなかったな」とつぶやいた。「長くいないと出会えない人、いるんだな」とも。

午後、男の人がひとりやってきて、りんごジュースを注文した。彼が財布を出しながら「弟から『ここの喫茶がおもしろいから行くといい』って言われたんですけど」と言ったので、私は顔をあげた。昼時の海運業の青年の、兄だった。似ていない、と思ったけれど、それは職種と住む場所の違いだろうか。 兄は久しぶりに、生まれ故郷の坂手に戻ってきているらしかった。彼はマスターとも喋って、話がだいぶ弾んだ様子で、しばらく店内の様子を見てから、じゃあ夕方にまた同級生と来ます、と言って帰っていった。その同級生は、マスターもよく知っている女性で、 小豆島で仕事をしている、醤油ソムリエ・編集者なのだと言う。

午後はしばらく忙しく、フェリーの出航の時間にあわせて店は混んだ。カレーも無事売り切れた。

数時間後、兄が醤油ソムリエ・編集者とともに店を再訪した。折よく、もっしゃんたちが、あさっての喫茶でのトークイベントのために機材を持ってきてくれたところだった。醤油ソムリエ・編集者はもっしゃんとも仕事を通じて知り合いで、喫茶には束の間、わっとおしゃべりの花が咲いた。

「もっしゃん、この子誰かわかる?」と彼女がいたずらっぽく、隣に座る彼を指すと、もっしゃんはしばらくぽかんと彼を見つめ「ああ」と、彼の名を口にした。「今どこにおるん」と懐かしそうに言う。「わし、あんたんとこの弟と昼間カレー食べよった」と言うと、兄はほそぼそと自分の近況を説明しはじめた。私は、今まで演劇や映画でしか知らなかった「故郷にひさびさに帰り、地元の人から声をかけられて少し居心地悪そうにしながらも照れと懐かしさの入り交じる複雑な表情で受け答えしている人」を、初めて見た。口に手を当て、ここに喫茶という名の劇場がつくられた意義を、あらためて思い起こしたりした。この喫茶で「上演」されるのは、劇団やマスターが意図したことだけではなくて、あくまで偶発的な出会い、副産物としてのドラマでも、あるのだった。

彼が店を出る時に、またお会いしましょう、と言うと、兄は、明日の朝港を出て今住んでいる場所へ帰るのだと言った。でもまあ、日本のどこでまたお目にかかるかわかりませんから、と言うと、確かにそれもそうですね、お互いこんな仕事ですしね、と言って握手してくれた。

2016年8月3日水曜日

ある日(犬たち)

落ちている虫はいつも、たった今空から落ちてきたみたいに突然目の前に現れる。朝、花壇に水をやっていたら、くわがたが落ちていたのでびっくりした。コンクリートの下で堅い背中をひろげて、何とか飛ぼうとしている。でも、ここでは飛んでもどうにもなるまい。ちょっと迷ってシャベルを差し出して登らせ、花壇の上に乗せてやった。花壇に降り立ったくわがたは、シャベルを威嚇しようとしてはさみを振り上げている。大丈夫、君を攻撃したわけではないんだよ。でも、ここからもう一度飛べるかどうかは君次第だよ。話しかけながら、一度コンビニに行くためにその場を離れた。くわがたのことは天にまかせた。何かを日の当たる場所へ引きあげたつもりでも、それによって干からびさせてしまうことはめずらしくない。

コンビニでは、買うべきもののほかに、会計を別にしてまゆ墨を一本買った。このコンビニで売っているまゆ墨が、綺麗に描けるので好きなのだ。喫茶の花壇に戻ってきたら、くわがたはいなくなっていたので、飛んでいったのだろう。

昨夜友だちと虫と動物の話をしたからだろうか、今日は虫に縁があった。昼間、窓に何かがぶつかる音がしたので見ると、ベランダにあぶが落ちて暴れていた。このままひっくり返って起き上がれないでいると死んでしまうだろう。どうしようと思って見ているうちにあぶが動かなくなりかけた。シャベルに引っ掛けて拾いあげると、まだ生きている。ふっとシャベルを振ると、あぶは再び、飛び立っていった。ここで死ななかったのは私が助けたおかげではなくて、もともとのあぶの運命だったのだと思う。

そういえば島に来てから健康だし、いちおう早起きできているし、目立つ失敗をしていないな、と思って怖くなった。そのうち取り返しのつかないことをしてしまうんじゃないだろうか? 今のところ、小さい失敗はいくつかやっている。たとえば、鍋をあけてすぐおたまですくおうとして蒸気で手の甲をやけどしたり(しかも二回連続)、アクセルとブレーキをほんの少しだけ踏み違えてオリーブの木に突っ込みそうになったり(同乗者なし)、畑の帝王の父の杖を流木だと勝手に思い込んだり(本当は山の原木)、しそジュースを冷凍庫で凍らせようとしたけれどフリーズバッグから漏れて冷凍庫を真っ赤に染めたり(お湯で拭いた)した。私は、自分では知ってるつもりでいたけど、こうしてかき出してみると本当に、失敗のパターンが同じでがっかりする。今日も、冷蔵庫の中で豆乳のパックをひっくり返し、中身をいったん全部出してすのこを洗い、庫内を拭く作業をおこなった。でも、その掃除を終えるまでは喫茶が暇で、掃除しおえてから急に注文がたくさん入ったので、繁忙な時間帯に冷蔵庫をよごさなくてよかったと、こころざしの低い安堵をした。

夕方は、このあたりを散歩する犬にたくさん会う。閉店して、店の外に出している看板を引き上げる時に、初めて会うミニチュアダックスフントの飼い主の青年と話した。喫茶は毎日やっているんですか、などというふうに話しかけてもらったので、おやすみの曜日やメニューについて説明した。青年の祖母は、昨年、島でおこなわれた演劇を観たのだと言う。「おばあちゃん、喜んでましたよ、あんなん初めて見たーって。ほんとに喜んで話してくれた。そう、去年の夏、小高でやったやつです」。マスターも階下に降りてきて、会話に混ざった。青年は島に住んでいて、数年前に家業を継いだと言う。今年はお客さんが少ない、と言う島の人は多い。みんな同じ印象と同じ焦燥感を、持っている。

県外から島に移住する人の話になって、青年が核心に踏み込んで説明してくれようとした瞬間に、近所のT夫人がパグのフーちゃんを連れて突如現れたので、話は中断した。フーちゃんはミニチュアダックスフントに会いたくて遠くから突進してきたのだ。フーちゃんは勢いがあって、フレンドリーすぎるあまり、いろんな犬にいつも突進する。「あんた、そんなんだからお友だちできひんのよ!」とT夫人に叱られながら、フーちゃんは風のように去っていった。 

若い移住者、増えてますよ、昔からの祭りとか自治体の活動にも誘って、成功している地域も島にあります、と青年はここよりも西の方の地区をいくつか挙げた。減る一方ですからね、外の人が来てくれるのはありがたいんですよ、いろんな意見がありますけど、と言う彼に、小豆島で育った子どもたちはどんな進路や就職先を選ぶのか訊いてみた。それによると、大人になってから島に戻ってくるのは、多くが自営業か公務員であるとのことだった。ダックスフントが道ばたの草、まさに道草をかじって食いはじめたので、青年は、じゃあ今度喫茶に家族で来ますね、と言って帰っていった。

7時ごろ、犬のスイフを連れて、主人であるM氏が来た。妊婦検診に行った妻の帰りを待つあいだ、われわれと話をしにきてくれたのだ。そこへT夫人が、今度はたねちゃんというトイプードルを連れてやってきた。フーとたねは性格が違いすぎて、一緒にお散歩ができないので、T夫人は日に何度も外に出る。T夫人の快活さとバイタリティは、犬も人も等しく救う。

M氏とマスターが、ビールを飲みながら何やら話し込んでいて、ぜんぶは聞き取れなかったけれど、M氏が「芸術祭におけるアーティストは現代のマレビトで、でも受け取り方は、地域の住人が選択している」という言葉が印象に残った。マレビトをどう解釈するか、どう生かすかは、土地の人にゆだねられている、だから何か押しつけることは、みずからをマレビトと称する人側の奢りかもしれない、 取捨選択の自由が受け手にはあって、彼らに選ばれたことだけが未来につながる、とM氏は言った。それを聴いて私は、住人というのも定義がむずかしく、いつからいつまで住んでいればいいのか、何歳から住めばいいのか、仕事は何をしていればいいのか、いろいろあるだろうから、やっぱり誰が何を考えているのか、もっと会って話してみたいな、たとえ傷ついても、もっともっとそうしてみるしかないなと思った。そして、それだけやっても会えなかった人たちのことを、忘れずに生きていきたい。

私がそんなことを考えている間も、スイフは喫茶の外でおりこうに座って、時折顔をあげて主人の様子をうかがっていた。